エピローグ
その後ずっと私は、閉鎖図書館の中で、大好きな本たちを読んでいる。かれこれもう190年ほど経つ。”彼ら”は、もうこの世にはいないだろう。どうなったかもわからない。
しかし、鬼になった私と先生を元に戻してくれた、5つの言葉を今でも鮮明に覚えている。
「優しさ」「強さ」「羨望」「真実」「孤独」
全てありがちだった。
しかし、それぞれ心の中で持ち合わせていながら、なかなか気付けないものなのだろう。私の場合は何であろうかと最近考えるようになった。昔の記憶をあれこれたどってみると、先生に、”希望”を与え、また”絶望”を与えた。そんなところであろうか。
私の力でできることは限られている。だが、後悔はしていない。少し疲れただけだ。今となってはかける相手もいない。しかし、私は「寂しい」と思ったことは一度もない。もう何者とも関わるのはごめんだ。1000年かけてそれを思い知った。
――ところで、あの女性はどんな伝奇を書いたのであろう? そして王国の人々にどう伝わっているのだろう。人間のことだから、きっといろいろ脚色して御伽噺のような話になっているに違いない。私はなりたくて鬼になったわけではないというのに。
しかし、人間の住む世界を一度壊してしまった責任もあるので、そこは大目にみよう。それにもうあそこは“モーレピア”という名前ではないかもしれない。革命でも起こっていればまた人間は、新しい本を書くだろう。それも是非読んでみたいものだ。だがそれほど私は長くない。
私が死んだらこの閉鎖図書館の封印も解ける。もし、誰かがこの鬼の伝奇を見つけ、それを解読できるだけの文明を持つ日が来たら、再び“エルフ”のような種族が生まれ、私のような能力を持つものが現れるのだろうか。それとも戦争でも起こって人類は滅んでしまうのか。
物心ついたときから親のいない私にはわからないが、時代が来れば「人間」と「エルフ」が愛し合うこともあるだろう。しかし、誇り高きエルフの血を薄くしてまで愛し合うものなどいるのだろうか。
産まれてくる者は何と思うのだろう。可能性の話だが、見てみたい気もする。
愛といえば、シェイクスピアの詩で「愛は、嵐にあってもびくともしない」というフレーズを見たことがある。私は未だにそれが理解できない。人の心は常に揺れ動いている。私が先生に心を許したあの時間が、あの試練の場で急に止まった。
1000年もかけて彼女のためになろうとした私をばかばかしく思った。そしてそれを思い出すと、怒りでも悲しみでもない、不思議な気持ちになったのだ。
(何のために私に近づいたのか)
そんなことはよくわかっている。トーマスを蘇らせるためだ。しかし、それは叶わなかった。私は彼女の役に立てなかった。はじめて人の役に立ちたいと思った。そして、先生の喜ぶ顔がみたかった。なぜこのような感情を抱いたのか、今でも分からない。
そもそも私は自分の感情というものがわからない。喜怒哀楽で笑ったり、泣いたりした事もない。ただ、先生のことを思うと、今もずっと頭がもやもやするのだ。胸の鼓動が早くなり、息苦しくなる。そして、(私がトーマスだったら)と恨むのである。なぜあれほど先生に”求められて”いるのか。それが羨ましかった。
「私の、愛しのトーマス……」
(愛は、嵐にあってもびくともしない)
(……!)
そうか、愛か!
先生はトーマスを心の底から愛していたのか、シェイクスピア! そして、私はそんなトーマスに嫉妬していたのだな。そして鬼の姿になった、ということか。
しかし、納得したところで彼女はもういない。
私は閉鎖図書館の中ではじめて一滴の涙を落とした。それはこの文章にじんわりと滲んでしまった。“穢れ”てしまったこの文章を、なんと名付けよう。
そういえばアゼルは私のことを厭味ったらしく“イミタシオン”と呼んでいたな。この涙は、さらさらと砂時計が流れるように月が消え去ったときのものと似ている。いろいろ考えたが、後世に私の名を残すのは嫌だ。さしずめ、鬼の伝説、
『イミタシア』
こんなものにしておこう。
もし、人類が再び発展し、エルフも人間も関係なく、文明を築くことが出来たなら……それは私の見てきた世界よりも発展し、また、醜い争いもなくなるかもしれない。しかしそれが本当に人類の望むものかどうかは分からないが――
「愛は、嵐にあってもびくともしない」
引用元:平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫)p41「真心と真心との交わりに」より。