3-①
市の中心部、駅のまわりには真新しいマンションがいくらか立ち並んでいる。オートロックで、宅配ボックスもあって、いつでも地下階にゴミを捨てられる場所がある。そういう百点満点のマンションがあって、大抵は単身者向けに作られている。
明け方、その一室で携帯が鳴る。
「はい」
ワンコールもしないうちに、それを手に取った男がいる。顔を見れば、たとえば由祈乃が見たらそれが誰だかわかったかもしれない。恒住利一郎。もしもたった一度、市役所の窓口に来た相手の顔と名前をしっかり覚えていられたとすれば。
「ああいや、さっきちょっと仮眠取って起きたばかりで。……ええ、問題ないですよ。第一実験後もS値、予想通り高めで止まってますし。ちょっと日は見ますけどね。今月? 今月はさすがに……、ああ、やっぱ想定値全然足りてないすね。いやあ、厳しいかなあ。第二の方がだいぶ食いますからね。それに、万一のために最終チェックもうちょっとやりたいですし。ええ。大丈夫。はい、それは大丈夫です。これより下がる気配は今のところないです。いまだにその理由ばかりはわかりませんが。……ま、そりゃ仕方ありませんよ。原因究明なんてしてたら、それこそ誇張抜きに百年はかかっちまいますからね。やれるときにやらないと」
恒住は携帯を手にしたまま、椅子から腰を上げる。窓辺に近付き、カーテンを開く。
曇り空。
「それじゃ、予定通り。来月に第二実験で」
テーブルの上に何か置いてある。
ということは近くにいるってことか。きょろきょろと祐弥はあたりを警戒して、一秒、そんな自分が馬鹿馬鹿しくなって、リビングに通じる扉を大きく開けた。
「おはよ、」
と声をかけてみたが、結局誰もいなかった。朝八時。学校だってないのだからもっと寝ていたっていいだろうに、自分の中に定着してしまった生活習慣というのは中々修正できるものではない。良かれ悪しかれ。
テーブルの上に乗っていたのは、近付いてみれば皿で、皿の上に乗っていたのは茶色いトーストだった。何か塗ってある。そしてその皿の横に書置きがあった。
『ついでに作りました よければ食べてください いやならいいです』
「いや食うけど……」
ちょっと後ろ向きな人なのかな、と祐弥は思う。直接話しているとそんな感じはしないのに。
パッと見、そのトーストはできてから時間がそれほど経っていないように見えた。ニアミスだったのかもしれない。
顔を合わせたら、聞いてみようかと思っていた。昨日部屋に入ったら、なんて前置きをするつもりはない。細羽永って子、知ってる? 知り合いになったんだけど。そういう風に始めるだけ。素直に答えてくれたらそれでいいし、いいえと答えられたらビビッて何も見なかったことにする。そういう会話をしようと思っていた。
でも、いないなら仕方ない。勝手に部屋に入り込んだ負い目もある。今日のところはわざわざこっちから距離を詰めなくてもいいだろうと、そう納得することにしておく。
「にしても、由祈乃さん夜勤ばっかだな……」
公務員ってそんなもんなんだっけ。父も母もだいぶ夜勤が多かったけれど、病院関係だからなんだと思っていた。案外いまどき、みんな夜に働くものなんだろうか。
今日はどうしようかな、思いながら、祐弥はトーストを手に取って齧り、
「……何この味」
初めての感覚だった。何か塗ってある。何か塗ってあるけれど、その正体がわからない今まで味わってきたものの中にたぶん答えはあるのだけれど、それが上手く目の前のトーストと結び着いてこない。なんだったっけ、と思う。絶対食べたことある、と思う。トーストには絶対塗らないやつ。知ってる。知ってるんだけどなんだっけこれ。
気になって、キッチンまで行った。冷蔵庫を開けた。茶色っぽい色になりそうなものを探した。見つけた。
焼肉のタレ。
どんなセンスだ。
しばらくの間、学校は休みになる。
そのしばらくがまさか一ヶ月近くまで範囲に取っていたなんてことわかるはずもなく、祐弥は気付けばずいぶん長い時間を、永とともに、水族館の中で過ごすことになった。
たとえば、ある日はこんな会話をした。
「祐弥さんは、どちらからいらっしゃったんですか?」
「東京……、てか、敬語別にいいよ。そんな年違わないんだし」
「そうですか? でも、すみません。私、あまり人と話すのに慣れていなくて……」
「そうかあ? この間のアレ、あんまり言わない方がいいのかもしんないけど、あれとか、結構話せてそうだったじゃん」
「あれは仕事ですから。またちょっと、違います」
別の日は、こんな会話。
「魚、何好き?」
「……特には……」
「え、年パス持ってんのに?」
「はい。ただ、ここにいると落ち着くので……」
「まー、わからんでもないけど。あ、クラゲとか好きそう」
「クラゲはあまり……。昔は好きだったんですけど、海辺に住んでいた方から、あまり好ましい生き物ではないという話を聞かされて……」
「やっぱ昔は好きだったんだ」
「綺麗なので」
「そんな感じした。あ、カメも好きそう。てか、目で追っかけてるし」
「カメ……。そうですね。そうかもしれません」
さらに別の日には、こう。
「祐弥さんは、ご家族は……」
「おおう、踏み込んでくるな」
「あ、すみません……」
「いーよ別に。隠してるわけじゃないし。去年の首都高の事故、知ってる?」
「……すみません……」
「いいって。あれ。巻き込まれちゃったみたいでさ。親はどっちも死んじゃった。じーちゃんばーちゃんもちょっと前に死んじゃってて……、あ、こっちは普通に病気。今は叔母さんとふたり暮らし」
「あの、聞きにくいことを……。すみません。祐弥さん、すごく明るくて、そういう風には見えなかったので……」
「まあ、実感ないしな。変な話なんだけど、あたしそのころの記憶もすっぽり抜けてるし」
「え?」
「あ、そだ。あのさ、永ってうちの叔母さん知ってる? 久宗由祈乃っていうんだけど」
「……いえ、お名前は存じ上げませんね。ただ、私もお会いした方すべてを覚えているわけではないので、もしかしたらどこかで顔を合わせるくらいのことはしているかもしれませんが」
「そっか。……ひょっとして、永、有名人? この街の」
「ええ、まあ……」
珍しく不本意そうな顔で言ったので、祐弥は笑って、そして今日。
「あの、もしよければしませんか?」
水族館はいつだっていつまでも空いている。平日だからかな、なんて思いは休日も空いていたことから即座に否定される。暇そうにしている受付のお姉さんに理由を聞いてみれば、みんな〈エフェクト〉が二回もあって、高くて閉じた場所に来るのが怖いからじゃないかな、と答えてくれる。そして祐弥は自分の中に『危機感の欠如』という属性が備わっていることを知った。
「何を?」
「降霊」
そのときちゃんと直す努力をしておけばと、そう思った。
驚きすぎて何のリアクションも取れなかった。ただ目の前の、ぼんやりと水に漂っているエイの顔を見つめ続けて、身じろぎもせずに祐弥は言う。
「――これ、マジのやつ?」
「あ、いえ。あの、そういうのではないです。悪徳とかそういうのではなく。その、善意で。いえ、善意というのも、その、押しつけがましいかもしれないんですけど、あの、仲良く、してもらっているので……」
「むしろ余計怖くなったんだけど」
突き放すような言葉を放つ代わりに、ちゃんと永の顔を見た。しょんぼりして肩を縮める姿。かわいい、と祐弥は思う。高校生のとっての一ヶ月というのはほとんど永遠に近いものがあって、もう随分と祐弥は永に親しみを覚えている。そして、生まれた季節のたった一回りの違いがここまで人に庇護欲を芽生えさせるなのだと、内心驚いていたりもする。
「そういうの、言わない方がいいと思うけど。正直ビビる」
「いえ、でも、」
溜息を吐きそうになるのを、自分の頬に手を当てて抑え込みながら、
「わかるけどさ。永がそういうタイプじゃないなってのは」
これも危機感の欠如かな、と思いつつ、
「でも、大抵のやつはそう言われたらビビるよ。怪しいもん。悪いけど」
「そう、ですか」
「うん。まあだからさ、その手のことは言わないでくれるとうれしいかな。あんまり実感湧かないって言ったけど、完全に気にしてないってわけじゃないし。触らないでおいてくれた方が、うれしい」
ぎゅ、と永が膝の上で拳を握り込むのを、祐弥は視界の端に捉えた。
「ほら、見な」
「え、」
とん、とその背中を叩いて水槽の方を向かせる。
「カメが泳いでるよ」
「はあ」
「かわいいねえ」
「……そうでしょうか」
えっ、と祐弥は驚いて、
「好きって言ってなかった?」
「好きですけど、特にかわいいとは……」
見つめ合って、まあまあの沈黙。
まあまあの笑い。