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暗く、じめついた場所。ここはどこだろう? わたしは……灯りもない、細くのびた、通路を歩いていた。
壁や床は、手でふれるとざらざらとして堅い。コンクリートのようだ。そして辺りにはかすかに、汚水のにおいがただよっていた。そして左手には、なぜか鉄のパイプ? がにぎられている。
わたし……どうしてこんなところにいるんだろう? わからない。前後の記憶がまったくない。
いや、そんなことよりも。大変なことにわたしは気づく。そう。わたしの体が、自分の意思とまるで関係なく、勝手に動いている! それは異様な体験だった。どうなっているのかまるでわからない。
ともあれわたしの体は、用心深く、周囲に注意をはらいながら、進んでいるようだった。そして、とあるドアの前に立ちどまると、耳をそばだてて、どうやら中の様子をうかがっているらしい。ただよってくる緊迫した雰囲気に、訳もわからずに、ただ見ているだけのわたしも自然と息をころしていた。
わたしの手がドアノブをつかむ。そしてゆっくりとまわした。錆びついているのだろう、ギシギシと軋む音をひびかせながら、それはゆっくりと奥にむかって開いていく。
室内は暗く狭かった。よどんだ空気に思わず咳き込むわたし。部屋の奥、その暗がりの中に、誰かがいるようだ。
近づいて確かめると……何てことだろう! 両手、両足をうしろで、荒縄によってしばられた格好の、女性が横たわっていた。
若く、そしてハッとするほど美しい女性。はじめて見る顔だ。そのはずだった。
だがしかし、何だろう? すでに見知っているような、そんな既視感をおぼえずにいられない。
「しっかりして」
私はそう呼びかけて、彼女をだきかかえた。もちろんその声も、わたしの意思によるものではない。体を動かしているほうのわたしがそう言ったのだ。変な感じだ。はじめて、録音された自分の声を聞いたときのような、そんな違和感をおぼえる。
どうやら、わたしの意識とまるで関係なく、ここにいるわたしは自ら考え、行動しているらしい。他人の体に、わたしの意識だけが入りこんでしまった。つまりはそんな状況にあるのだろうか?
それとも、これは夢? そう。夢なのかもしれない。だとすれば、納得がいく。けれど、なんて鮮明でリアルな夢だろう。
彼女が気づき、うっすらと目をあけた。そしてしばられているのに気づいて、身をほどこうとあばれだす。
「しっ、静かに」
わたしはそう言いながら、彼女の手足の縄をほどいてやった。きつく縛られていたのだろう、その痕はいたいたしく赤く鬱血している。
こうした一連のやりとりからわかるのは、わたしと彼女と知り合いである、ということだった。
「あなた大丈夫なの?」
「わたしは平気よ。さあ、早く逃げるの」
「でもどうして? あいつらは何をするつもりなの……」
「決まってるでしょ。わたしたちを始末しようとしてるのよ」
「始末?」
「殺すつもりなの」
ひっ、と思わず息をのむ彼女。
どうやらわたしたちは、ただならぬ状況に追いつめられているらしい。
状況を整理しているひまもなく、廊下のほうから音がした。
「彼……彼がきたの?」
「しっ」
おびえる彼女を制し、わたしたちは息をひそめた。
来る。何者かがここへやって来る。
「ねえ、わたしが話せば、きっと彼はわかってくれる」
「まだそんなことを言ってるの? やつはそんな男じゃない。自分の利益のことしか考えてないんだよ」
わたしは部屋を見回して、奥にあるもうひとつのドアに気づくと、かけよってそこを開いた。こっち。手をふって彼女を呼び、となりの部屋へうつる。
棚がならび、ダンボールが積み重なる倉庫らしき部屋。そこをぬけ、さらにおくへと進むと、踊り場のような空間があり、非常階段があった。その上へとにげる。
後方がさわがしい。彼らがせまってきているのだ。
地下からあがった、その上階はただっぴろい、工場内部を思わせる空間だった。しかし今はもう使われていないのだろう。大型の機械はカバーでおおわれ、ほこりをかぶっている。
解体されたベルトコンベアのあいだを通りぬけ、半壊したシャッターの下をくぐって、外へ出た。
ふりかえり確かめると、そこには満月に照らされて、白く浮かびあがる巨大な建物がそびえていた。雑草におおわれた、朽ちかけた廃工場の中にわたしたちはいたのだ。
遠くに高層ビル群が見えることから、街からは、そう遠く離れた場所ではないらしい。
しかし、工場周辺の放置されたままの跡地は、大地がぬかるみ、ところどころにコンクリートの破片などがころがって、走るのにはまったく適さない場所だった。ついには彼女が足をとられて、転んでしまう。
「いたあいっ!」
ひざをかかえてうずくまる。
「立って、立つの」
しかし彼女は動けない。後方に追って来る二人の男の影が見えた。
もう逃げきれないと判断したのだろうか。わたしは持っていた鉄パイプらしきものを、両手でしっかりとにぎると身構えた。
しかし相手は男ふたり。女のわたしが、どう、戦うつもりのなのか。
すると意外なところ。後頭部に衝撃がはしった。
ふりかえり、わたしは見た。バットを持ち、立っている坊主頭の大男。ひざからくずれ落ち、意識が遠くなり……
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目をあけた。ここはどこ? 白い天井。ベッドにあおむけに寝ているみたい。
でもどうしてだろう。動けない。身を起こすことができない。
左腕に何かささっているのに気づいた。針? そこからチューブがのびて、ビニール袋につながっている。点滴。わたしはベッドに横たわり点滴をされていた。
そういえばさっきからあたりには消毒液のにおいがただよっていた。そう、ここは病室。わたしは病院にいるのだ。
……誰だろう? かけよってくる人影。近寄るその顔。お母さん。お母さんなの?
ようやく見知った顔に出会えて、心底ホッとする。
「ミキ、聞こえる? あたしの声が聞こえる?」
ミキ。それがわたしの名前なのだろうか。
心配そうにこちらを見ている。
大丈夫。大丈夫よ。そう返事をしようとした。けれど、言葉にならない。口さえも動かすことができないようだ。
目まいがした。お母さんの顔がグラグラとゆれ、天井がぐるぐると回っているよう。
これは何? どうなってるの? 目を開けていられずに、まぶたをとじる。
おそらく……精神安定剤のようなものが、点滴にまぜられているのだろう。わたしの体をやすませる目的で。
意識が……闇に飲みこまれていく……。
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あたたかい風、むせかえる新緑のにおい、満開の桜の木が並ぶ、そこは大学通り。レンガ造りの校舎へとつづく道。
アーチ型の正門。その横に立てかけられた大きな看板には「平成二十八年度第六十二回入学式」と筆文字で記されている。本日は、そう。この大学の入学式なのだろう。
通りいっぱいにあふれる人、人、人の群れ。たちのぼる熱気。誰もが期待と興奮に胸をふくらませて、門をくぐっていく。
そうした若者たちを横目にしながら、わたしは通り沿いのベンチにすわって、さっきから何度も胸ポケットからスマフォを取り出しては、時間を確認していた。
誰かを待っているのだろうか? そしてわたしはここの新入生なのだろうか?
ふだん着ることのない(記憶にはないが、そんな気がしたのだ)紺のスーツ姿を身につけているところからすると、多分そうなのだろう。
錦庄大学。もちろん、名前は知っている。そう……確か……。進学を考えていた大学のうちの一つ……だったはず。けれど。そこに合格したという記憶はなかった。
そろそろ式が始まる時刻なのだろう。気づくと大通りを歩く学生の数は、ずいぶんと少なくなっていた。
そんな中、こちらに手をふって、駆けてくる人影を見つけた。その顔は、お母さん。
「ミキー、おくれてごめんね」
あやまっているわりには、あっけらかんとした表情で「さぁ早くいかないと。式が始まっちゃうわよ」
自分の遅刻を棚にあげ、そう急かすとズンズンと先に行ってしまう。あいかわらずだ。
「ちょっと、待ちなよ」
後を追って、駆けだそうとして立ち止まる。ぶつかるところだった。横を通りすぎていく一人の女性に。
鼻腔をくすぐる甘い花のような香りに気づく。それは彼女がつけている香水の香りだろうか。
すると、フワリ、と彼女のもつハンドバッグから、何かが落ちた。絹のハンカチーフだ。
風にとばされる寸前にひろいあげ、無意識に縫いこまれたローマ文字を読みとっていた。
Ruri Andoh 。アンドウルリ。
安藤瑠璃! 脳裏に名前がはっきりと浮かぶ。呼び止めた。
「ちょっと、落ちたよ」
ふりかえる女性。その顔。えっ? さっき見た夢。廃工場で一緒に、追っ手からにげていた……あの女性?
あわて、取り乱していた、あの時と違い、今、目の前にいる彼女は、落ち着いた大人の雰囲気をただよわせていた。
長い髪をアップにして、水色の春物コートを着て、スカーフをまいている。その姿はまるで、外国のモデルのようだ。ハッとするほどに美しい。
「ありがとう」
白い歯を見せてほほえみ、ハンカチーフを受けとると、門をくぐって行ってしまった。
彼女……安藤瑠璃もまた、この大学の新入生なのだろうか。
ドクンドクン……。その背中を見送りながら、胸が高鳴っているのがわかる。何だろう、この感情。
そして、さっきのことと今のことと、どうつながりがあるのだろう?
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タプン、タプン……。打ち寄せる水の音。
両手にオールを持ち、わたしは、ボートをこいでいた。
辺りは深い霧におおわれて、場所を判別することができない。四方をとりかこむ黒い影、なめらからなラインは山脈だろうか。とするとここは海ではなく、みずうみなのか。
夜明け前、それとも陽が沈んだ後なのか、空気は冷たく、すっかり手はかじかんでいた。
そんな、どこか浮世離れしたような、薄闇の世界にわたしは一人。ボートに乗ってただよっている。
ひとり? いやほかに誰かいる。ボートの上にはもう一人、だれかが横たわっていた。
おどろいたことに、何も身につけていない。はだかのままのすがたで。
……それは安藤瑠璃? まただ。また、彼女が一緒にいる。
それにしても、この寒さの中、どうしてそんな姿で寝ているのだろう? 一方のわたしはつなぎの黒いライダース・ジャケットを着ているというのに。
寝息もたてず眠っている瑠璃。白い肌は透明に見えるほどに、よりいっそう白く、微動だにしない。まるで死んだように。
死……。そんな、まさか? 彼女は本当に死んでいる? どうして、何があったの?
今、ボートをこいでいるわたしのほうは、もちろん、その原因を知っているのだろう。そちらにいるわたしに問いかけたかった。けれど、意識を疎通させることはできない。こちらにいるわたしは成り行きを見ているしかないのだ。
頰をつたい落ちる熱いもの、なみだ? そう。わたしは泣いていた。
そしてポケットから金のネックレスを取り出すと、そっと瑠璃の首にかけてやる。一見シンプルだけれど、センスのいいデザイン。高価なもののように思えた。
長いこと瑠璃の顔を見つめた後、わたしはゆっくりと近づいて、色をうしなったくちびるに自らのくちびるを重ねた。つめたい。体温をうしなった、こおりのようなくちびる。
それから両手で体をかかえあげて、もう一度、いとしそうに顔を見つめると、そっと、みずうみに解き放つ。
しばらくのあいだ、水面に浮かんでいた瑠璃の体は、ほどなく、ゆっくりと沈んでいった。
ちょっとまって。どういうこと?
瑠璃が死んでいたのも謎だったけれど、それ以上に、どうしてこんなふうに勝手に遺体をとむらっているのだろう。わけがわからない。
普通であれば、葬式をして、そのあと火葬場で焼却してもらうという手順をふむはずだ。それなのに。これでは死体遺棄のうたがいで逮捕されてもおかしくない。
……。
しかし結局、深い緑の色をしたみずうみの底へ、沈んでしまった瑠璃の体。
「さようなら」
うつろな声で、わたしはつぶやく。
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ゴボッゴボッ、ゴボゴボ、ゴボッ……。
水が。水がはいりこんでくる。
ここは? 車の中。ドアのすき間や、足元から水は流れこみ、すでに腰のあたりまでつかっていた。
フロント・ガラスの向こうは、暗く、ユラユラと揺らめいて。そこは……水の中?
どうやらあやまって、車ごと水の中へ落ちた、とそういう状況にあるようだ。
ともあれこのままではすぐに、車内は水でいっぱいになって、おぼれ死んでしまうにちがいない。早く逃げなければ。
わたしは車から出ようと、ドアを押した。けれど、それはびくともしない。
水中においては、外からの圧力が大きく、中から人の力では開けることはできないのだ。テレビのニュースで、そう解説されていたのを思い出す。
脱出するのなら、窓を開けて、そこから出るしかない。けれど、ここまで水没してしまうと、もはやパワーウィンドウは動作しないだろう。となると後は、サイドガラスを割るしかなかった。
しかし当のわたしときたら、パニックを起こしているようで、ただあたふたとするばかり。使い物にならない。
「ミキ、おちつきなさい」
すると呼びかける声が。運転手にほかの誰かがすわっているのに、ようやく気づいた。ひとりではなく同乗者がいたのだ。
ショート・ヘアのボーイッシュな雰囲気の女性だった。見たことのある顔だ。しかし名前が思い出せない。
わたしより年上のようで、冷静に行動しているように見えた。彼女にまかせておけば大丈夫かもしれない。彼女は靴下をぬぐと、その中に、バックから出した小銭数枚を入れた。そして強くねじると、ヌンチャクをふりまわすようにして、サイドガラスをたたき始めた。
「テレビで見たことがあるのよ」
たたくたびに、ひびは大きくなって、五度目、ついに全面にいっせいに、ひびがはいる。
「ミキ、いくわよ。息をとめて。あたしの後につづいて、上へのぼるのよ。いい?」
そう言って足で思いきりガラスをけると、きれいに粉々にくだけてしまう。と同時に水が流れこんでくる。
しかしパニック状態におちいっていたわたしは、一気に車内をみたした水を思わず、吸いこんでしまったらしい。手をバタバタさせ、もがき苦しんでいる。
同乗していた女性は気づかずに、割れた窓から出て、水面に向かって行ってしまった。
待って、待って、待って。おいていかないで。苦しい。息ができない。完全に取り乱している。
もうだめだ。このままでは。わたしは……。
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水の音。いきおいよく地面をうつ、雨の音。
重苦しいグレイの色にそまった空。高層ビルがすぐ近くにそびえている。
大きな公園だ。等間隔にならんだベンチ。タイルが敷きつめられた遊歩道。植え込みの緑黄樹。
しぶきを上げる円形の噴水前に、わたしは傘をさして立っていた。ひなげしの花が雨にうたれ、揺れている。それをじっと見つめて……わたしは何をしているのだろう?
……すると、気配をおぼえて振り向いた。赤い傘、白いレインコート。こちらに近づいてくる人影。誰だろう? 傘をあげ、そこからあらわれた顔は。瑠璃だった。
生きていたの? でも、みずうみの上、ボートに横たわった、彼女はたしかに死んでいた。それなのに。今、目の前の彼女は生きて、動いている。わからない。何が、どうなっているのか。
今、彼女は表情は、ひどく暗かった。思いつめているようだ。そして、何故だかわたしと目を合わそうとしない。二人のあいだに流れる気まずい沈黙。喧嘩でもしたのだろうか。
しかし次の瞬間、いきなり駆けよって、腕の中に飛びこんできた。胸に顔をうずめ、身を震わせて、泣いている。
「瑠璃、何があったの?」
わたしの声は動揺して、ふるえていた。
「泣いてちゃ、わからないよ。おしえて」
瑠璃が顔をあげた。涙であふれたひとみが、宝石のようにキラキラとかがやいている。
「あの人よ。楠誠一。彼の子供を、妊娠したの……」
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水の音。のぼる水泡。透明な水の中をおよぐ熱帯魚? 青白いランプにうかびあがる、水槽。
革張りの大きなソファに身をゆだねてわたしは座っている。
スタンド・ライトのほのかな灯りひとつに照らされた、暗い室内。そして香のにおい。今度はどこにいるのだろう?
……わたしの横で、動く人影。誰かいる。
「私の声が聞こえる?」
女性の言葉にうなずいた。
「何か、思い出したかしら?」
顔を向けるとそこに、背の高い、メガネをかけた、学者のような風貌の、女性がすわっていた。
しかし、その問いかけの意味がわからなかった。そもそもここは……。
「どこなの? わたし、何をしてるの?」
思ったことをそのまま口にして、そしておどろく。
わたし、今、しゃべった。言葉を発した!
手をあげ、首をひねり、背筋をのばす。自分の意思で、自分の体を動かすことができる!
「何をしてるの?」
会話の途中で、急に体を動かし始めたわたしを不審に思ったのだろう。横にいる女性が心配そうにそう聞いた。
「わたし、しゃべれる。動けるの!」
すっかり興奮していた。
「夢を見ていたのね」
「えっ?」
「夢と現実のさかいがはっきりしなくなって、混乱しているんだと思います」
知ってる? この人は、わたしが不思議な夢を見ていたことを。もしかして。
「あなた…………わたしに、何かした?」
暗闇になれてきた目にうつる、室内の様子。
書棚にならぶたくさんのファイルや医学書。デスクの上には、カルテらしき書類。スタンドにかけられた、白衣。
「私が誰かも忘れているのね。ではもう一度、説明しましょう。私は内海はるか。心理療法士です。治療のために、ミキさんに催眠術をかけました」
催眠術?
「といっても、決して変なものじゃありませんよ。そもそも正確には催眠療法といって、正式な治療法として学会にも認められているものなんです。脳をリラックスした状態にして、忘れていた事柄を思い出したり、混乱した記憶を整理したり。心の問題を解決するのにとても有効な方法なんです」
「わたしは……その治療中ということ? でも、どうして」
「ミキさんはひょっとして、事故のこともおぼえてないの?」
水中に車ごと落ちた、あのことを言っているのだろうか?
「運転をあやまって、あなたの乗った車はみずうみに落ちたの。救出が早かったので、命にべつじょうはなかったけれど。そのショックであなたは記憶をなくしてしまったのよ」
みずうみ……記憶……なくした……。
「外傷性健忘症。外部および内部から受けたショックによって、一時的に記憶を喪失してしまう、心因性の病気です。でも心配いらないわ。ほとんどの場合、もとどおりに完治して、以前のような生活をおくれるようになりますから。ミキさんも、治療を続けれていれば、必ず記憶はもどってきます」
ということは……。
「わたし、夢を見たの。あれは過去に実際に体験したことなの?」
「ええ。夢、というか正確には追体験といったほうがいいわね。私の催眠によって、ミキさんは忘れていた過去をもう一度、体験することで、思い出しているんです」
「でも、それらは途切れ途切れで、ぜんぜん、つながりがなかった。あれは、どうなってるの?」
「めずらしいことではないわ。記憶は時間の流れどおりに、よみがえってくるものではないの。印象が強く残っているものだったり、前後のつながりによって、先にとんだり、もどったり、ランダムに記憶は戻ってくる。そうね。バラバラになったジグゾーパズルのようなものかしら。全てがそろって、一枚の絵になった時に、真相がわかる。記憶がよみがえるということになるの」
時間が前後してるってこと? だとすると。
「どうしたの? 疲れたかしら? もしそうなら、本日はここまでということにして。続きはまた後日にしましょうか」
「いいんです。治療を続けて」
わたしは言った。待っていられない。過去に何があったのか、いっこくも早く知りたかった。
「そう。わかりました。あなたがそうしたいというのなら、続きを始めましょう」
内海先生はうなずいて、「さぁ、私の目を見て」そう言った。
先生の瞳は大きくて、吸い込まれそうだ。
「大きく息をすって、はいて。もう一度」
先生の声はゆったりとして、聞いていると、警戒心が自然と消えてゆくような、不思議な作用をもっていた。
「息をすって、はいて。軽くなる。あなたの体は軽くなって、ほら、浮き上がる。空にむかってどこまでも。心を解放して、時をこえて」
彼女の声が遠くなる。そしてわたしの意識は……
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ひとけのないカフェ。モワモワと天井まで立ちのぼる紫煙。
わたしは一人、テーブルについて、タバコを吸っていた。灰皿にはたくさんの吸い殻。おどろいた。自分がこんなヘビー・スモーカーだったなんて。
右手にはシャープ・ペンシル。カチカチとせわしなくノックして、芯をだしたり、またひっこめたりを繰り返し。かと思えば、書きかけのレポートをぐしゃぐしゃにまるめて、壁際のゴミ箱にほうりなげる。それはレポートのクズでいっぱいだ。
そうとうイライラしているみたい。大学に提出する課題がはかどっていない。理由はそんなところだろうか。
……いや、ちがう。そんな単純な理由じゃない。何かもっと別の。
大きなガラス窓の向こうは、大学通り。道の先に通っている大学のレンガの校舎が見える。
季節はどうやら秋のようだ。黄色や赤に色をかえたもみじの葉が、ヒラヒラと落ちて、舗道をうめつくしている。その上を行き交う学生たち。手に本やノート、カバンをもって。その中に、見知った顔を見つけた。
瑠璃。ベージュ色のコートを風になびかせて歩いてくる。
そして誰だろう? その横を寄りそい歩く男。右手をさりげなく、瑠璃の腰にまわし、耳もとで何やらささやきかけては、二人一緒に、クスクスと笑っている。
馴れ馴れしいその態度に、何ともいえない、不快な気分になる。
でもまって……あの男、見覚えがある。誰だったろう? ……そんな……まさか。
……夜の廃工場、にげるわたしと瑠璃を追ってきた。男たちの中に……やつはいた。瑠璃。だめ。どうして、そんなやつと一緒にいるの?
ああ! できることなら今すぐにおしえてあげたい。そいつがいかに危険な男かということを。でもだめ。これは過去を追体験しているだけ。どうすることもできないのだ。
それにしてもこの二人。どういう間柄なのだろう? 考えるまでもない。その親密な様子からして、恋愛関係にあるのだろう。
それがどうして? まあしかし、愛情が一転して憎しみへ変化するのは古今東西よくある話だった。何かをきっかけに二人は喧嘩して、憎み合うようになって、そして瑠璃は監禁される。そういうことなのだろう。それにしても監禁だなんて。いくら何でもおおごとすぎる。
そしてまた唐突にうかぶ、瑠璃の死んでしまった顔。瑠璃は殺された? ひょっとして、監禁していたのは、殺すため?
瑠璃は、あの男に殺されたのだろうか? そんな、どうして? 殺すほど憎まれる理由なんて……。
妊娠。ふいにその単語が脳裏にうかぶ。望まれずに生まれた命。二人はそれをめぐって争うようになったのかも。
噴水前で、ある男とのあいだに子供を妊娠した、と瑠璃は言った。その相手の名前は……楠誠一。確かにそう言った。
あいつがその、楠誠一?
よしっ、ならば。もう一度、はっきりと頭に刻み込んでおこうと、その顔を確かめる。
よく見ると、男はわたしたちよりも、ずいぶんと年上のようだった。三十をこえているかもしれない。身のこなしも落ち着いていた。
ブランドものらしき、品のいいスーツ。これ見よがしに、高価そうな、指輪、腕時計、ネックレスといったアクセサリーを身につけて。
二人は通りのはしに駐めてあった車に乗りこんだ。新車らしき黒のジャガー。リアバンパーが少しでっぱるようなデザインに改造してある。高級車だ。学生の身分でおいそれと乗れるような車ではない。きっと相応の稼ぎがある仕事をしているのだろう。
大人の恋愛。なるほど。瑠璃にはそれがふさわしい。彼女からしてみれば、同年の男など、幼稚すぎて相手にならないのだ。
ふと、わたしが席をたつ。ひょっとして、あのいけすかないオジンから、瑠璃を奪い返しにいくのではないかと、期待したが、何のことはない。向かった先はトイレだった。
洗面台の前に立ち、壁にとりつけられた鏡と向き合う。そこにうつる自分の顔を新鮮な気持ちでながめる。そう。それすらもわすれていたのだ。
残念ながら美人というほどではない。けれど、それほど悪くもない、ふつうの顔だった。
髪をツンツンにたてて、耳にはピアス。ドクロのネックレス。パンク風ファッションとでもいうのだろうか。
すると、ふと脳裏にバンドの名前がうかぶ。セックス・ピストルズ。ザ・クラッシュ。ダムド。すらすらと出てきたところをみると、よく聞いていたのだろう。
しかしそんなことより、わたしは目を真っ赤にはらして、泣いていた。蛇口から流れる水であらっても、流れて止まらない涙。
瑠璃が原因なんだろうか。大切な親友が、あんな軽薄な男にだまされているのを悲観して。それにしても号泣するほどのことでもない気がする。しゃくりあげ、身をよじらせ、嗚咽するわたし。
どうして、何がそんなに悲しいの? 自分のことなのに、理解できない。見ているわたしにとっては、それが何よりつらかった。