取り替え子・5
義母イーディスから、今まで知らなかったいろいろな事情を聞かされて、私の中での気持ちに変化が生じているのは確かだった。
前世の記憶どおりなら、ルドガーとの話し合いをこのまま放置して静観していれば、セドリックが12歳になるまでルドガーが私の元へ来ることはない。
その間、セドリックの健やかな成長を脅かすものは何もなく、私も心穏やかに暮らせるだろう。
夫であるルドガーが国王陛下とどのように関わりあっているのか、夫の置かれている状況やその胸中を知ろうとはせず、ルドガーからの要求はみじんも考慮せずに却下する。
言ってしまえば彼の存在そのものをなかったことにすればいいのだ。
だがそれで本当にいいのだろうか、と今私は自分に問いかけざるを得なくなっている。
もし、義母の言うことが本当だとしたら、ゴダード陛下が何らかの策謀をめぐらせているその中にルドガーは巻き込まれている。
彼とネリーの“真実の愛”が政治利用されて、フレイザー家が王家に都合の良いように弱体化させられようとしているのなら、やがてセドリックにも災難が及ぶのは明らかだ。
お飾りとはいえフレイザー家の女主人である私が、そんな事態が水面下で起こっていることに気づいていながら、知らん顔をしていていいはずはない。
それに、夫が愛人に溺れているからと言って、彼の存在を消し去ることはできないではないか。
だって、セドリックに何と言えばいいのだろう?
あの子の身体にルドガーの血が流れているのは、否定しようもない事実だというのに。
あなたはお父さまのようにはならないで、と懇願する?
あるいは、あなたはお父さまとは違うのだから大丈夫、と励ませばいいの?
それでセドリックは幸せな気持ちになれるだろうか。
いいえ、無理だ。
優しいあの子はきっと、母である私を苦しめた父を憎み、自分に流れる父の血を憎むだろう。
セドリックに限ったことではない。
父が母を、母が父を憎んでいたら、子どもは憎しみの中で生きていくことになる。
自分の中に流れるどうにもならない二つの血の相克に悩み、苦しみ続けることになるのだ。
私はあの子に、そんな呪いをかけたくない。
それならどうしたらいい?
私が、その呪いをあの子の代わりに受け止める、それしかない。
あの子に流れる父親の血を私が受け入れてみせることが、あの子を血の呪いから解放することになる。
夫に愛は求めない…ネリー嬢に真実の愛を捧げているルドガーとの結婚当初から、それは納得していたこと。
それでも、夫に無視され否定され続けることは、想像以上につらいことだった。
私だけならまだしも、小さな息子が父親に見捨てられていることが不憫でたまらなかった。
けれど、ルドガーのことをひどい父親だと非難しても、セドリックの父である彼を完全に否定することはできないのだ。
何も知らない無垢なあの子がこの先成長していくにあたって、自分は価値のある人間だと信じていられるように、母である私だけでなく、私とは相いれない、家族との交流をしない父にも、生きている価値があるのだということを示してやらなければならない。
そのためには、ルドガー・フレイザーという人物に、私自身がもう一度目を向ける必要があった。
彼の中の、私にとって受容できる部分とできない部分、それを冷静に、客観的に見定めていく必要が。
(大丈夫…今の私なら)
私は深く息を吐き、自分にそう言い聞かせた。
前世から今まで、私はルドガーを怒りや恐怖の対象としてしか見てこなかった。
けれどノナ・ニムに対面し、亡き母の思いを知らされた今では、もっと広い視野に立って、別の見方ができるようになった気がするのだ。
こんなに落ち着いた心持ちでいられるのは、黒の森の魔女になったことで、自分に自信がついたからかもしれない。
自分を信じることができるようになったために、夫に対して抱いていたあの、前世の記憶に起因する原初的な恐怖が、思いのほか軽減されたのだろう。
それに、いざとなればザジが私を守ってくれるという安心感も大きかった。
夫の威圧的な声や厳しい命令口調が、以前は思い出すだけで動悸がするほどだったが、今はそれほどでもない。
そして何より、私はあの古代樹の神殿でのことを思い起こしていた。
ノナ・ニムは私に、ルドガーは罪もないものを傷つけたりする子ではないとおっしゃった。
黒の森の大精霊が、嘘いつわりを口になさるはずもない。
であれば私のルドガーに対しての不信感は杞憂に過ぎなかったことになる。
とはいっても気持ちの上で、はいそうですかとすぐに切り替えができるものでもない。
だが今の私には、これまでの自分の思い込みを検証していこうと思えるだけの心のゆとりが生まれていた。
冷静になって振り返ってみると、私は、夫であるルドガーの人となりをよく知らない。
前世で殺された恐怖にとらわれるあまり、私は現在の夫の姿を怪物のようにゆがめて受け取っていたのかもしれない。
それなら私は、今生でのルドガーの真の人物像を知れば、前世で彼に与えられた心の傷を克服することができるのではないだろうか。
魂に刻まれるほどの恐怖を、直視するのは難しいことだけれど…。
それでも怖いところから一歩踏み出す勇気を奮い立たせようとして、私は両手で胸を強く抑えた。
前世で12年間、私はセドリックに対してひどい母親だった。
その反省のもとで今、私は人生をやり直す最中にあるのだ。
息子に対して前世の贖罪をしている私が、前世で夫が私に対して犯した罪を責めたてる資格があるだろうか。
罪をあがなうべき罪人が他人の罪を糾弾するのは、身の程知らずの傲慢というものだ。
それに人生をやり直すことができるなら、その機会は私だけでなく夫にも同様に与えられるべきだろう。
前世の私と今の私は違う。
前世の義母と今の義母も違っている。
それを考えると夫ルドガーも、前世と今生では違っているかもしれない。
もし彼が前世で後悔を抱えていて、今度の人生でそれを挽回したいと望んでいるのだとしたら、私はしっかり目を開いて見きわめよう。
前世で私を殺した人間に対してさえ公正な態度を貫かなければならないというのには、正直割り切れない思いもある。
でもそれもすべてセドリックのため。
ルドガーから受けた仕打ちへの恐怖を克服して、今生の彼とまっすぐ向き合うことが、セドリックを父親の血の呪いから解き放つための、あの子の母である私の義務だ。
(よく視て、よく聴き、深く識る……それがノナの魔女の使命。
私はお役目を精一杯果たしていくと誓ったはずよ)
黒の森の大精霊の言葉を、まるで呪文のように心の中で何度も復唱する。
あの時ノナ・ニムはおっしゃった。
自分の人生の傍観者であってはならない。
欠けてまた満ちる月のように、お前は自分を生きるがいい、と。
そうだ、前世で欠けたものを満たしていくのだ。
これからはもう、人生の傍観者にはならない。
私は固く心にそう決めて目を閉じた。
前世でセドリックが12歳の時に起こった凶変。
あの忌まわしい出来事を避けるために、私は全力を尽くそう。
あの子が12歳になるまで、私の人生はすべてあの子に捧げる。
前世で私は12年間、夫や家族と没交渉で、人生に何の指針もないまま鬱々としてきた。
生きる意味も希望も見いだせず、その結果息子につらい思いをさせ苦しめてしまった。
あの歳月を、今度の人生では無為に過ごしはしない。
セドリックがのびのび育っていける環境を整えるために、自分の殻に閉じこもっているのではなく、現実に行動を起こすのだ。
あの子のためなら、威圧的な夫とも堂々とわたりあってみせる。
私は母マグダレーナの加護を得、ノナ・ニムの魔女にもなった。
封じられている魔力で何ができるかはわからないけれど、必ず息子を守り、あの子の未来を切り拓いていく。
今の私にはその力があるはずなのだから、それを信じていこう。
私は深呼吸して、閉じていた目を静かに開き、義母に告げた。
「お義母さまのご希望に沿うように努力してみましょう。
先ほど申し上げた条件が整ってからのことですし、この先どうなるかはまるで未知数ですけれど」
義母は私の言葉にはっとしたように顔を上げてこちらを見る。
その視線を私は真正面から受け止めた。
「ルドガーさまを支えるといっても、私にできることはとても限られています。
ただ、ルドガーさまが私たちと関わりと持とうとなさるのでしたら、拒むことはいたしません。
何と言ってもルドガーさまは、セドリックの父親でいらっしゃいますもの。
もちろん急には無理でも、少しずつ家族としての絆をはぐくんでいければと思いますわ」
「エリナさん…」
義母は私の手を握って声を震わせた。
「ありがとう…ありがとう、エリナさん…」
私を見る義母の目は、感謝にあふれ潤んでいた。
義母にとってルドガーは、私にとってのセドリックと同じ、かけがえのない息子なのだ。
そのことひとつとっても、フレイザー家でのルドガーの存在を空白にすることはできないと痛感した。
先刻義母が唐突に、ルドガーが私に惹かれているなどと言いだしたのも、そうあってほしいという彼女の願望なのだろう。
私はそんな妄言を本気にすることはできないが、義母に対する怒りなどはなかった。
それよりネリー嬢を真実の愛の相手と断言している夫と、まともに対話ができるかどうかの方が心配だった。
そのことに関しては、私はまったく自信がなかったのだが、少なくとも私やセドリックを大切にしてくれている義父母のために、自分ができる最善を尽くそうと決めた。
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