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2-④



「飯、食わないか」

 一瞬、執務室内の時が止まった。

 夜の九時。繁忙期でもないから夜間待機要員以外はすっかり帰宅して、こんな時間に窓口に来るような市民がいるわけもないからゆるゆるとした空気が流れていて、そこに突然だったから。

 その光景をいちばん間近で見ていた高階は、目を輝かせている。

 が、話しかけられた本人は目を輝かせることもなく、黙々とキーボードを叩いている。

「業務中ですので」

「休憩は何時からだ」

「さあ」

 ぐ、という顔で眼鏡の男――、灰賀丈隹親が怯む。取り付く島もないとはこのことですね、と思いながら高階はほとんど空席になって見通しのよくなった島の向こうに座る小山田室長に視線を送り、取り付く島もないとはこのことだね、と小山田は頷く。

 その小山田に、灰賀丈の視線が向く。びくり、と小山田が怯えると、

「小山田室長。久宗くんの休憩は何時からですか」

「あ、えっと。……何時だっけねえ」

「何時でしたっけねえ」

 小山田が惚けるのを、由祈乃がそのまま引き取る。さっきまでぴくりとも表情筋が動いていなかったのに、小山田の話に合わせるときだけはふふふ、と微笑むので、うわ、と高階は声を出した。

 小山田が勇気を出して言う。

「あの、灰賀丈部長。ちょっと女性職員に対して、その、強要するのは、ハラスメントというか……」

「はあ?」

「いややっぱり……、あの、その、よくないと思います」

 室長やるう、と高階は灰賀丈から見えない角度で親指を立てて小山田にサインを送る。小山田も灰賀丈から見えない角度で、でしょ、とサインを返す。

 が、当の灰賀丈はそんなサインのことなんか気にもしないで、ああ、と頷いて、

「そういうことではありません。ただ、久宗くんとは古い知り合いで、少し話でもと思っただけです」

「……そうなの? 久宗さん」

「知り合いではありますね。私から話すことは特にありませんけど」

 由祈乃はパソコンの画面から目も離さないまま、顔だけにっこりと笑った。対面に座っている高階がひええ、と声を上げた。

 灰賀丈は溜息を吐いて、

「……わかった。奢る」

「奢られる理由がありませんが」

「焼肉」

「最初からそう言ってください」

 由祈乃はすっくと立ち上がった。そしてパソコンを几帳面に畳んで、小山田に向かって言う。

「室長。休憩の二時間まとめていただいても構いませんか」

「あ、ああ、うん。大丈夫だよ。たくさん食べてきな」

 はい、と由祈乃は笑う。そしてそのままさっさと執務室を早足で出て行ってしまう。おい待て、とその後を灰賀丈が追いかけていく。

 取り残された高階は、その背を見送ったあと、同じく取り残された小山田に言う。

「元カレですかね」

「プライベートの詮索はよくないよ」

 ケチ、と高階は言う。

 ケチです、と小山田は返した。



「あ、」

「あ、」

 声を出したのはどっちが先だったかわからない。ただ、目が合ったのは完全に同時に決まっていた。

 ベンチに座り込んでいたところに、和服の女の子が近寄ってくる。

「この間はどうもありがとうございました。……水族館ですか?」

「ああ、うん。いま中に入る気力を出そうとしてがんばってたとこ」

「そうですか」

 目の前の少女は頷いたっきり、祐弥の前に立ち続けている。祐弥は十秒くらい悩んだ。

ついさっきやばいところを見たばかりだ。新興宗教。どちらかと言うと教祖側。どう見ても関わっちゃいけない人種。

 なのに、こうして一対一で向き合うと、なぜだか不思議な安心感がある。それこそが新興宗教の教祖側に回るための技術なのかもしれなかったけれど、少なくとも祐弥にとってはそうとは感じられない。会ったのは一度きり。これで二度目。だというのに、古い友達にでも会ったみたいな居心地の良さを覚えている。

好奇心と厄介事の匂いを天秤にかけながら。そしてもう十秒、目の前からこの女の子がいなくならなかったら覚悟を決めようと思った。

二十秒経っても動かなかったので、

「一緒にまわる?」

 とびっきりの笑顔で少女は頷いた。よくわからん子、と自分の行動を棚に上げつつ祐弥は立ち上がる。駅ビルの十階はもう全体からして薄暗くて、その薄暗い中をチケット売り場まで歩いていく。

「年パスの方がいいですよ」

 後ろから声をかけられた。振り向く。少女がカードホルダーを取り出している。

「二回来ただけで元、取れますから」

 祐弥はチケット売り場の方にもう一度向き直る。値段表を見る。大人二千円。年パスで四千円。財布を見る。いける。言われたとおりにする。

 水族館だ。人を楽しませるためにある場所なのだから、入ればそれなりに感想みたいなものは出てくる。最初に大きい水槽があるんだな、とか。クラゲってコーナー作られてるしやっぱり人気なんだな、とか。深海魚ってこんな高いところに連れられてきて平気なのかな、とか。さすがにイルカみたいなでかい生き物はいないんだな、とか。その割にサメは結構でかいんだな、とか。

 そういう感想を、特に共有するでもなく、ふたりは歩いた。向こうが黙っていた理由はわからなかったが、少なくとも祐弥は、自分で自分がどうして喋らないのかを知っていた。口を開けば、そんな他愛もないことよりも先に、別の言葉が出てしまうことがわかっていたからだ。

 一周して、もう一周を歩き始めて、大きな水槽で餌やりが始まって、魚群が大きく揺れるのに足を止めて、祐弥はサメをじっと見ながら、とうとう言った。

「もしかして、やばい宗教やってる?」

 一方で和服の少女は、カメをじっと見つめながら、静かに言う。

「……どうなんでしょう。傍からはそう見えますよね」

「うん」

「じゃあ、そうなのかもしれません」

 そっか、と祐弥は頷く。薄暗がりの中、瞳から青く照らされて、ふたりは見つめ合うこともなく立っている。

「あのさ、いきなりこんなこと言われても嫌だろうけど。ああいうの、もしそういう人のこと騙してるんだったら、絶対やめた方がいいと思う」

「騙してるように見えますか」

「……半信半疑」

 本当はもっと疑うべきなのだろうな、と思いながら祐弥は言った。だって、どう見たって怪しい宗教なのだ。怪しい宗教セミナーで、心が弱った人を集めてそれらしいことを言って騙している。そうとしか見えないし、そうに決まっている。なのに半分も信じてしまっているのは、なぜかこの少女を相手に覚えてしまっている親近感と、ついさっき見た場面を見て覚えた衝撃が理由に違いなかった。しかし、

「私もです」

「は?」

 返ってきたのは、予想外の言葉で、

「記憶、ないんです。あの最中」

 そんな馬鹿な、と言いたくても言えなかった。

 そんなに都合よく記憶がなくなるわけないだろ、なんてことは言えなかった。

「ああ、そう……」

 仕方なく頷く。すると向こうの方が驚いたように祐弥を見て、

「信じるんですか?」

「信じるっていうか……。あのさ、」

 今度は祐弥も向こうの目を見て、

「昨日、何があった?」

「え。あの、助けていただいんた……んですよね。ごめんなさい。私、昨日のこともあまり……」

「あたしも」

 少女は言葉の意図を図りかねるように、少し口を噤んで、祐弥は、

「昨日のこと、全然覚えてないんだ。車がぶっ飛んで、でかい鳥が出てきて、それしか覚えてない」

「それじゃ、私と一緒で、」

「だからまあ、信じるっていうか、そこは疑わない。そういうこと、あるってわかるから」

 ぐるりと水槽の中を回るように、サメがふたりの目の前を横切っていった。少し遅れて、カメもついていった。アナウンスが流れてくる。次のエサやりの時間は……。それを聞き終えてから、あの、と。

「お名前、なんておっしゃるんですか」

 少し迷って、

「お名前ってほどでもないけど……。久宗祐弥。そっちは?」

「細羽、永といいます」

 そっか、と祐弥は頷く。そうです、と永も頷き返す。

 水槽の中では、サメとカメが同じ軌道で泳いでいる。

「いつもここにいんの」

 祐弥が聞くと、永は、はい、と頷いた。

 しばらくは、とも付け加えた。



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