元傭兵が移住してきた
この五年間で判った事が幾つかある。
まず文字について。
この世界には日本語と同じように表音文字と表意文字が両方存在している。しかも驚くべき事に表意文字の方は漢字そのままだった。
私の名前『オウカ』は『桜花』、姉の『トウカ』は『桃花』となる。桜の花が咲く頃に生まれたとか、桃の花が咲く頃に生まれたとか、名付けの由来はそんな所らしい。判ってしまえば安直過ぎるネーミングではあるけれど、あちらの世界と同じ『桜』の字が名前に含まれているのは面白い偶然だった。
ただ、漢字は通常では使用されない。
央国の中でも地域によって漢字が微妙に異なるらしい。あちらの世界の日本と中国でも漢字文化圏同士ながら微妙な違いがあった。『手紙』と書いて、中国語ではトイレットペーパーの意味になるみたいに。
私が住むミヅキの村(漢字表記では『美月』で、これまたあちらの世界の私が通う宇美月学園と被る)を含む沿海倭州という地域内では問題無いが、他の地域では上記と同様に同じ漢字でも意味が違ったり、簡体字や繁体字の様な形からして異なっていたりもするそうだ。なまじ共通する部分が多いせいでかえって誤解を招き易く、不用意に漢字を使うと意思の疎通に重大な齟齬が生じる可能性がある。
その為身内同士や同じ地域出身と判っている時以外は表音文字のみで遣り取りするのが普通になっている。
もう一つ、例の『ここは並行世界説』が強くなる事実を発見していた。
山仕事の最中、鍛錬を兼ねていつもは行かない高いところまで山を登って、偶然開けた視界にアレを見た時には心が震えた。
遠く、富士山があったのだ。
あちらの世界では四号結界の背景として見る事が多かったが、日本の象徴的な山であり霊峰とまで呼ばれた雄大な姿、見間違える筈が無い。
山の名前までは判らなかった。里山に遮られて村からは見えない山なので、村人に聞いても誰も知らなかったのだ。まあ遠くにある山の一つ一つに名前をつけている訳も無いから仕方ない。仮に村人が名前を知っていたとしても、それはこの辺りで勝手に付けた呼び名である可能性が高く、本当の名前は山の近くに住んでいる人に聞くしかないだろう。
名前はともかくとして見た目は本当に富士山そっくり。
こういう特徴的な地形や漢字が存在している点や、そもそも私自身があちらの世界とそっくりな容姿をしている点を考え合わせると、単に異世界なのではなく、もっと近しい関係にある並行世界の類ではないかとの思いが強くなる。
その割には科学文明らしい物が見受けられないのが気になるけれど。
私が持っている並行世界についての知識なんて創作物から得たインチキな物ばかりなので考察するにも限界がある。世界が分岐した時期や、分岐ポイントになる出来事の規模によってここまで違ってしまったのだろうくらいの浅い考えで納得している。
と、言うよりも納得せざるを得ない。
どれだけ考えようと誰かが正解ですとも不正解ですとも教えてくれる訳でなく、結局は自分の中でオチが付くかどうかの問題だ。そしてどんな形であれオチが付けば気持ちも落ち着く。
そして最後にもう一つ、異世界系の創作物でお馴染みの『元の世界の知識を活用して大活躍』、所謂『知識チート』は無理だと判った。
私には約八年間にわたる『あちらの世界』の記憶がある。
あるけれど、こちらの世界では何の役にも立たない。
あちらの世界の文明はこちらの世界よりもあらゆる面で進んでいるが、そんな世界に暮らしていた天音桜が持つ知識はそれら進んだ文明の産物を『利用する方法』であって『作り出す方法』では無かったからだ。
あちらの世界の私はいわゆる剣術馬鹿であり、専門校でも高卒資格に必要な最低限の学科しか選択していなかったのは事実だ。が、仮に一年間だけ通っていた普通科高校にそのまま通い続け、真面目に勉強を続けていたとしても状況は同じだっただろう。
工業高校なり農業高校なりの専門知識を学べる学校に通ってでもいない限り、日本の学生の持つ知識はこの世界では意味の無い物ばかりなのだ。必要な物があれば買いに行けば済むような世界で、わざわざそれらの作り方を勉強する物好きはいない。
……せめて水車と柔らかいパンの作り方、それと基本的な農業の知識があれば。
典型的な知識チートの例を思い浮かべると溜め息が出る。
農村に転生するタイプの創作物ならその三つで大体乗り切れそうなのに。
専門的に勉強していなくても、そうした情報が表示されている何か、本でもネットでも何でも良い、一度でも目にしていれば細大漏らさず思い出せるのに。残念ながら天音桜はそういった情報に興味が一切無かったようだ。
そんな訳で、私という異分子を抱え込みながらもミヅキの村に大きな変化は訪れなかった。
小さな変化は幾つかある。
姉のトウカが村長の息子と結婚して次期村長夫人になったとか、既に二児の母になっているとかだ。そうしたゆっくりとした変化、小さな変化を積み重ねて、辺境の農村の時間はゆっくりと流れていた。
そんな中、転機が訪れた。
元傭兵、ウラヤが移住してきたのだ。
*********************************
私は今も村長の家に住んでいる。
トウカが村長の息子と結婚した結果、私も村長一家の一員として迎えられ、今では村長夫婦が義父母、村長の息子は義兄だ。
日本の感覚だと姉の結婚相手が義兄なのは良いとして、義兄の父母が私の義父母にはならないのだけど、姉夫婦の希望と村長夫婦の好意でこうなった。変わり者の娘一人を放っておけないと思われているらしい。
そんな事情で我が家となった村長宅へ、一日の仕事を終えて帰ってみると客がいた。
食堂のテーブルで義父と向かい合って座っている男を見て、一目でこれがウラヤなのだと直感していた。
実はウラヤが村を訪れるのは初めてではない。一週間程前、移住の許可を得るために一度訪れている。その時には仕事で山に入っていたので顔を合わせる事が無く、後から話を聞いただけだったからこれが初対面だ。
それでも判った。
身に纏う雰囲気が明らかに村人と違う。
何気なく座っているだけなのに隙が感じられない。
四十と見えるその年齢まで傭兵として生きてきた男の貫禄があった。
「義父さん、そちらが移住者の?」
「そうだ。元傭兵のウラヤ」
確認したらやはりそうだった。
改めて挨拶しようとウラヤを見ると、ウラヤも私を見ていた。訝しげにまじまじと見ている。
「な、なんですか?」
「……ふむ、いや、まさかな」
問いかけてもはっきりした返事は無く、ぶつぶつと何か呟きながら席を立ち、私の目の前に立った。
「え? あの……本当に何なんです?」
目の前に立たれると圧倒される。背は私と同じくらいなのに、まるで見下ろされているように錯覚してしまう。
それが隙になってしまった。
すっ、と自然な動きで伸ばされた手に反応できなかったのだ。
その手は私の腰の少し下――つまりは尻に宛がわれている。
「へうん!?」
尻を触られて変な声が出た。
ついでに手も出た。
加速や筋力増強の効果こそ切れていたけれど、気功スキルで強化された身体能力のまま、咄嗟の事で手加減もできなかった平手打ち。
それが避けられた。
当たったと思えた瞬間、ウラヤは軽くスウェーバックして平手打ちを避けてみせたのだ。
「おいおい、危ねえな。それに尻を触られたぐらいで妙な声を出すなよ。まるで女みたいじゃねえか」
正真正銘の女なんですがね!?
抗議したいのは山々なれど、今の私はサラシで胸を潰しているし着物は男物、髪も男位置で結んでと完全な男装状態。自分で男装しておいて男と間違えられたら怒るのもどうかと思い、でも顔を見れば女が男装していると気付きそうなものだとも思い、そうすると私の顔はやっぱり男っぽ過ぎるのだろうかと落ち込む。
そこに義兄である長男の息子――姉の旦那さんがやって来た。
「今の声はオウカか? お前があんな声出すなんてどうしたんだ?」
「に、義兄さん……この男が、し、尻を触りました」
「なにぃ!? おい、あんた何をやってくれてるんだ!?」
私の為に怒ってくれる義兄が頼もしい。
そんな義兄をウラヤは呆気に取られた顔で見ている。
「むう……村長、つかぬ事を訊くが……先日の話では確か息子が一人いるとか」
「そうだ」
「その息子とは、今俺に対して怒っているこの男で間違いないだろうか」
「うむ、そうだ」
「ふむ……すると、こっちのこいつは一体誰なんだ?」
ウラヤは「こいつ」と言いながら私を指差していた。
こいつ呼ばわりも失礼なら人を指差すのも失礼だ。ダブルで失礼なウラヤに、義父は淡々とこう言った。
「その子はうちの娘のオウカだ」
「むすめ……だと?」
何故、そんな驚愕の真実を知ったような顔をするのか。
いや、男装しているのは(以下略)だけれど。
「お前、女なのか?」
「正真正銘、誓って女です」
「むむむ!」
唸ったウラヤはじっと右手を見る。私の尻を触った右手を。
その手をワキワキと動かして更に見て、その視線を私に移すと……。
「済まなかった!」
いきなりの土下座だった。
こちらの世界にも土下座があるのかと妙な感慨を持ったりもしたが、そんな事はどうでも良くなるような見事な土下座だ。主観的に二十三年になる私の人生の中でも三本の指に入る程である。
「知らぬ事とは言え若い娘に手を出してしまうとは、このウラヤ一生の不覚! かくなる上は……幸いと言っては何だが傭兵暮らしが祟ってこの歳になっても独り身の俺だ。責任を取ってお前を嫁にする!」
「……馬鹿ですか」
なんだって尻を触られたくらいで嫁に行かねばならんのか。
と言うか、このおっさん、どさくさに紛れて婚活始めてないか?