走る糸1
アンが、ディアドラが居なくなった事に動揺していると、侍女がやってきた。身支度のために再び来るようにと約束していた時間通りだ。部屋の状態を見た侍女は、驚いて顔色を変えた。アンは、侍女に口止めをしつつ、ウィルフレッドに至急内密に相談したいからと、居場所を聞きだす。
「この時間ですと、おそらく城の兵舎の広場で日課の鍛錬をなさっているかと」
「ありがとう。この部屋には戻るまで誰も入れちゃ駄目よ」
そう言うと、アンは直接ウィルフレッドの元へ急いだ。人影を見つけると澄ました様子で静々と歩き、人気のない場所ではスカートをたくし上げて走った。
早朝、兵士達が鍛錬をしている場所には、城のお仕着せを着ている者以外滅多に近寄らない。そのため、息を切らして姿を現したアンは人目を引いた。
ウィルフレッドもジョンも直ぐに気が付いた。早朝からアンの顔を見る事が出来て喜んだウィルフレッドは足早に駆け寄った。
「アン嬢、おはよう。朝が早いな」
「アン様、おはようございます。良く眠れましたか?」
「ウィルフレッド様、ジョン様、おはようございます」
周りの耳を気にして、アンは直ぐには事情を説明する事をためらった。
「少しお時間を頂きたいのです」
声を潜めたアンに促され広場の隅に寄る。アンは、周りの兵達から離れている事を確認した。周囲へ警戒するアンにウィルフレッドもジョンも不思議そうな顔をした。
アンは、散歩から戻ると部屋が荒れいてディアドラの姿が無くなっている事を説明し、とにかく一度部屋へ来て確認して欲しいと懇願した。
ウィルフレッドは笑顔で、兵達に迎えが来てしまったから今日は終わりにすると断りを入れた。ここまで入り込んでくる令嬢は今まで居なかったために、兵達から好奇の視線を集めていたのだ。
広場を離れ人気が無くなると、ウィルフレッドの顔から笑顔が消えた。足早にゲストルームへ向かう。先頭を進むウィルフレッドは、アンの通って来た道よりも人の少ない道を選んだ。
扉に手をかけたのはジョンだった。安全を確認せずウィルフレッドを部屋に入れるわけには行かない。わずかに扉を動かしただけで強く香水が香る。ディアドラが愛用している香水だという事は直ぐにわかった。
そして、ジョンは部屋の惨状に絶句するが直ぐに我に返り、ウィルフレッドとアンを中へ入れ扉を厳重に閉めた。
部屋に残って待っていた侍女は、緊張した表情の中にもほっとしたような顔をした。
ジョンは足早に室内を歩き回り、ディアドラの不在を確認した。
「アン様」
ジョンの低い声に振り向いたアンが凍り付いた。
ジョンが、いつの間にか腰に下げた剣を引き抜いて、アンに付きつけていたからだ。
「ディア様をどこにやった?」
「え?」
「ジョン!」
「一番疑わしい立場にいらっしゃるのが、ご自分だという自覚はおありか?」
アンが絶句していると、さらにジョンが畳み掛ける。
突きつけている剣の切っ先は揺るがない。
「ディア様がアン様に嫌がらせをしているという噂の流れ方は、驚くほど一気に広がり、疑惑の目を向けられ、ディア様の立場を悪くしました。誰かが裏で糸を引いているとしか思えなかった。噂のお蔭でウィル様に近づき易くなったのではないですか?」
いつもは穏やかなジョンの灰色の瞳が、今は苛立ちを抑えられず僅かに揺れていた。
「そして、昨日の階段の件も誰かに押されたと貴女は言いましたが、誰もそれを見ていない。おかしな話ではありませんか? そして、まんまと同じ部屋に泊まり、二人だけの時間にディア様が行方不明になっているんですよ。一番疑わしいのは貴女だ。違いますか?」
「ち、違います! ディア様は……恩人です。ディア様が困る様な事はしません」
「……」
アンが否定してもジョンは剣を下げる事は無かった。
見かねたウィルフレッドが、声をかけた。
「ジョン。ディアに疑惑の目を向けてしまったのは俺だ。アン嬢は、否定しただろう? 階段の件だって、俺が引き留めなければあの場所で二人が揃う事は無かったんじゃないか? それに二人が同じ部屋に泊まったのは、ディアから強い要望があったのを、俺が許可したからだ。違うか?」
「……」
「ジョン。命令をさせるな」
「……申し訳ありません」
ジョンが剣を鞘に納めた。それを確認したウィルフレッドは、アンに視線を向けた。
「アン嬢、内密に知らせに来てくれた事、良い判断だった。ありがとう」
ウィルフレッドの言葉に緊張して息をつめていたいたアンは、安心して深く息を付いた。