北海道合宿、開始。
1990年4月。
以無 鬼業、18才。
日本国外務省武力外交官養成所、入学。
「それは良いんだが、なあ」
思ったより。つまらん。
身長186センチ、体重105キロ。筋骨隆々を絵に描いたような男。100メートルを1秒で走り抜け、握力は10トンを超える。人類の限界を容易に飛び越した怪物。
その名を、以無鬼業。
鬼業は古武術、以無を修めた武芸者。その実力を買われ、半ば特待生扱いでここに入って来た。
スカウトに来た人間の話では、日本全国の強い若者をかき集めたらしいが。
養成所の中庭、よく日の当たる場所で、鬼業は腕を枕に昼寝していた。良い天気だ。
高校を卒業した後、普通に実家を継ぎ、世界で戦うつもりだった鬼業。その鬼業の、と言うよりは以無の武名を求めた政府によって、鬼業はこの養成所にやって来たのだ。
「世界中の女性と知り合えるぞ」
そう言われて断る男はおらん!
・・・だが、知り合えたのは自分と同年代の男ばかりだ。これからなのだろうが。はあ。
やる気は出ない。
「そんなお前に、とっておきの情報だ」
「教官」
虎星 晴男。やはり虎星の武術を極めた男。確か60代と聞いたが、素晴らしい腕前だった。
その名の通り、虎のような面構えと気迫、更には注意力、用心深さを兼ね備えた古豪だ。
「お待ちかねの北海道合宿だ。北海道は、何でも美味いぞ」
「そっすか」
メシの美味いのは大歓迎だが。この関東のメシも悪くはない。強い欲求までは、無い。
「あそこには、北海道最強の男を招いている」
「へえ・・」
この時、鬼業は目を初めて開いた。
強者。
鬼業は、それだけを求めている。
1ヶ月前。
「これで。免許皆伝だな?」
高知県、技四王町の山の中。
以無の奥義伝授が行われていた。
鬼業の手には、鬼業の手が回りきらぬほどの大木。それが、鬼業の片腕で掴まれ、宙に浮いている。
ザン
樹齢百年を超える杉の木が、ナイフで切り裂かれるウインナーのように、鬼業の手によって切断される。
鬼業の指先から伸びる、見えざるブレード。
以無の最強破砕奥義、貫通城。この技を二十歳になる前に習得したのは、鬼業が初めてだ。代々の以無は、大抵が我が子に教える手前で使えるようになるものだ。
鬼業の、飛び抜けた才能の証左。
だからこそ、鬼業には戦う相手が居なかった。
世界を飛び回ろうと、親父と戦おうと。最後まで行けば、どちらかが死ぬ。そして、最後まで行かぬのであれば、それは死闘ではありえない。
無い物ねだりの葛藤。鬼業のストレスは、それなりに溜まっていた。
今の鬼業を世に解き放つのは、かなり怖い。それでも、父、以無 具業には、止める方策が無かった。
現時点でも、鬼業はあるいは、自分より強い。具業は、全盛期を越えていない。体力もまだ衰えてはいない。
その状態で尚、鬼業は具業を超え始めている。
ならば、旅立つも良かろう。以無を止められる者など、この世におらん。
「武力外交官の話、ちゃんと考えているのか?」
「おう。本当は、親父に任せたかったらしいが。まあ、おれでも十分だろ。素人相手のお仕事らしいし」
高知に留まるよりは、東京にでも出た方が、強者と会える確率は増える。ましてや、外交官として税金で世界を飛び回れるのはデカイ。かなり良い仕事だ。
「養成学校ともなれば、日本中の若者と知り合えるだろう。友をたくさん作っておけよ」
「おうよ」
真面目に聞いているのかどうか。それでも、武に関してだけは手を抜かない鬼業。それだけは、具業も鬼業を信じている。
そして鬼業はわざわざ北海道くんだりまで来る羽目になったわけだ。
「さあ、お前ら。楽しい楽しい自己紹介の時間だ。以無から順に!」
鬼業より大きい、クマのような男。北海道合宿所、特別顧問。大熊 角。
「以無鬼業。以無の古武術を学んだ。高知県から」
北海道合宿所でも、やはり挨拶から始まった。
あいうえお順だと、鬼業はだいたい始めの方だった。
「河川 磁器。花押式柔術免許皆伝。長野県の者です」
身長178センチ、体重82キロ。どちらかと言えば、やせ型。強さが表に出ないタイプと見た。
「木の実 八。プロレスラー志望のアマレスチャンピオンです。東京都出身」
身長190センチ、体重130キロ。瞬発力と持久力を兼ね備えた、理想的な肉体。頑強さでは、飛び抜けているか。
「瀬古 早人。福岡県出身です。空手塾、孤高最強流を学びました」
身長170センチ、体重89キロ。小さな体に、運動限界ギリギリまで筋力を溜め込んだ、宝石のような肉体。アスリートと言うよりは、格闘技者の傾向が強いか。
「南部 遠里。岡山県から。ボクシング高校チャンピオン。将来は、アメリカに行くつもりです」
身長180センチ、体重84キロ。こちらは逆に、完全なアスリート。一点集中させた芸術品だ。
「春風 忍。山河流忍術免許皆伝。山口県出身です」
身長172センチ、体重66キロ。最も、もろそうな体に見えるが。こいつだけ、底が見えない。
鬼業による、ざっとした評価も交えつつ。各自の挨拶が終わった。
以上。このわずか6人が、日本最精鋭の若者達だ。と、政府は考えた。だから目の行き届く範囲に置き、母国への愛着も養うために、丁寧な指導と適切な環境を授ける。
それが、この合宿であり養成所なのだ。
「さて。関東では準備運動しか出来なくって、退屈だったろう?ここでは、お前らに思う存分、運動させてやれるからなあ」
思いっきりハードに動かしまくる予定なのだろうなと。その一言で分かる。
「今日は、走るだけで良い。ここから宗谷岬までダッシュ。それから、北海道の縁を走れ。宗谷岬までな」
?
現在地である合宿所から宗谷岬まで、片道150キロはあるはずだが。
そして、縁だと。
「簡単な話さ。北海道を、ぐるり一周。それだけで良いんだ。終わった奴から、晩メシだ」
「ちょっと待って下さい!何千キロあると思ってるんですか!?」
木の実からの常識的なツッコミ。
「たったの三千キロ以下だぞ?それに、国道を走って良いんだぜ?簡単だろう?」
マジかー。
鬼業と春風以外は、ちょっと現実逃避した。
ちなみに。普通の人間は1日で50キロ歩けば大したものだ。100キロからは走らないと間に合わないだろう。
そして、ネタでしたー、と言うオチが来ない。
これは大真面目な訓練メニューなのだ。
「走れ」
大熊の目には、冗談の色は全く無かった。
「どうした。腹でも痛いのか」
全員が大人しく出立したのを見送った大熊と鬼業。そして鬼業はいきなり、昼寝を始めた。
「おれが一緒に走ったら、あいつらがやる気を失くす」
「天狗の鼻は、まだ折れてないのか」
「おれの鼻は、折れねえよ」
大胆不敵、大言壮語。
大熊は、間違っても弱者ではない。だが。その目からしても、鬼業と言う男の底は、見えなかった。
全員の姿が消えてから、1時間。春風が戻って来た。
「はあっ、はあっ、はああ」
呼吸を整える春風。優男に見えたが、中々どうして。こいつは、やるようだ。
今まで寝っ転がっていた鬼業は、春風にやかんのお茶を入れてやった。
「どうも・・・」
一服する春風。
「・・・以無さんは、もう帰ってたんですか?」
呼吸を整えた春風は、少しの疑問を発する。追い抜かれた事を気付けなかったのは、春風にとって、かなりの大失態。ちょっとショックを受けている。
「いいや。おれはまだ、走り出してない。ま。そろそろ、行くか」
何だ、この人。
そう思った春風の目の前で、鬼業の姿はかき消えた。轟音と共に。
ゴ!!!
鬼業の速度は時速200キロに到達。そしてこれはスタートダッシュに過ぎない。
そこからの更なる加速により、1分で宗谷岬に到着した。
「こっからだよなあ。縁を走れば良いんだよな?」
言うなり鬼業は、海に出た。走って。
バ!
海上を、走る!北海道とは、即ち島。周囲は全て海。これなら、他の参加者の心を折る事なく走れる。
「さあ!行くかよお!!」
なるほど!特別顧問の言った事は正しい!
海なら、全力を出しても問題無い!!!
オ!!!!
空と海面を交互に蹴りつけ、3音速までを実現。
・・・流石に全力を出し過ぎて、余力を失うとカッコ悪い。これぐらいで良いだろう。準備運動だしな。
これで鬼業はまだ、本気ではなかった。
結局。鬼業は、3時間後には合宿所に帰って来た。
「ただいまー」
息を切らしてない。春風は、まずそこに驚いた。返礼として鬼業の帰りに合わせ、茶でも出してやろうと思ったのだ。
「おう。ありがとな」
出された茶も、ぐいっと飲み干す。呼吸が荒ければ、とても出来ない。少し前に帰って来た河川などは、まだ寝転がっているのだ。
「しかし、お前すごいな。実際走ってみて分かったけど、やっぱ北海道でっけえ。それをたった1時間とか、お前人間じゃねえな」
大笑しながら春風を賞賛する鬼業。鬼業の目には、強者の可能性の濃い春風は、かなり好ましい人間に映る。
褒められている、のだろうと考え、鬼業の言葉を素直に受け取ろうと努力する春風。
「ええ。山河流忍術では、走術は基本中の基本。格闘術は、実は苦手なんですけど、基礎体力だけなら自信があるんですよ」
「へええ」
ニコニコしながら、春風の話を上機嫌で聞く鬼業。まるで、人に懐いた猛獣だ。
話にも一区切りついたら、鬼業は再び足を動かす。
「どちらへ?」
鬼業へ問いかける春風。一度は合宿所に入ったはずの鬼業。だが今はリュックサックに大量の飲み物とおむすびを入れ、またも合宿所を出ようとしている。
「まだ、木の実、瀬古、南部が帰ってない。あいつらに届けてやる」
「構わないんですか?」
今度は、大熊に問うてみる春風。春風自身には、そこまでの義侠心は無い。
「おれは、北海道を一周して来いとしか言ってない。好きにすれば良いさ」
大熊は案外、話せる人間だった。
「ありがとな、教官。じゃあ、行って来るぜ!」
信じがたい速度で出て行く鬼業を見送る3人。
「教官。あれ、ほんとに私達と同じ人間なんですか?」
やっと人心地ついた河川は、聞きたい事を大熊に聞いてみた。
「多分な」
大熊の返答を聞くまでもなく、春風も人外のモノだと疑っていた。
それにしては、世話焼きだが。
不思議な人だ。
「お。結構頑張ってんな」
今度はスタート地点から逆走して、全員を発見する事にした鬼業。始めに発見したのは南部だった。流石にボクサーは走り込んでいるな。ゴール地点まで、残す所200キロと言った感じだ。もう、目と鼻の先だ。
「ほい」
対向車線から、弾丸のように飛び出して来た鬼業は、南部に並走する形をとり、リュックから缶ジュースを取り出し差し出した。
「おおっ!あ、ありがと」
その鬼業の飛び出しに、ついファイティングポーズを取ってしまった南部。だが、すぐに構えを解き、ジュースを受け取り際、感謝の言葉を発した。まだ、余裕が見える。
そして鬼業は、即座に戦いの構えを取った南部を好きになった。
「もうちょいだ!頑張れよ!」
言い去る鬼業。見送る南部の倍以上の速度で、逆走して行く。もちろん、背には大量の荷物。
南部は、今の非現実的な光景を忘れる事にした。冷静に考えると、怖すぎる。
次に出会ったのは瀬古だった。ゴールまで800キロ。今からでは、晩御飯に間に合うかどうか、微妙な所だ。
「大丈夫か」
「は、はい」
息は、そこまで切れていない。鬼業と同じく、マイペースで走っているようだ。
鬼業の差し出したジュースとおにぎりも、1つだけ取って、ゆっくり口に入れる。焦りは見えない。
「良し。道に迷わない事だけ気を付けてりゃあ、必ずたどり着ける。頑張れよ!」
鬼業を黙って見送る瀬古。
あれは、人間じゃないな、と言う思いを育てつつ。
「ギリギリっぽいか」
最後尾の木の実は、ゴールまでまだ1400キロ以上残っている。このペースでは明日までかかるだろう。
「大丈夫か」
まず、ジュースのみ差し出す。木の実の息は荒い。何なら、一旦立ち止まって、呼吸を落ち着けても良い。
「っはあ、ぁあ、だ、大丈夫」
根性は有る。鬼業は、木の実を応援する事に決めた。
「お前のペースだと、明日までかかる。時々メシを持って来るから、ふんばれ」
「お、おう」
そう言われても。木の実だって、好きで遅れているのではない。
ジュースを飲み干した木の実に、今度はおむすびを。アルミホイルに巻いたそれを、ちょいとむいて渡してやる。
「ほら。大熊のおっさんの奥さんが、合宿中のメシ作ってくれるんだとよ。これも作ってもらったんだ。美味いぜ」
走りを止める事無く、おむすびをちょっとずつ食べている木の実。当然、反応は出来ない。
「もう1個、いっとくか」
手を出されたので、ホイルのゴミとおむすびを交換。
それも食べ終わったなら、今度は缶ジュースを。
この段になると、木の実も気付いた。並走している鬼業は、汗すらかいていない。最も遅い木の実と言えど、生身で時速60キロ以上出しているのだが。
では、逆走して、走者に補給を渡しに来る余裕のあるこいつは、一体何者なのだ?
答えは以無鬼業。
およそ人類最強の男。
この物語は、この男を中心に動き始める。
全ては、ここから。