小さな騎士【外伝・義母イーディス視点】・3
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
夫の苦渋に満ちた顔を目にして、私はふと、以前エリナさんと交わした会話を思い出した。
「そういえば、ルドガー。
エリナさんはあなたとの結婚を、白い結婚だと思っていたそうね。
何でもこの結婚を仲立ちしてくれた方が、公にはできないけれどそうおっしゃっていたということだったけれど」
「なんだって、イーダ?」
けげんな顔で私を見た夫に、私は答えた。
「ベン、そうなのよ。
リズリー伯アルバートさまが、ご長男であるアルマンさまにそのようにおっしゃったのですって。
でもルドガーの花嫁としてエリナさんを見つけてきたのは私で、誰にも仲立ちなどしてもらってはいないはずなのだけれど……」
頬に手を当てて思案している私にかまわず、ベニートはルドガーを厳しく問いただした。
「そうなのか、ルドガー。
お前はエリナとの結婚を、白い結婚にするつもりだったのか?
なるほど、それで納得がいくわい。
3年経ったらそれを理由にエリナを離縁して、どこかの貴族の養女にしたネリーと再婚する計画だったのだな。
あの愛情深いアルバート・リズリー伯爵がご息女を白い結婚の花嫁にさせるなど、どんな思いでおられたことか。
ルドガー、お前にそんな計画を吹き込んだのは誰だ?
リズリー伯や音楽卿に、そんな条件をのませることができるほどの権力を持っている人物ということだな。
まさか、ゴダード陛下なのか?」
私はベニートの言葉を聞いて思わず息を呑み口元を手で押さえた。
ルドガーは表情を変えなかった。
「父上、俺からは何も申し上げられません。
誰にも言わないと約束したのです」
「そうか。
だったらお前は何も言わなくていい。
ただ儂の言うことをよく聞いておけ。
いいか、ルドガー。
エリナはお前に嫁いだ時、まだ16歳だった。
白い花嫁となって3年過ごせば、フレイザー家から離れることができる。
十分な慰謝料を与え、リズリー家に戻してやればいい。
お前はそう聞かされていたのかもしれんな。
だが、女性にとっての16歳から19歳という年齢は、花の盛りなのだぞ。
最も美しい年頃を、お前は形だけの公爵夫人として邸に閉じ込めようとしたのだ。
ネリーと一緒になりたいという、自分の身勝手な欲望のためだけにな。
エリナの人生の盛りの時期を3年も奪っておきながら、金で解決すればそれでいいと本気で思っていたのか?
むろん、双方合意の上なら犯罪というわけではないだろう。
だが男が、立場の弱い女性を利用するのは卑怯だ。
騎士道精神に反すると儂は思う」
父親であるベニートからの鋭い指摘に、ルドガーは唇をかんだ。
私は、自分がリズリー家へ婚姻の申し入れをしたことが、裏でこんな事態を引き起こしていたことを知って罪悪感に襲われた。
私としては、フレイザー家の後継者を産んでもらうために、エリナ・リズリー伯爵令嬢をルドガーの妻に望んだのであって、白い結婚などとは考えたこともなかった。
けれど私の申し入れがこんな風に誰かに利用され、ルドガーがエリナさんとの白い結婚を踏み台にしてネリーをフレイザー家に迎え入れるつもりだったことがわかると、私はなんだか恐ろしくなって、自分で自分の腕を強く抱いた。
「しかしわからんな、ルドガー。
お前はこの結婚を白い結婚にはしなかった。
なぜだ?
二人の女性を同時に愛していくつもりだったのか?
お前にそんな器用な真似ができるとは思えんが」
ベニートは冷静に息子に問いかけた。
「エリナを手放したくなかったのか?」
父の質問に、ルドガーはわずかに身体を固くした。
ベニートは深く息を吐いて、息子にいたわるような視線を向けた。
「ルドガー。
フレイザーの男は、生涯にただ一人の女性を愛するものだ。
儂はそうして来たし、お前にもそう教えてきた。
だがなあ、それは世間一般の考え方ではないぞ。
お前も知っているだろうが、男女の別れなど、そこら中にあふれているではないか。
だからお前が、妻に迎えたエリナに心惹かれたなら、ネリーと別れてもいいのだよ。
相手にきちんと誠意を尽くせば、それは許されないことではない。
あるいは妻と愛人、二人の女性を愛する男も世の中にはいる。
お前がうまくやっていけるなら、それもいいだろう」
ルドガーは難しい顔で父親を見た。
「父上、俺はフレイザーの男です。
俺が愛する女性はたった一人だ。
俺は、ネリーのおかげでこの世に留まることができたのです。
だからネリー以外の女に心を移すわけにはいかない。
竜の鎖はつながれたのだから」
「竜の鎖、か」
ベニートは軽くため息をついた。
「遠い昔の伝説だ。そんなものに囚われることはない」
ルドガーは静かに父親の顔を見やった。
無表情だが、赤い瞳の奥には炎が燃えているようだった。
ルドガーは何か、ベニートの知らないことを知っているのではないか。
私はなんとなくそう感じた。
ベニートはふつうの人間だ。
だがルドガーは幼い頃からどこかふつうではなかった。
その上さらに、ノナ・ニムに黒の森で4年間育てられてきたため、魔力も加護も通常の人間とはレベルが違っていた。
フィンバースの黒竜と呼ばれるほど竜人族の血が覚醒しているルドガーにとっては、番を縛るという竜の鎖はただの伝説ではないのかもしれない。
いやな予感を振り払うように頭を振り、私は息子に目を向けた。
「ネリーを妻にしてエリナさんと離縁するのなら、あなたとネリーはフレイザー公爵夫妻として、今まで通り王都で暮らせばいい。
私とベニートはネリーとうまくやれるはずもないから、領地に引っ込んでいます。
セドリックは、エリナさんに育ててもらいましょう。
もう少し大きくなったら、フレイザー公爵家の立派な跡取りになれるように、ザヴィールウッドの領主館でしかるべき教育を施していくわ。
ルドガー、あなたはネリーにしっかりと公爵家のマナーを教えておあげなさい」
「母上、ネリーは純真な女性だ。
俺は欺瞞に満ちた貴族社会に、ネリーを関わらせたくありません」
そんなルドガーの言い分を、私はばっさり切り捨てた。
「公爵家の女主人になるというのに、貴族社会と関わらずにいることはできませんよ。
欺瞞だろうと何だろうと、どうしても顔を出さなければならない集まりはあるのです。
ルドガー、あなたは英雄だから社交を免除されていただけで、エリナさんも王都では、最低限の夜会には出席していましたよ。
愛人に夫を取られた負け犬だなんて、陰で笑われているとわかっていても、そうしなければならなかったのですよ。
夫のあなたは社交の場に出ないのだから、エリナさんは誰にもエスコートされず、いつも一人でいたのよ、ルドガー。
今後ネリーが夜会に出席することになれば、その時はあなたがエスコートしてあげるのでしょうから、それだけでもネリーはエリナさんよりずっと恵まれているわ。
さすがにあなたのいる前で、ネリーを蔑む方はいないでしょうしね。
でもね、フレイザー公爵であるあなたの子を産んで、あなたとともに人生を歩んでいく伴侶になる女性は、高位貴族の背負う責務からは逃れられないのよ。
ネリーを伴侶に選ぶなら、あなたが彼女にしっかりとその覚悟を持たせなさい」
ずばりと苦言を呈した私に、ルドガーは顔をしかめた。
しかし、頭のいいルドガーが、私が今言ったようなことをこれまで気づかなかったはずはないのだ。
ただ見たくないものを見ないようにして、問題を先送りにしていたにすぎない。
とはいえ私は、この子をあまり追いつめたくなかった。
今のルドガーは、どこか心のバランスを失っているようだったからだ。
そう、さながらもろくて危うい、思春期の少年のように。
振り返ってみると、幼少期に魂をもがれたルドガーには感情そのものが枯渇していて、思春期になってもふつうの少年に見られるような感情の揺らぎを感じたことがなかった。
15歳で英雄と呼ばれ、16歳で王国騎士団長に抜擢されたこの子は、早くから社会的な名声を確立してしまっていて、少年の時期を一足飛びに飛び越えて一人前の大人として扱われていたせいもあるだろう。
当時の私は単純に、そんな息子を誇りに思っていたけれど、本当はルドガーは、感受性の強い時期に自分の弱さや悩みを打ち明けられずに鬱屈した思いを抱えていたのかもしれない。
それが一本気な性格と相まって、父であるベニートの一言に呪縛され、世間に認められない身分違いの恋に固執する結果を招いてしまったのではないか。
そう気づいた私は、もう一度この子の心を育て直してやりたいと思った。
掛け値のない自分自身を見つめ、本当の自分の幸福を選び取る力をつけてほしい。
そう願って、私は息子に寄り添い言葉をかけた。
「私がしたのは一つの提案に過ぎないわ。
無理にそうしろと強制しているわけじゃない。
そういう選択肢もある、ということよ」
ルドガーは無言だったが、拒絶の気配は感じられなかった。
私の言葉は、息子の心に届いたのだろうか。
「イーダ、もう夜も遅い。
明日は花祭りだ。そろそろ休もう」
ベニートが優しく私の肩に手をかけて、そう促した。
そうして息子の方へ顔を向け、重々しく告げた。
「ルドガー、儂はネリーを公爵夫人にすることには反対だ。
エリナのような気品のある貴族女性が、我が家の女主人であってもらいたいと思っておる。
だがお前が、儂らとの交流を絶ってまでネリーと一緒になりたいというのなら、もう何も言わん。
イーディスの言うとおり、儂らは領地で暮らすとしよう。
お前はネリーと王都で好きに暮らすがいい。
だがなルドガー。
今夜イーディスがお前にこうして歩み寄ろうとしたことを、ゆめゆめ過小評価してはならんぞ。
貧民の娼婦に溺れて、妻や子どもを顧みもせず、公爵としての責務も果たさぬ息子など、儂は縁を切ったも同然と思っていた。
だがお前の母は、自分を含めた公爵家の名が汚されようとも、息子であるお前の幸せを願って、貧民のネリーを公爵夫人として受け入れようとしているのだぞ。
これほど深い母の愛を、お前はきちんと理解しているのかどうか、もう一度よく考えてみるのだな」
私は思いがけない言葉に驚いて夫を見上げたが、夫は優しいまなざしで私を見て、退室をうながすように肩に手をかけてくれた。
私はベニートとともに、ルドガーを残して寝室へ下がることにした。
私たち夫婦は無言で応接室を出たが、部屋の扉が閉まる直前、室内から私に短い声がかけられた。
「ありがとう、母上」
私ははっとして声がした方を見たが、声の主であるルドガーはすぐに身をひるがえし、応接室の奥の出口から庭園へ出てそのまま姿を消した。




