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2-③



 執務室の前まで来れば、誰かが前に出て話していて、皆がそれに耳を傾けている、そのくらいのことはわかる。

 だから由祈乃は一旦引き返して、ロッカーに荷物を置いて、それからこっそりと気配を潜めて中に入っていった。

 あくびを噛み殺すような仕草で――、というかどう見てもあくびを噛み殺すためにもにょもにょと口元を動かしている高階の背中に軽く触れる。小さく驚いた高階に、よ、と薄く笑いかけて、自分の席まで行くでもなく、由祈乃はその横に立つ。高階は一瞬だけ口を開けて、それから閉じて、声のする方に向き直る。

 男が喋っている。

 若いが、頼りのない感じはしない。長身に肩幅の広い引き締まった身体つきで、スーツには皺ひとつなく、少し縁の太い眼鏡は理知的な印象を与える。男は執務室の全体を眺めながら、はっきりと通る低い声でこんなことを言っている。

「今回、私がこのようなポストを与えられて着任したのは単に偶然です。しかし、〈エフェクト〉対策の先進モデルとしての都市構想実現の一助となるべくしてこちらに参りましたので、これを機に、本格的な対策チームを組織しようと考えております。規模については市長と調整中ですが、できれば若手の、やる気のある方々の力を借りられればと――、」

 その言葉が、急に止まった。

 ぐるぐると巡っていた視線も、一点で止まった。

 執務室にいた職員たちも不思議に思って、その男と同じところを見る。

 由祈乃がいる。微笑んだまま。言葉の続きを待っている。

 高階が小さく、隣に立つ由祈乃の腰のあたりを肘でつつきながら、

「先輩、見られてますよ」

 意に介さない。由祈乃はそのまま前を見ている。たっぷり三十秒くらいその時間が続いた後、不意に動き出す。

 由祈乃が後ろを見た。他の人たちの視線の先でも探すようにして。

 ベンチにひとり、老人が座っていた。

 何も言わないまま、由祈乃は歩き出す。窓口の方へ。少しカウンターから身を乗り出すようにして、聞く。

「お待ちですか?」

 声を掛けられた老人が、慌てて背筋を伸ばして、いや違うよ、ちょっと連れがトイレ行ってて、長えんだこれが、と照れたように返す。由祈乃はそれに笑って、そうですか、失礼しましたうふふ、なんてことを言う。

 やがて、執務室で眼鏡の男はまた口を開き、続きを話し始める。

 今度は、視線を動かさないまま。



 つまりこいつは宗教セミナーか何かで、自分は哀れにもそこに迷い込んでしまった子羊ってことだ。

 そういう風に、多目的ホールの後ろの方の席に座りながら祐弥は考えていた。

 だって、そうとしか見えないのだ。照明は切れていて、間接照明みたいなやつがホールの隅っこの方でサイケデリックな色を薄ら放っているし。明らかに元からあったわけではないだろう怪しい匂いが立ち込めているし。並べられたパイプ椅子はほとんどすべて埋められていて、どいつもこいつも祈るみたいに両手を固く握っているし。

 ていうか、たぶん思いっきり祈ってるし。

 ステージを見ながら。

 ありがたや、とか言ってるし。

 そんでステージの上に立っている二人のうち、涙ぐんでる中年じゃない方は、どう見たって昨日知った顔だし。

 ステージの下、舞台袖にマイクを握ったやせぎすの男が立っていて、湿っぽい声でこんなことを言っている。

「壇上に上がっていただいた田上晋呉さまは、昨年に東京で発生した〈エフェクト〉災害の際に、ご家族を亡くされました。時が経ってもその傷が癒えることはなく……」

 ステージの上で、男は和服姿の少女に跪いている。やべーやつに関わっちまったらしいな、と祐弥は思う。昨日の記憶がさっぱりなくなっているから、あの後どういう流れで別れたのかもよくわかってないし、もしも会えたら一体何がどうなったのか、由祈乃に確認する代わりに聞いてみようと思っていたのだけれど。そして、どうせこの街に駅周り以外に若者が行くところなんてないだろうから、このあたりを歩いていれば遭遇できるかもしれない、なんて現実的な当たりもちょっとはつけていたのだけれど。

 でも、こんな風に会うとは思っていなかった。

 何が学校に行く前に気安い相手を一人でも、だ。と自分で自分を責める。どう考えてもいちばん交流しちゃいけないタイプの人間じゃないか。

 これからは慎ましく生きていこう、と祐弥は思う。それからこの街で金髪の高校生がどのくらい珍しくて、一回会っただけで顔を覚えられる可能性がどのくらいあるのかについて、真剣に検討している。

「さて、それでは田上さま。今回この降霊会に参加を希望された理由を、直接、お聞きしてよろしいですか?」

 降霊会。すげえやなワード、と祐弥は顔を顰める。後ろの方の席に座っているから誰に気兼ねすることもなく出入り口の方に振り向くことはできるが、何度見てもあの扉を開ける勇気が出てこなかった。だってどう見ても、この薄暗さであの扉を開けたら外の光が入ってきて、かえって悪目立ちするに決まっているのだから。

 壇上の中年に、マイクが手渡される。

「ええと、なんと言ったらいいか。……はは、その、正直、実感が湧かなくて。この場にこうして抽選してもらったというだけではなく、本当に、あの、事故のときからずっと」

 会場中の意識が、その男に向けられていることが、祐弥には肌でわかった。優しい空気だ、と思う。誰かが誰かを思いやるときに流れる匂い。でもどこか、今はそれがいやらしかった。

「さっきその、代表さんからもあったとおり、妻とね、子どもを亡くしたんです。ちょうど年末で、私が仕事の都合で大晦日も働かなくちゃいけないもんだから、妻と子どもだけで一足先にふたりの実家のある地元の方に帰省することになったんですよ。それであの、首都高の事故に巻き込まれて……。当時、たぶん会場にも同じ事故で家族を亡くした方もいてご存知かと思いますが、とにかく誰が死んだか、誰が行方不明か、なんてことが全然わからなかったでしょう。テレビのニュースでやってるのを見てね、まさかなと思ったんですよ。そう思って電話を掛けたら、これが全然出ない。一度や二度ならともかく、いつまで経っても出やしない。涙はね、ボロボロ流れるんですよ。死んだなんてこと、それどころか事故に巻き込まれたかどうかだってはっきりしてなかったのに、不思議なことに。今思えばあれは悲しいんじゃなくて不安だったんだろうなあ」

 そこで男は一度、言葉を切った。マイクが音を増幅して、小さくすすり上げる声が聞こえる。男は目頭を数秒押さえたかと思えば、ぐいと顔を上げる。目元がスポットライトで光る。会場の中では、幾人かが同じような音を立てながら、ハンカチで顔を撫でている。

「今でもね、同じなんですよ。死んでますって言われたときも。どうしても信じられなくて遺体を見分させてもらったときも。間違えるはずはないんです。家族なんだから。これは自分の妻と子どもだって、はっきりわかった。でもね、やっぱり実感が湧かないんですよ。あんな理不尽なことで死ぬなんて、どうやっても私には信じられないんです。この年で何言ってんだって思われるかもしれないんですが、私はね、ちゃんと頑張っていればちゃんとした未来が付いてくるものだって信じてたんです。勉強して、働いて、嫌なことも我慢して、大切なはずの家族とさえたまに喧嘩したりしながら、それでも『何かをよくするための努力』を続ければ、必ず明日はよくなるはずだって、そう信じていたんです。……いや、今でも。今でもそう、信じているんです。だから、家族の死を受け入れられていない。あるはずがない、と。そう思うんですよ。そんなひどいことあるわけがないって。私があのとき見た遺体は、何かの間違いだったんじゃないかって。そうすると人間、よくできたもので、それが本当に間違いのような気がしてくるんですね。確かに見たはずなのに、最近ではそれが夢のことだったような気がしてくるんです。家族の安否が不安で不安で、ノイローゼにでもなってみた悪夢を、現実だと認識してるんじゃないかって。本当は家族はどこかで生きていて、たまたま私とは行き違いになっているだけなんじゃないかって。そんなわけないってわかっているのに、どんどん自分が騙されていくんです」

 そして、男は言う。

 目の前に立つ少女の瞳を、まっすぐ見据えて。

「そんなのはダメだ。悲しみは、受け入れなくちゃならない。そうじゃなきゃ、誰があいつらを弔ってやるというんです」

 そして少女はその瞳も、言葉も、身じろぎもしないまま受け止めて、それからこくりと、顎の先を揺らすようにして、小さく頷いた。

 その動作に、男ははにかむ。

「はっきり言って胡散臭いところだとは思いました。失礼ながら。でも、巫女さんが私の話を聞いたとき、こう言ってくれたんです。『その方々は、どんなお名前だったんですか』って。なんでもないことなんだけど、どうしてなんだろうなあ。それですっかり信じ込む気になっちゃって……」

 そこで言葉が切れると、その先を舞台袖の痩せた男が引き取る。

「……おつらいことをお話いただきまして、ありがとうございました。田上さまのお話と、これからの儀式の光景が、会場にお越しの皆様方のこれからの精神の安寧の一助となることをお祈りいたします。……さて、それではただいまから儀式の準備に入らせていただきます」

 儀式、の言葉にようやく祐弥は自分を取り戻した。

 聞き入っていた。といえば語弊があるかもしれないが、それでもしばらく、何かを考える気持ちを忘れていたのは確かだった。

 東京の、去年の、年末の〈エフェクト〉災害。その言葉が出てきてから、話の中身に耳を傾けてしまっていた。

 それは、祐弥の両親が亡くなったのと、同じ災害だ。思わぬところで、似た傷の持ち主に出会った。

 それでも今は、そんなことを考えている場合ではない、と祐弥は思う。儀式という言葉から想像されるのは不穏なものばかりだ。今のどさくさに逃げてしまえと、腰を浮かせたとき、それが不可能になる。

 ホール内のすべての電気が消された。真っ暗闇の中で、当然のように身動きが取れなくなって、仕方なくその場にとどまり続ける羽目になる。

 そして、恐ろしいものを見る羽目にもなった。

 正確には、見ることはできなかったけれど。

 最初に祐弥の耳に届いてきたのは、不気味なほどの静寂の中で、たった一言響いた言葉。

 ――お父さん?

 男が必死に名前を呼ぶ声。三人分の、壇上から響く声。再会を喜ぶ言葉。別離を嘆く言葉。失われた時間への怒りと、これからの時間への祈り。

 どのくらいの時間のことだったのか、祐弥にはわからない。

 ただ、生まれて初めて聞いたことだけは確かだった。

 言葉に温度や重さがあることを、初めて知った。



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