1-④
「あっ、すみません」
という声を背中に受けながら、由祈乃はすでに席を立って、窓口に向かっている。席の角度の問題で、来客を見つけるのはいつも高階より由祈乃の方が早い。誰もがパソコンを食い入るように見つめながら、庁舎内ネットワークで共有されている定点モニタの映像に没頭しているような状況でだって、市役所なのだ。誰かが来れば、誰かが対応する必要がある。
「今大丈夫すか」
立っていたのは、年齢の掴みにくい男だった。無造作に後ろに縛った長い髪や、オーバーサイズのラフなコートを見ると青年と言って差し支えない若さに見えたが、立ち姿や雰囲気は妙に落ち着いていて、三十を超えているようにも見える。
はい、どういったご用件ですか、と由祈乃が聞けば、
「引っ越して来たんで、届け出したいんすけど」
これ前のとこの転出届、と男が差し出した紙を受け取り、由祈乃はカウンターの上の棚から用紙を取り出す。こちらをご記入願います、と言えば男も素直にそれに取り掛かる。取り掛かりながら、
「すいませんね、こんなときに来ちゃって」
「いえ」
「ここってやっぱ、こういうのよくあるんですかね?」
こういうの、と男は天井の方に指を向ける。
「よくあるわけではないですね。今日のも本当に珍しくて……、四年ぶりくらいですね」
「四年ってかなりよくある方じゃないですか? てか、二回もあるのが珍しいっすよね。あ、別にこれ、クレームとかじゃなくて。単にレアなとこだなってだけのことなんだけど。お姉さん、そう思いません?」
「ええ、まあ確かにそうかもしれませんね。私も詳しいわけじゃありませんけど、確かにこの県だけでも全然〈エフェクト〉の発生がないところはたくさんありますし」
「やっぱそう思うよねえ。だからなんかあんじゃないかなあと思って、ここ。前のほら、山なくなったやつ。あれも……、と、郵便番号わかんねえな」
男が携帯を取り出す前に、由祈乃がどうぞ、とラミネート加工された郵便番号一覧を取り出してくる。ども、と男は軽く頭を下げて、それを見ながら、用紙を埋めていく。
「にしても、お姉さん落ち着いてんねえ。てか、他の人も。俺も人のこと言えないけどさ。正直ここ来る途中で警報がビービー鳴ってたとき、こりゃ今日は役所もごった返して手続き無理かなとか思ったんだけど、全然人が詰めかけたりなんかしてないし。やっぱ、こういうの慣れがあったり?」
「慣れ、というか。広報活動の成果が上手く出ているんだと思います」
「広報?」
「〈エフェクト〉災害は単に災害そのものによる被害のほかにも、パニックが発生したことによって起こりうる二次被害も非常に大きいですから。慌てず騒がず、自治体の指示に従って避難行動を――、というのが行政の方針です。ここは以前の〈朔山消失事件〉もあって、そのあたりの意識が徹底されていますので……」
「ははあ、なーるほどねえ。理想的な市民の住む街ってわけだ。いやあそりゃいいことだよ。いつだって誰も傷つかないのが一番、っと、印鑑忘れてきちゃったんだけど、署名だけでも何とかなります?」
「その場合は身分証の提示をお願いしています」
「はいはい。っても、実は免許持ってないんだけど。パスポートでも大丈夫かな? 職質されたときとかはこれでいっつもこれ出してるから、なんとかなると思うんだけど」
「はい、大丈夫ですよ。拝見いたします」
恒住利一郎、と書かれたパスポートを受け取った由祈乃は、写真と申請書と、それから男の顔に、一筆書きで視線を送り、
「確認いたしました。ありがとうございます」
「あ、そうそう。ついでに教えてもらいたいんだけど、やっぱここって車と免許ないとヤバイ感じ? 前いたとこが東京だったから必要性感じなくて持ってないんだけど……」
「そこまで困らないと思いますよ。確かに、見ての通りの地方都市ですけど、コンパクトシティ構想の実現度は全国でも指折りですし、路面電車もコミュニティバスも頻繁に走っていますから。ひょっとすると、自転車くらいはあっても便利かもしれませんが。申請書類のご記入は以上で大丈夫ですか?」
「ああ、どもども。これでお願いします」
では少々お待ちください、と由祈乃はカウンター備え付けのパソコンと、書類を突き合わせながら入力を始める。恒住は椅子に腰かけるでもなく、その立ち位置を保ったまま、執務室の向こうに設置されているテレビに目をやりつつ、さらに言う。
「コンパクトシティっつか、シェルターだよね、ここ」
ええ、と由祈乃は頷く。
「〈エフェクト〉対策のモデル都市でもありますから」
中にいれば安全だと言われてますよ、と。