1-②
お気をつけてお帰りください、とその背を見送ってから振り向くと、課員はみな由祈乃を見ていた。
ボールペンをあった場所に戻して、書類はまとめてクリアファイルにしまい込む。由祈乃はそれを、一番窓口から近い席に陣取っている女性――首から提げた名札には『朔山市役所 市民課 戸籍室 主事 高階麻耶』と書いてある――に、ん、と差し出す。高階は手元に目を落とさないまま、由祈乃を見上げたまま、
「さすがですね……先輩……」
「別に、大したことないよ。クレーム対応そこそこやってるし」
「でも小山田室長、先輩がいない間めちゃくちゃ手こずってたんですよ」
「いや~、もう助かっちゃったよ」
小柄なブラウンスーツの男が、奥の方から席を立って、ふたりのところまで近付いてくる。男は気恥ずかしさでも隠すように後頭部をさすりながら、
「あの人、うちの近くに越してきた人みたいでねえ。ほら、最近外から来る人って変な人が多いだろう? あんまり邪険にするのもなあなんて思ってたら、ここしばらく毎日来るようになっちゃって」
由祈乃はそれに笑って、
「確かに変な人、多いですね。私とか」
「いやいや! 久宗さんはもう、有能も有能だから。ここ何日かお休みしてただけでうちの空気はこんなんだよ」
言いながら小山田は水平にした手のひらを上から下に動かすジェスチャーをする。
「どよーん、よ。どよーん」
「バイトに変な期待かけないでください」
苦笑して言う由祈乃に、高階が、
「でも先輩、なんでお休みしてたんですか? 私、月曜来てからすっごいびっくりしちゃったんですけど。室長に聞いてもプライベートのことだから、とか誤魔化されちゃって」
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてませんよ! おかげで今週大変だったんですよー。先輩いないと他に聞ける人もいないし……」
「いるでしょ、室長とか」
「ダメですよお! 室長全然システムのことわかんないんですもん」
「いやあ、別にそういうのが苦手なわけじゃないんだけど。ずっとパソコン見てると目がチカチカしちゃうもんだから」
年食ったら色々つらいよう、と小山田が言うのに、はは、と由祈乃は笑い、高階は不満げに片頬を膨らませる。
「で、何の用事だったんですか」
「ちょっと家の用事。姪っ子がうちに来ることになったから、その準備とか、色々」
「……あ、えと、」
「結構大きいんだったよね、高校生?」
「はい、今年高一で。本人の趣味がいまいちわからなかったから、家具なんかは本当に最低限ですけど」
「うんうん、まあそれがいいよね。うちなんかも、親切で色々買ってやってもそれが気に入らないとかで『要らない!』なんて言われちゃったりしてさ」
「まあ、自分の場合どうだったか考えてみると、もう十代後半にもなると何でも自分で決めたくなってましたもんね」
うんうん、とどこか満足げに頷く小山田の傍らで、高階はばつの悪い顔をしている。由祈乃が、
「で、どこがわからなかったって? 大丈夫だった?」
「え、あ、はい。何となくマニュアル読んで、それで後は先輩のファイルとか見ながら見様見真似で」
「そっか。よかった」
「でも全然ですよ~。すっごい時間かかっちゃったし。やっぱり先輩いないと困ります」
「だめだよ。高階さん私より給料多いんだから。差額分は私が頼りにさせてもらわないと」
「ですって、室長」
「この年になるともう仕事なんて責任を取ることだけだよ」
「それ、ここで言うとちょっと洒落にならないですね」
やめてよ、と言う小山田に、高階は事実ですもん、と返す。由祈乃はそれを微笑んで見ながら、つ、と視線を下げる。
机の上。新聞記事の切り抜きが、古びたバインダーに挟まれて置いてある。その視線に気付いた高階が、
「あ、それ」
「こんな部署あったっけ」
由祈乃がバインダーごと手に取る。つい昨日の日付が記載された、ローカル新聞。そこにはこう書いてある。
『朔山市 エフェクト対策部長に総務省官僚 灰賀丈隹親(三十)』
「それねえ、僕も聞いてなかったんだよ。全然」
小山田が言う。
「なんだかばたばたで上の方だけで決めちゃったみたいで。部署新設でポスト新設で、しかもそれ、部長の名前だけど実質決裁権限は副市長級なんだって」
「これ絶対天下りですよねー。いいなー、私も天下りたい」
「いやあ、どうだろうねえ。天下るにしては若すぎるし、どっちかって言ったらキャリアの箔付けなんじゃないの。僕みたいなのには縁のない話……、久宗さん?」
「はい?」
「いや、なんかじっと見てるから。なんか気になること書いてあった?」
「いえ、人員配置をどうするのかなと思って。この時期だから、再編しようとしたら結構慌てるじゃないですか」
「それもねえ。何も下に降りてきてないんだよ。しばらくはたぶん、本格的に部屋を作るとかじゃなくて、いまの緊急対応名簿に入ってる職員とミーティングするとか……」
そこで、小山田の言葉は途切れた。
たぶん、そのまま続けていたとしても誰も聞くことはなかっただろう。
警報が鳴った。
嘘、と高階が呟くのをかき消すように、震えるような大音量を鳴らしているスピーカーから、自動音声が流れ始める。
『〈兆候〉発生の観測に伴い、〈第一次エフェクト警報〉が発令されました。対策班の職員は速やかに第四会議室に集合してください。繰り返します。〈兆候〉発生の観測に伴い――』
「小山田室長」
「え」
「対策班でしたよね。召集、かかってますよ」
由祈乃の言葉を受けた小山田は、一拍置いたあと、ああ、と大きく声を出し、執務室全体に向けて、
「みんなは待機! 加藤係長の指示に従って、平常業務を行うように。もし市民の方から問い合わせがあれば広報室に電話回して。もしかしたら市役所に避難を希望してくる人もいるかもしれないけど、そのときは隣の市民会館が常時開放の避難所になってるから、そっちを優先的に案内するように」
伝え漏れがないか確かめるように小山田は宙を見て、二秒、
「よし、じゃあ行ってきます!」