1-⑤
一瞬、ものすごく呆然とする羽目になった。
警報が鳴って、それから何秒も経たないうちに、逃げ場を失ったように見えたからだ。
ついさっきまで自分の背後にあった透明なドームが、瞬く間に水がぱきぱきと凍り付いていくように、白く色を変えた。雪が降っているのも怖いけれど、目の前で理解不能の状況が発生した方がもっと怖い。前者はこの世界に住んでいる人間なら誰でも知ってる〈兆候〉だが、後者は聞いたことがないし、見たこともない。聞いたこともなく、見たこともないなら、〈エフェクト〉本体の可能性がある。
すうっ、と血の気が引くのを感じた。
そういうことがあるとはわかっていた。そういうものを防ぐためにこういうドームがあるのだから。ついさっきまで透明だったパネルを見れば、そのたびに思い出せた。
でも、自分に降りかかってくるとは思っていなかった。
思ってなかったのだ、ずっと。
「――って、そんな場合かよ!」
それでも動く気力を取り戻せたのは、自分ひとりじゃなかったからだ。後ろを見れば、ついさっきまで話しかけようとしていた和服の少女がいる。ひとりじゃない。とにかく、ここは逃げなければいけない。逃げて、生き延びなければならない。
目と目が合う。
不安げに、瞳が揺れている。たぶん自分のだって同じようなものだろう、と思いながら、
「行くぞ!」
「あ――、」
祐弥は少女の手を握る。場違いだけれど、冷たい手だと、そう感じた。
行くぞと言ったって、どこに行ったらいいのかなんてわからない。とにかく街の中に入ることから始めなければならない、とは思う。わざわざこんな大仰なものを組み立てているのだ。さぞかし大したご利益のあるシェルターなんだろう。少なくともこんな吹きっ晒しの荒野みたいなところよりは安全に決まっている。
走って戻って、パネルに手をつく。さっき出てきたときと同じように、今度は中に入ろうとして、それを押す。
開かない。
「ダメです、そこは――、」
手を握られたまま、和服の少女が言う。
「こういうときは市民カードを使わないと、ロックが開かないようになっています」
なんじゃそりゃ、と祐弥は思う。ついさっきここに来たばかりなのだ。そんなもの持っているはずがない。東京にいた頃使っていた学生証どころか、病院の診察券だってすべて捨ててきたのだ。そんな便利なものを身に付けているわけがない。どうもこのパネルの急に白くなったのが、理解不能な出来事じゃなくて、ロックがなんたらとかいうのと関係している、という理由付けができたのは、ちょっとは安心できることだけれど――、
でも、そういえば、
「持ってる?」
ひとりじゃないのだ。それにたぶん、こっちの子は地元民なのだ。このドームのことに詳しいのだ。だったら持っていたっておかしくない。持っていてほしい。持っていてくれ。
「少し歩くだけのつもりだったので――、」
全然期待していなかったと言えば嘘だが、じゃあめちゃくちゃ期待していたのかと言えばそれも嘘で、すぐに思考は次に移る。
「じゃあどっか、」
「通用口、あります。いちばん近いのは、たぶんそっち、」
「よっしゃ!」
案内人の手を引いて、そのまま走り出した。
大丈夫だ、と祐弥は自分に言い聞かせる。〈エフェクト〉の災害と言ったって、すべてが甚大な被害になるわけじゃない。確かにどんな〈エフェクト〉災害だって発生するたびにネットニュースのトップを飾ることは間違いないが、最近はよくよく防災体制も整ってきて、むしろ死者の報道がない場合の方が多くなっているのだ。それにその死者だって、よっぽどどうしようもない規模のものを除けば、本当に運の悪い人や、虚弱な人ばかりだし――、
大丈夫。人は本当は、そんなに簡単に死ぬ生き物なんかじゃないのだ。
「あ――、」
祐弥が握っていた手が、不意に揺らいだ。声に釣られて後ろを見る。
「うおっと!」
バランスを崩した少女が倒れ込んでくるのを咄嗟に支えた。
速すぎたか、と祐弥は焦る。どう見たって運動が得意そうには見えなかったから、これでもかなり手加減したつもりだったけれど、まだ速かったのか。でも確かにそうだ、とも思い直す。学校の体力テストなんかを見ていると、それは歩いてるのとどう違うんだ、なんて思ってしまうような同級生だってまあまあいた。自転車に乗れないやつだっていくらでもいるのだし、走るの自体がどうしようもなく苦手な人間がいたって何もおかしくない。それに、もしかすると履いているものだって、
うお、と声を上げてしまった。
そして、こりゃ無理だ、とも思った。
別に下駄を履いていたとか、そういうことじゃない。和服に気を取られて見えなかったけれど、ちゃんと踵がぺったり平らになっているブーツを履いている。走りやすくはないだろうが、極端に走りにくいわけでもなさそうに見える。
問題は、和服それ自体だった。
今さら気が付いた。どう考えたって走るのに向いていない。足を大きく開いて、なんて動きにこの世でいちばん向いていない服だ。
「すみませ――、あの、置いて、」
口が動いている途中で、もう決めた。
背中を向ける。それからしゃがむ。
乗れるように。
「ほら」
戸惑いが、背後から伝わってくる。乗れって、と祐弥は言う。でも、と返ってくる。いいから、と言う。慣れてんだ、と重ねる。部活で死ぬほどやらされた、と付け加える。
おそるおそる、いっそくすぐったいくらいの遠慮深さで肩に手を置かれたら、そのまま強引に背負い込む。
「きゃ、」
「よし、軽い!」
嘘ではなかったが、本当のことでもなかった。
部活の練習で背負って走ったチームメイトたちと比べれば、格段に軽い。普段何食って生きてんだ、と不思議になるくらいには軽い。けれど、人ひとりを持ち上げたときに、羽根のように、なんて言葉が出てくることは決してない。さっきまでひとりでひいこら持ち上げていた引っ越しの荷物なんかよりは断然重たいし、おまけに人におんぶされることにも慣れてなさそうだから、重心が不安定で取り落としそうになる。それを防ごうと上体を屈めれば腹筋も腰もつらいし、向こうは足が開けなくて走れないんだから、もっと思いっきり身体を寄せてくれ、なんてことは頼めない。
でも、軽いと言う。軽いと言って、走る。
「あの、そんなに遠くはないです。大体学校と、コンビニの間くらい」
おっけ、と大きな声で、祐弥は返事する。学校とコンビニの間がどのくらいの距離なのかはまるでわからないが、近いというならとりあえずいいことだろう。あとは元東京都民と朔山市民の距離のものさしがそれほど違わないことを祈るしかない。
祈っているうちに、道路が見えた。
「あれです、あのところ」
なんとかなる、と思った。
さすがにずっと全速力というわけにはいかないが、途中で膝を折るほどの疲れはない。その状態で、道路が見えた。車が一台、とんでもない速度でそこを走っているのが見える。行く先に目をやれば、それらしい詰め所みたいなものがドームに隣接して立っている。あれだろう。あれに違いない。もう一息だ。
もう一息だったのに。
「のわっ!」
「ひゃあっ」
後ろからものすごい突風がやってきた。元々思い切り前傾するようにして走っていた祐弥は、風に煽られてそのまま地面に倒れ込む。背中に回していた手を咄嗟に前に回すこともできなくて、仕方なく思い切り膝を打ち付けた。
「いっ――、」
「ごめんなさい! 大丈夫ですかっ?」
平気、と言って背中に乗った少女の足を軽く叩く。一秒待てば、膝の痛みも和らぐ。今回の〈エフェクト〉は異常気象型だろうか、とどこか冷静な部分で考えている。だったらきっと、あのドームの中に入れば助かる。大丈夫。もう少しだ。走れ。走るためには立ち上がらなくちゃならない。こういうのは大抵、走っている最中よりも走り出すときがきついものだ。奥歯を食いしばって、靴底を前に滑らせて、足に力を入れて、顔を上げて――、
「あ――、」
声はかき消える。それより激しい音が響いたから。
車が横転するところを、祐弥は初めて見た。
思ったよりもあっけなく見えたのは、それをあっけなく見せるだけの巨大な存在が隣にいたからだと思う。
巨大な鳥が、傍にいた。
家よりでかい。
人を四人乗せられるはずの車が、おもちゃみたいに転がされている。
「あれ、」
何かを、
「あたし、」
何かを思い出しそうだ、と。
何かを忘れている、と。
祐弥は瞳を大きく開いて、その巨大な鳥を見ながら、場違いな困惑や、思索を頭の中に巡らせながら、段々と視線が熱を持つような感覚がして、
感覚だけじゃなくて、
その日の記憶は、そこでおしまい。