白い部屋
彼は真っ白な部屋の中にいた。ドアも窓もなければ、家具の類も一切ない。サイコロの内側だと言われたら信じてしまいそうなほど、綺麗な立方体の中に彼はいた。そして彼は、自分が小説の中にいることを自覚していた。
俺が何を感じ何をしようと、それはこいつを書いている奴の思惑通りってわけだ。もしかしたら、この思考でさえ奴の掌の上なのかもな。おもしろくねえ。
胸の内に不満を募らせながら、彼は考えていた。それにしても、こいつはいったいどんな物語を描くんだ?さっきからまったく筆の動く音が聞こえない。まだ何も思いついていないのか。まぁでも、気長に待ってやるさ。俺様は器が大きいからな。
彼は最初のうちこそ余裕があり、歌ったり踊ったり、横になったり体を動かしたり、適当な小咄でも作っては自分で笑い、膨大にある時間を自由に過ごしていたが、二週間もすると次第に苛立ちはじめ、最初は小さかった愚痴も、段々と大きな罵声に変わっていった。時間はたくさんある、だけれどぜんぜんない。矛盾した頭の中で、焦りだけが膨張していった。
一ヶ月が過ぎた頃には、完全にやることもなくなり、部屋の中で死んだように転がっていた。俺は何のために生まれてきたんだ、物語が描かれないなら何の意味もないじゃないか。そんなことばかり考えて、考えるだけで答えは出なかった。
数ヶ月が過ぎた。ピン、と突然今まで感じたことのない感覚におそわれた。衝撃と言い換えてもいい。腹の底から滾る何かを感じる。全身の血液、細胞という細胞がこれまでにない速度で循環しているような気がした。体中にパワーが漲り、自然と姿勢が良くなる。これは、きたんじゃないか?
瞬間、真っ白だった壁に黒い文字が次々と浮かび上がる。いや、次々となんてものじゃない。怒濤の勢いだ。ついに物語が始まったのだ。彼はまるで自分が生き返ったような錯覚を覚えた。
おお、やっとか、やっと始まるのか、俺の物語が。体中になみなみと、物語の情景、登場人物の心情が流れ込む。どうやら王道のファンタジーものらしいな。俺としては推理小説か、サスペンスかホラーか、そういう陰のあるやつがよかったんだがな。それもラスト数ページで、読者を驚嘆と絶望でどん底に落とすような、大どんでん返しで救いのない物語が。しかし、文句は言うまい。何度でも言うが、やっと始まるんだ、俺の物語が。
立方体の内側、壁という壁、天井や床にわたって、文字が敷き詰められていく。それからは今までの日々とは打って変わって、充実したものとなった。文章が綴られては咀嚼し、考え、あれはこうでこう、そしてそれは伏線にしよう。あそこはちょっと変えた方がいいかもな、言い回しがくどすぎる。などと、彼も彼なりに尽くして、執筆は朝まで続いた。
あっと言う間に数週間が過ぎた。部屋は文字で埋め尽くされ、真っ黒になっていた。インクの匂いが心地よい。それまでがそれまでだったために、非常に濃密な時間を過ごした気分だ。いや、気分ではない、紛れもなく充実していた。今となっては、あの退屈が夢だったかのようにさえ思える。待っていて本当によかった。途中、登場人物たちに降り懸かる災難や不条理に憤り、彼らの喜びが自分のことのように嬉しかったり、涙を流したりもした。我ながら震える出来だ。まさに血と汗の結晶。これは、間違いなく傑作だ!すごいものが出来たぞ!
彼は幸せの絶頂だった。完成した、これはもう俺たちの物語だ。これを越える代物なんて、この世のどこにもないだろう。
パッ、と明かりが消えた。自分の体も見えなくなった。彼は身じろいだ。突如として絶望が流れ込んできた。負の感情をミキサーにかけて、まるごと飲み込んだような感覚だった。
文字なんかの比ではない。なみなみなんてものじゃない。インクをひっくり返したような勢いで、部屋に液体が流れ込んでくる。壁には亀裂が入り、真っ暗が覗いて見える。液体が外に流れ出る気配はない。原因を探ろうにも、すでに下半身が波に呑まれていた。
やめろ!どうしてこんなことをするんだ!素晴らしい作品だったじゃないか!
インクの匂いも不快でしかなくなっていた。かさが高くなってきている。全身呑まれるのも時間の問題だろう。彼はただ困惑していた。最高のものが出来たはずなのに、あいつはどうしてこんなマネを?
壁が迫ってくる。インクで滲んでしわくちゃになった壁が。俺はもう終わりだ。波はもう首まで上ってきていた。どうしてこんなことになったんだ。順調だったじゃないか。そりゃあ確かに多少のぼせていたかもしれないけれど、それでもいい作品だった。贔屓なんてしてない、俺の本心だ。どうしてこんなことに、どうして、どうして…………。
そして、彼は包まれた。