取り替え子・2
少し残酷な表現があります。ご注意ください。
義母は話を続けた。
「魂の半分を失ったあの子は、生命の活力を失ってしまった。
感情を一切失くして自分の世界にこもり、外の世界にまるで関心を向けなくなったわ。
あの子の目には、人間がすべて影のようにしか見えずにいるらしいの。
生身の実感のない、影だけの世界に生きていたのよ。
精霊界から戻ってはきたけれど、ルドガーは、この世に留まっているのが不思議なほど不安定な存在になってしまっていた。
私やベニートや、他の誰かが声をかけても何の反応もないし、放っておけば何時間でも同じところに同じ姿勢でとどまっている。
空腹を感じないのか、こちらがうながさなければものを食べたり飲んだりもしない。
夜が来ればそのまま眠り、朝になれば目を覚まして、また日がな一日ぼんやりと過ごすだけ。
まるで人形のよう……心を失っているのだもの。
私もベニートも、そんな風になってしまった息子をどうすればいいのかわからなかった。
ただ直感的にわかっていたのは、そのまま王都に戻れば、切れかかっているあの子の魂の緒が間違いなく切れてしまうということだった。
だから私たちはもう一度、礼拝堂でノナ・ニムに道をお示しくださるよう求める祈りを捧げたのよ。
すると精霊の道が開いて、鉄錆色のちょっと変わった色の毛並みをした子猫、あのザジが現れたの。
ザジは、ノナ・ニムからの提案を伝えてきたわ。
ノナ・ニムは、ルドガーがある程度、この世に留まるための力がつくまで、精霊界に近い黒の森の館に外敵を阻む結界を張り、ご自分が仮の母としてあの子を育てようと申し出てくださったのよ。
それを聞いて動揺している私たちに、ザジは赤猫から赤毛の少年に変身してはっきりと宣告したわ。
この世にルドガーの命をつなぎとめるにはそれしか方法はないとね。
確かにザジの言うとおりだったわ。
あんな状態のルドガーを、ふつうに人間界に置いておくことはできなかったもの。
それに、あの子が取り替え子にあったことは、誰にも知られてはいけなかった。
だってそんなことが世に知れたら、ルドガーはベニートの実の息子であるかどうか疑われて、フレイザー公爵家の正当な後継者としての地位を取り上げられてしまうかもしれないでしょう?
だから、とてもつらい決断だったけれど、私とベニートはその提案を受け入れて、ルドガーを黒の森の館へ送り、ノナ・ニムにお預けしたのよ。
そして私たち夫婦はあの子から離れて、ザヴィールウッドの領主館ではなく王都のタウンハウスで暮らそうと決めたわ。
なぜって、私たち夫婦は公爵夫妻として何かと社交界の注目を浴びていたから、私たちがあの子の近くにいると、どうしてもあの子も注目されてしまって、取り替え子の秘密が洩れる恐れがあった。
それを避けるためには、そうするしかなかったの。
でも離れていても私は、あの子のことを片時も忘れたことはなかったわ。
王都で私は、公爵夫人として、また騎士団長夫人として、忙しく社交をして気を紛らせていたけれど、それはこの社交でつちかった人間関係が、将来ルドガーの役に立つと思っていたからよ。
あの子に会えなくても、私は黒の森の館へよく手紙を出していたわ。
あの子は3歳の時にはもう読み書きができていましたからね。
ルドガーからの返事は一度も来なかったけれど、一応読んではくれていたようよ。
ザジがそう教えてくれたわ。
ザジはルドガーが黒の森の館へ移って以来、精霊の道を通って王都の公爵邸にしょっちゅう顔を出して、ルドガーの様子を教えてくれたの。
あの子のお兄さんが黒の森を追放されたから、保護者のいなくなったザジは、ノナ・ニムのもとでルドガーと一緒に育てられていたのよ。
だから二人は兄弟のようなもので、私たち夫婦もザジに対して愛情が湧いていたの。
ザジも私たちになついてきて、すっかり家族の一員みたいな顔をしていたわね。
取り替え子に会う前にルドガーが好きだったものを、少しずつザジに託して渡してもらったりもしたわ。
私は絵本や、刺繡をいれた日用品、ベニートは手作りの木剣などをね。
私もベニートも仕事が山のようにあったし、人目に立つのが怖くてなかなか王都を離れることはできなかったけれど、花祭りの時期には必ず、私たちはザヴィールウッドに来て周辺の領地をまわり、ルドガーのいる黒の森の館を訪ねたわ。
そこでだけ、あの子と一緒に過ごすことができた。
あの子は母親の私に対してもあまり感情を示さなかったけれど、少しは気を許してくれているのが伝わって来たし、あの子の顔を見るだけで私はうれしかった。
そうしてルドガーは年々成長し、少しずつ感情を取り戻していったわ。
7歳になった年、ノナ・ニムはようやく、ルドガーが人間界で生きていけるだけの生命力を回復させたと判断されたの。
そうしてあの子を、私とベニートの手に返してくださったわ。
その年の花祭りの後、私たちは4年ぶりにルドガーを連れて王都へ戻ったのよ」
私は、自分の想像をはるかに超えた義母の告白に圧倒され、言葉もなくただ聞き入るばかりだった。
「王都に戻った時、7歳になっていたあの子には、貴族としてさまざまな責務が負わされたわ。
学問や武芸においては、あの子は人並はずれて優秀だったけれど、他人との関わりがどうしてもうまくいかなかったの。
ルドガーは魂をもがれたせいで、人間としての感情の大部分が抜け落ちているわ。
だからあの子には人の心がわからないのね。
自分の感情すらわかっていないのだから仕方ないわ。
他人に共感する力がルドガーにはまったくなくて、世間一般の常識と言われるものがあの子には通じないのよ。
4年ぶりに生活をともにして、私もベニートもふつうの子どもとは違うルドガーの異質ぶりを痛感したの。
ただ、それも無理もないという部分もあるでしょう。
7歳になるまで、あの子に関わってきていたのは精霊や森の民ばかりで、ふつうの人間との付き合いがまるでなかったのですからね。
人間社会は、まして貴族社会は、人の心の裏の裏を読んで身の振り方を考えていかなければ、とても渡っていけないのに。
私とベニートは、ルドガーに人の心の機微を根気強く教えてきたつもりだけれど、やはり十分ではなかったと思うわ。
ルドガーは、人の心情が読めず、精霊のような極端なものの見方をするところがあって、さまざまな場面で他人との無用な軋轢を生むことが多かったのよ。
それに、あの子が多くの面で他人より秀でていることも、かえって良くなかったのかもしれないわね。
優秀であることは周囲の妬みを買うことにもなるし、何をやらせてもすぐに習得できてしまうあの子には、できない人間の痛みがわからないから、そういう人たちからの恨みや憎しみを買うことにもなる」
義母の言葉は私の胸に小さな棘となって刺さった。
私はずっと魔力のない令嬢という扱いをされてきた。
他の令嬢たちが難なく灯をともしたり風を起こしたりするのを見て、何もできない自分が情けなく、歯がゆい思いをずっと胸に抱えて生きてきた。
この胸の痛みは、兄アルマンとすら共有できるものではない、私だけの痛みだ。
でも共有できなかったとしても、兄がそうしてくれてきたように、痛みに寄り添ってくれることはできる。
ルドガーは私の夫という立場にありながら、今まで一度もそんな風にしてくれたことはなかった。
だがそれには、彼には私のようなできない人間の気持ちがわからないという理由があったのかもしれないと、義母の話を聞いて私は初めて思い至った。
そうした酌量の余地があるからといって、夫の私に対する今までの言動をすべて忘れて水に流せるわけではないけれど。
ただ思うに、今の私はルドガーに恨みや憎しみを抱いてはいない。
そもそも彼に、自分を理解してほしいという期待自体を、最初から抱いていなかったからだろうか。
前世で彼に殺された記憶はいまだ鮮明に残っているが、それはそこから目を背けたい恐怖の感情とはつながるものの、彼を恨み復讐しようというような憎悪の念は、私の中にはあまりないのだ。
そんな風に私が自分自身を見つめている一方で、それとは関わりなく義母の告白は続いた。
「対人関係の問題はあったけれど、12歳で騎士団に入団する前に、ルドガーは公爵家当主となるために必要な学問はすべて修めていたわ。
それに剣の腕も、大人の剣士すらかなわないほどの腕前だった。
文武両道の神童の名をほしいままにしていたことは、エリナさんもいくらか聞き及んでいるのじゃないかしら」
「はい、それはもう…」
社交界にうとい私のもとにすら、ルドガー・フレイザー公爵子息の噂は届いていたものだ。
義母は遠い目をして当時を振り返った。




