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1-①


 誰かに呼ばれた気がして、振り向いた。

 誰もいない。車だってひとつも通っていない。

 冬枯れの田園と、真新しい線路だけがある。風が吹いて、マフラーと、前髪の先が揺れる。

「……気のせいか」

 呟いて、息を吐く。少しだけ、白く曇る。

 また歩き出す。大きなキャリーバッグを後ろ手に引きながら、履き込んだバスケットシューズで蹴りつけるようにして、波打つアスファルトの上を行く。

 目指す先には、透明なドームに覆われた街並みがある。

 朔山市、と言う。







 ぴん、

 ぽーん。と。

 長押ししたけれど出てこなかった。人差し指を立てたまま、久宗祐弥は困り尽くしている。

 古臭い家だった。木造で、平屋建てで、なんならちょっと傾いて見える。玄関だって扉というよりも戸という言葉が似合っていて、ちょっと蹴っ飛ばしてやれば鍵がかかっていようがいまいが関係なく中に踏み込めるような気もする。

 やらないけれど。

 今日から住む家なのだから。

「っかしーな……。連絡、したはずなんだけど」

 ぴんぽん、ともう一度。押してもやっぱり出てこない。これがたとえば、この間まで住んでいたような東京のマンションだったら、祐弥もインターホンが壊れているのかもしれないなんて希望的な考えを持ったのかもしれないが、家の中でぴんぽんの音が鳴り響いているのが外にいても丸聞こえなものだから、そんな甘い考えはハナから持てやしない。

 携帯を確認した。やっぱり、ちゃんとメッセージは送っている。昨日のうちに。三十日の十一時ごろにそっちに着く予定です。確かにそう伝えている。駅から出ている路面電車の乗り方がいまいちわからなくて少し歩く羽目にはなってしまったけれど、それでも十一時十五分。十分許容範囲だろうに。

「寝てんのかな……」

 もう一度インターホンを押してみようか。そう思ったとき、

 がらり、と。

 勢いよく玄関が開いた。

 何もそんなに勢いよく開かなくても、という勢いで、開いた。

すらっとした、長い髪の若い女が立っている。

「――あ、あの、」

「開いてたのに」

「え、」

「玄関、鍵開けといたのに」

 言って、女は祐弥が思っていたよりも明るく笑った。

「上がりなよ。疲れたでしょ。東京からここまで、新幹線」

 踵を返して玄関の中に引っ込んでいくのに、ようやく固まっていた祐弥は動き出して、

「や、そうでもないです。新幹線は。でも、降りる駅間違えちゃって」

「ああ、あれね。『朔山駅』と『朔山前駅』。わかりにくいし、『前駅』の方は何もないところだからなくしちゃった方がいいと思うんだけど」

 キャリーバッグを引き上げて、玄関の中に入れる。それから後ろ手で扉を閉めようとして、

「あれ、」

「そこ、勢いよくやらないと閉まらないんだ」

「勢い……」

 ぐっ、と力を込める。ぐっ、ぐっ、と力を込める。戸は傾くばかりで、まるで滑っていかない。すると女が祐弥の後ろから腕を伸ばしてくる。頭半分くらいの身長差で、祐弥が身体を縮めると、

「こう」

 ぴっしゃん、と。小さな雷でも落ちたみたいな音を立てて、扉が閉まった。目を丸くする祐弥に構わず、女はサンダルを脱いで框を上がっていってしまう。祐弥も慌てて、靴を脱いで、それを揃えて、

「あの、キャリーバッグって、」

「そのまま上げちゃっていいよ。どうせ汚い家だし」

 いやそんな、と一応言っておこうかと迷ったが、少なくとも古い家であることには間違いない。ありがとうございます、とだけ言って、バッグごと家の中に上がり込んだ。

「ここがリビングと言えばリビング。普段は全然使ってないんだけどね」

 通されたのは、あまりにも何もない部屋だった。一応、机と椅子はある。それ以外は電灯くらいしかない。テレビもないし、フローリングにカーペットすら敷いていない。椅子だって四脚あるのを見れば、単に備え付けられてただけのものなんだろうということがわかる。

「キッチンは向こうで、トイレはあっち。引っ越しの荷物とかはとりあえずいちばんマシな部屋に色々置いておいたけど、空いてる部屋はどこ使ってくれてもいいから適当に。あ、手が必要だったら声かけてね。それからこれ、見取り図」

 はい、と言って女は紙を渡してくる。ども、と言って受け取ると、不動産屋の前に張り出されているような、本当の見取り図がそこにあった。やたらに部屋数ばかりが多い。

「で、生活を始める前にひとつだけ言っておきたいことがあるんだけど」

「はい」

 祐弥は少しだけ身を強張らせて、

「残念ながら私には生活能力がありません」

「はあ」

 すぐに抜いた。

「ご飯もあんまり食べないし、週三日しか働いてないし、生活リズムもガタガタ」

「……ご飯、食べなきゃ死んじゃいません?」

「うん。で、つまり何が言いたいかっていうと、祐弥さんがイメージするような『大人』の像にはまったく私は当てはまらないってこと。今日から保護者だから、言ってもらえればできるだけのことはするけど、逆に言ってもらわないと気が利かないから必要最低限のことすらできないと思う。オーケー?」

「お、オーケー」

 オーケーなわけがなかった。目の前の人とは物心がつくつかないと自我がふらふらしていた頃に二、三度会って、それから両親の葬式のあたり――祐弥の記憶にはほとんど残っていない時期――からやり取りを始めたに過ぎない。今日から一緒に住むというのに血縁以上の繋がりが見出せない相手から、急にこんなことを言われたのだ。オーケーなわけがない。が、オーケーじゃありません、と言うだけの思い切りも、今のところはまだない。だから、とりあえず祐弥は頷いておいた。

 女も頷き返して、

「じゃ、とりあえず私が要りそうだなーと思った生活用品とかは一通り揃えておいてるから。あとスーパーとかそのへんのところは、その見取り図の裏」

 ぺら、と裏返してみる。手書きの綺麗な線で、地図が書かれている。『家はココ!』『スーパーはココ!』と整った字が並んでいる。それから薬局やホームセンターや、外食するところ、学校までの道のりや、市内を走るバスの大まかな運行ペースまで、情報量は多く、しかし読みづらくならないようなすっきりしたレイアウトで記載されている。

 すご、と口にして、作ってくれたんですか、とその後にお礼をする心の準備まで整えてから言おうとして、

 ぱん、と女は手を叩いた。

「そうしたら申し訳ないんだけど、私今日、午後から仕事なんだよね」

 虚を突かれた祐弥が何かを言う前に、ごめんねー、と女は言葉を重ねてくるので、咄嗟に、

「あ、いいですよ。こっちこそすみません」

 言われれば当然のことか、と祐弥は思う。平日なのだ。それも真昼間。相手は二十代の中盤から後半。働いていて何の不思議もない時間だ。ついさっき週三日しか働いていない、なんて不穏な気配を感じるような情報を聞いた気もするが、それを考えなければ。

「色々荷解きとか、自分でやることもあるんで」

「うん。お昼はキッチンにあるもの食べちゃって。あ、あと私が行く前に何か急ぎで聞いておきたいこととかある? って言っても、すぐには思いつかないか」

「あ、じゃあひとつだけ」

「うん?」

 実はあるのだ。散々悩んでいたことが。新幹線に乗っている間だとか、今朝起きてからだとか、そんな短い間の話ではない。この同居が決まってから、ひとり悶々と考え続けていたことが、祐弥にはあった。

「呼び方、なんて呼べばいいですか」

 きょとん、と。今度は女の方が目を丸くする番で、それからやっぱり、祐弥が想像していたよりもずっと明るく、やわらかく笑って、こう言う。

「なんでもいいよ。『叔母さん』でも『由祈乃』でも『おい』でも『そこの』でも『ババア』でも」

「いや、そんな呼び方はしないですけど……。年、そんな違わないですし」

 後半の急な畳みかけに動揺しながら、祐弥はおずおずと、

「じゃあ、あの、由祈乃さん、で」

「うん、よろしくね。祐弥さん」

 祐弥さん、という言葉の響きに、祐弥は背筋にぞわぞわとした感覚を覚える。両親からも友達からも先生からも、誰からだってそんな呼び方をされたことはなかった。久宗さん、がせいぜいだ。キャラじゃない。呼び捨てでいいです、と言おうとすると、

「あっ、時間やばい」

 やけに明るい色の腕時計に目をやった由祈乃がそう言ってしまうものだから、引き留めることもできない。じゃあごめんね、と由祈乃は早足でリビングから出て行く。その背を見送ってから、ふう、と祐弥は溜息を吐いて、

「あ、そうだ」

 またすぐに顔を出した由祈乃に、驚いて息を呑んで、

「敬語」

「え?」

「いいよ、別に。使わなくて」

「え、や、でも」

「年、そんなに違わないんでしょ?」

 二の句が継げずにいる間に、由祈乃はふふっ、と笑ってまたリビングから離れていく。今度は、玄関の戸が大きな音を立てて閉まるのがちゃんと聞こえた。

 もう一度、祐弥はゆっくり溜息を吐く。

「いいとこ……だよな?」



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