月と闇【外伝・ナタリー視点】・2
エリナさまは泥だらけだったので、侍女たちがベッドに耐水性の敷き布を敷いた。
さらにその上に敷かれたやわらかいシーツの上に、ルドガーさまは慎重にエリナさまの細い身体を横たえた。
名残惜しげにエリナさまから身を離したルドガーさまは、ベッドに腰を下ろされた。
エリナさまの顔にかかった金色の髪をかきあげて、その頬を両手でそっとはさむと、ルドガーさまはご自分の顔を近づけて、エリナさまの額のあたりをじっとご覧になった。
「精霊の目…」
ルドガーさまの様子を注意深く見ていた私の耳に、そんな低いつぶやきが聞こえた。
するとちょうどそこへ、ターラさんがアルマンさまとともに到着した。
ターラさんはいつも通りだったが、アルマンさまは寝癖のついた髪をして、寝乱れた夜着の上にガウンを羽織っただけのだらしない格好であわてふためいていた。
「エリー! どうしたんだ一体!」
「ちい嬢さま、ターラが来ましたよ。
もう安心ですからね。
ちょっと坊ちゃま、殿方は出て行ってくださいまし」
アルマンさまに向けたターラさんの言葉を耳にしたルドガーさまは、ご自分には何も言われずともさっと身をひるがえして退室していかれたが、言われた当の本人であるアルマンさまはそうではなく、駄々っ子のようにターラさんに食い下がった。
「いや待ってくれターラ、エリーは大丈夫なのかい!?
エリー!」
「大丈夫ですから坊ちゃま、とにかくひとまず外へ出ていてくださいまし!」
アルマンさまは一人騒いでいたが、すぐにターラさんによって、強制的にエリナさまの寝室を追い出された。
静かになった部屋の中では、何人もの侍女が丁寧にエリナさまのお召し物を脱がせて、お湯に浸した柔らかい布で、お身体や髪の毛の汚れを拭き清めた。
そのうちにお医者さまがいらして、エリナさまの診察をしてくださったが、疲労が激しい他には取り立てて異常はないという診断が下されて、私をはじめ一同が胸をなでおろした。
そのころにはもうすっかり日も高くなっていて、アルマンさまはエリナさまの安らかな寝顔を見た後、花祭りの音楽会のために市中へお出かけになった。
ルドガーさまのお姿はすでになかった。
私はさっきまでのルドガーさまのご様子を見ていて、てっきりルドガーさまはエリナさまの診察が終わるのを待っておられると思いこんでいたので、なんだか肩透かしを食らった気がした。
本当のところ、ルドガーさまはエリナさまをどう思っておられるのだろう。
私は何だかわからなくなった。
7歳でリズリー家に引き取られたときから、私にとってエリナさまは大切なお嬢さまだ。
ターラさんには恐れ多いと言ったけれど、私もひそかにエリナさまのことを妹のように可愛いと思っている。
エリナさまは、貴族令嬢でありながら魔力がなかったせいで、小さいころからいろいろとつらい思いをなさってきた。
そんなエリナさまの悲しみや苦しみを、私はずっとおそばで見てきたのだ。
だからこそ私は、エリナさまには誰よりも幸せになってほしいと思っている。
貴族の結婚は当人同士の意志によるものではないのだとしても、エリナさまの夫になられる殿方は、絶対にエリナさまを大切にする方であってほしいと、私はずっと願ってきた。
ただエリナさまは、常に輝く太陽のようなお兄さまのアルマンさまとは逆で、月のように静かで控えめな光を放つお方だ。
魔力がないせいか、ご自分の主張を前面に出そうとはせず、貴族社会で人目に立つことを極力避けようとなさる。
私の目には、時にそれが行き過ぎて、ご自分を抑え込みすぎているように見えた。
謙虚であることは貴婦人の美徳ではあるけれど、エリナさまがご自分の価値を低く見積もりすぎるところがおありなのが、私はとても残念で、時に歯がゆいような気持ちになったりもした。
エリナさまほどお美しい方も、心根のお優しい方も、魔力持ちのご令嬢の中にだって一人もいないのだもの。
祝ぎ歌のレーナと呼ばれる母君のマグダレーナさまにそっくりのエリナさまは、魔力を持っておられないにもかかわらず、アルマンさまとの共演の時など、常人離れした輝きを放たれることがある。
私はそっちの方が、エリナさまの本来のお姿なのではないかと思うのだ。
ふだん目立たないようにふるまっておられるけれど、心を許した兄君アルマンさまの隣で枷が外れた時のエリナさまは、魔力持ちのご令嬢の誰よりもまぶしく清らかな光に包まれていた。
天真爛漫にご自分を表現されるアルマンさまは太陽であり、その光を受けて輝くエリナさまは月でしかないという人もいる。
でも月は月として美しいのだ。
実際、アルマンさまほど世間に知られてはいないけれど、エリナさまの金の髪や空色の瞳を目にした一部の人たちから、エリナさまはしばしば月の女神にたとえられ、あがめられていた。
私はそんなエリナさまを、ずっと誇りに思ってお仕えしてきた。
だから私は、エリナさまがフレイザー公爵家に嫁がれることをあまり喜べなかった。
結婚相手のルドガーさまが、貧民の娼婦であるネリー嬢を真実の愛の相手として、妻は公爵家の跡継ぎを産む道具だと断言されているのは誰もが知っていることだったからだ。
けれども私は、ルドガーさまにしろフレイザー公爵家のみなさまにしろ、申し分のない淑女であるエリナさまに好意を寄せてくださるだろうということには確信を持っていた。
思ったとおり、前公爵夫妻のベニートさまとイーディスさまは、実の娘同然にエリナさまを可愛がってくださっている。
ただ問題はルドガーさまだった。
お二人の婚約式の際初めてお見かけしたルドガーさまは、エリナさまが月の女神だとすれば、さながら夜闇の男神のようだった。
漆黒の髪、黒衣の出で立ちで、一文字の眉や引き結んだ唇は意志の強さを感じさせた。
でもその赤い瞳がエリナさまに向けられることはついになかった。
ルドガーさまは、婚約式でも結婚式でもエリナさまに見向きもせず、初夜でさえエリナさまにひどい扱いをされた。
あの時の傷ついたエリナさまのことは、今でも思い出すと涙が出る。
セドリックさまがお生まれになっても、ルドガーさまは正妻であるエリナさまのことも嫡子であるセドリックさまのこともかえりみず、愛人のネリー嬢のことだけを気にかけていらした。
夫にかえりみられない妻が世間にどんな冷たい目で見られるか、愛人に夫を奪われた負け犬公爵夫人などと嘲笑されることがどれほどの屈辱か、フィンバースの黒竜と呼ばれる英雄のルドガーさまには考えもつかないのだろうか。
心優しいエリナさまをこれほど無神経に傷つけるルドガーさまのことを、私は今までずっと、許せない気持ちでいっぱいだった。
けれど、ノナ・ニムの所から戻って意識を失ったエリナさまに対するルドガーさまの態度は、あまりにも意外なものだった。
赤い瞳が向けるエリナさまへのまなざしには、どこか切なげな熱情のようなものが感じられた。
それが、ルドガーさまがネリー嬢へ捧げておられるという真実の愛とどう違うのか、私にはわからない。
でももしルドガーさまが、意識のないエリナさまに取っておられたような態度をふだんから示してくださったら、お二人はセドリック坊ちゃまを囲んで、あたたかい家庭を築いていくことができるのではないだろうか。
夜の闇は月によって、その存在を浮き上がらせる。
太陽の強すぎる光の下では存在しない闇も、月の光の下では形を成せる。
月の女神のエリナさまが夜を照らし、ルドガーさまの漆黒の闇を息づかせてさしあげるのは、なんて幸せな光景だろう、と私は思った。
そしてそれは、決して手の届かない夢ではないような気もしたのだった。
ザヴィールウッドの花祭り初日の朝、今まで知らなかったルドガーさまの一面をかいま見た私の胸中には、このお方がエリナさまを幸せにしてくれるかもしれないという淡い期待が生まれていた。
ターラさんにもそれを聞いてもらいたくなって、私は前を歩いていく小柄な後ろ姿に追いつこうと足を早めた。
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