鏡の雫【夏のホラー2025】
【鏡の雫】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
淳は夕方のサッカー部の練習を終え、汗まみれの髪を洗い流そうと浴室に入った。湿った蒸気が立ちこめる中、鏡は白く曇り、湯気の膜の向こうにかろうじて自分の影が揺れて見えた。
蛇口をひねるとシャワーが勢いよく流れ、淳はシャンプーを泡立てて頭をこすった。泡が耳に流れ込み、視界は塞がれている。手探りで鏡に目をやった瞬間――胸の奥が冷たく縮む。
鏡の向こうで「もうひとりの自分」が、わずかに遅れて動いていた。
「……え?」
慌てて目をこすった。水滴が目尻から流れ落ち、視界が歪む。だが確かに、鏡の中の自分は一瞬、こちらの動きよりもワンテンポ遅れ、さらに口元がにやりと歪んだ気がした。
泡を流そうと頭を傾ける。シャワーの音がやけに大きく、浴室の外界を切り離していく。鏡を確認すると、今度は――鏡の中の自分が、頭を上げてこちらを見返していた。
現実の淳はまだうつむき、泡を流している最中だったのに。
「やめろよ……」
心臓が激しく脈打つ。怖いもの見たさで視線を逸らせずにいると、鏡の中の淳は、血のように赤黒い水を頭から滴らせ、ゆっくりと口を開けた。
――ごぼごぼ、ごぼっ。
泡ではない。まるで溺死した人間が喉の奥から水を吐き出すような音。浴室にはシャワーの音しかないはずなのに、その濁った水音が耳元で囁かれるように響いた。
思わず鏡から目を逸らす。だが、足元に冷たい感触が走った。床に流れる透明な水のはずが――濃い鉄錆の匂いを放つ赤黒い液体が、足首をじっとりと濡らしている。
「うそだ……!」
叫びながらシャワーを止めた。だが止めたはずの蛇口から、途切れなく水音が続く。視線を上げると、鏡の中で自分がまだ頭を洗い続けていた。
その“もう一人”は、髪の隙間からのぞく白目をぎょろりとむき、歯茎まで露わにした笑みを浮かべている。
――ゴシ、ゴシ、ゴシ。
泡立てる仕草は次第に荒々しくなり、爪が頭皮を裂き、血混じりの泡が流れ落ちる。浴室には血の鉄臭と腐臭が入り混じったような匂いが立ち込めた。
恐怖に震える足が勝手に後退る。だが退いたはずの自分の影が、鏡では一歩、こちらへ近づいていた。
ガラスの表面が水滴で揺らめく。次の瞬間――。
「……あつし」
はっきりと、自分の声で名前を呼ばれた。鏡の中の“自分”が、爪の剥がれた指を伸ばし、鏡の内側から叩き割るように手を突き出したのだ。
パリン、と音を立てて曇ったガラスにひびが走る。血混じりの水滴が、こちらの頬へ飛び散った。
「いやだ……!」
振り返る。しかし浴室の扉はいつの間にか閉ざされ、取っ手がどこにも見当たらない。蒸気が濃く立ち込め、視界が曇る中で、鏡の向こうの自分が、ずぶ濡れの髪を振り乱して這い出そうとしていた。
――鏡の表面は、もうただの境界ではなかった。
冷たい指先が肩に触れた。
悲鳴は声にならず、浴室はただ水音だけを反響させた。
◆
翌朝、浴室の鏡には大きなひびが入り、曇った表面に黒ずんだ手形が残されていた。
しかし淳の姿は、家のどこにもなかった。
鏡を覗けば、曇った奥に、今も泡立て続ける“彼”がいる。
赤黒い水を滴らせながら、次にこの浴室を使う者を待ち続けて。
―― それ以来、この町では、シャワーを浴びながら鏡を見た者の多くが、行方不明になったという。
#短編ホラー小説
#ホラー小説