赤猫のザジ・1
伯父と甥の連弾が一区切りつくと、私たちは音楽室を離れ庭園に出た。
ナタリーがテラスにお茶の用意をしてくれていた。
兄のためのワインと酒肴もある。
春の盛りのこの時期、夕食後のこの時間でも外はまだ明るい。
セドリックはターラに庭園を案内している。
ターラがセドリックの説明にいちいち感心するので、熱が入っているようだ。
私と兄はテーブルについて、のんびり二人の様子を眺めていた。
「セドリックは音楽の才能があるよ。リズム感がとてもいい」
兄がいかにもうれしそうに私に話しかけるので、つい失笑してしまう。
「伯父バカなんじゃなくて? お兄さま」
「そんなことはない。母親譲りさ、エリー。お前だってリズム感がいいだろう。
お前のステップはすごく正確だから、ダンスがとても踊りやすい。そうだろう、ナタリー?」
急に話題を振られたナタリーは一瞬うろたえたが、「はい」と返事をした。
「エリナお嬢さまのダンスのステップはいつも正確です。
それに相手がステップを間違えても上手にいなして、何事もなかったかのように踊り続けてくださる余裕がおありです。
ダンスだけじゃありません。
エリナお嬢さまは昔からとても運動神経が良くていらっしゃいました。
足もお早いし、私はいつも追いつけませんでした。
今のセドリック坊ちゃまと同じですね」
少しからかっているように私に笑いかけるナタリーに、私は赤くなって「もう!」と手を振り上げてみせた。
幼いころ、教師が教えてくれた社交のためのダンスは、授業が終わった後はナタリーを相手にして練習していたのだった。
おかげでナタリーは、貴族のダンスの男性パートを踊れるようになったのだが、平民である彼女にとっては何の役にも立たない特技である。
私も、一応教養としてダンスの技術は習得したものの、実際に貴族男性とダンスを踊ることなどほとんどなかった。
デビュタントでもパートナーは兄だったし、夜会にもあまり参加しなかった。
貴族令嬢が貴族の伴侶を見つけるために夜会に参加するのだが、魔力のない私には無縁の催しだと思っていた。
父も兄も、王都にいるときは私をエスコートすると言ってくれたけれど、必要もないのに夜会に参加して、魔力がないせいで肩身の狭い思いをするのはいやだった。
さらに、ルドガーと結婚してからはますます夜会に参加しなくなった。
夫に愛されない妻とあざけられていることはわかっているのに、わざわざ悪意のただなかへ飛び込んでいく理由がどこにあるだろう?
それに、セドリックが生まれてからは、公爵家の領地運営と子育てで私は精一杯だったので、実際夜会に参加する暇などなかった。
「ダンスなんて、もう長いこと踊っていないわ」
ひとり言のようにつぶやくと、兄はやれやれ、といった風に
「エリーは生真面目すぎるよ。まあそこがお前のいいところだけど」と嘆息した。
「たまには義務や責任を忘れて、心が喜ぶことをしなくちゃ。
さっき音楽室にいた時のお前は、とてもいい顔をしていたよ。
あんな風に過ごす時間を、つとめて持つようにしなきゃだめだよ。お前は頑張りすぎるから」
兄の親身な言葉を私は素直に聞いていた。
そしてそんな自分が意外だった。
夢で見た前世の私は、こんな兄の言葉を聞くのがいやで、彼の訪問をかたくなに拒否していた。
妹に対する愛情に満ちた兄の言葉を、受け取る余裕が前世の私の心にはなかった。
でも今の私は違うと実感する。
「ありがとう。気をつけるわ、お兄さま。
さっきは本当に楽しかった。お兄さまのおかげだわ」
そう感謝を伝えると兄は花が咲いたように笑った。
そこへ、ターラが戻ってきた。
息を切らしている。セドリックの姿は見えない。
「失礼いたします。こちらへセドリック坊ちゃまがいらっしゃいませんでしたか?」
私たちに聞いてくるターラの眉間にはしわが寄り、焦ったような表情をしている。
「来ていないけれど、どうしたの?」
「なにやら猫を見つけたと言って、茂みの下にもぐりこんでいってそのまま、いつまでたっても出ておいでにならないから、てっきりこちらへお戻りなのかと…」
「セドリックが?」
私の胸にも不安がよぎる。
「どこへ行ったのかしら、あの子ったら…」
「エリー」
にわかにうろたえだした妹を安心させるように、兄はテーブルの上で私の手を握った。
「落ち着いて。僕の鳥を飛ばしてみよう」
そう言って私から手を離すと、兄は手元のティーカップのふちをスプーンで軽く3回たたいた。
カン、カン、カー…ン…。
短いリズムの旋律が生まれ、透き通った音が響くと、それに呼応するようにカップのふちから小さな青い球体が浮かんだ。
その青い粒は渦を巻き、みるみる小さな鳥となって、翼を広げ上空へ飛び立った。
鳥の羽ばたきのあとには、カップとスプーンが奏でた旋律の余韻と、きらきらと降り注ぐ金色の光の粒子が残された。
兄アルマンは、自分の魔力を彼の青い瞳と同じ色の鳥にして飛ばすことができる。
その青い鳥は、音の振動の伝わる範囲ならどこへでも飛んでいけるのだ。
兄の小鳥は今、空からセドリックを探してくれている。
「おや」
兄はひとりごちた。
「館の裏の、黒の森のところに男の子がいる。セドリックだね」
「黒の森?」
私は思わず大きな声を出した。
「どうしてそんなところに?」
「さあ、わからないな。でも、猫を抱えている」
「猫?」
「うん。ちょっと変わった毛色の猫だ…あれ?
消えた……えっ?」
そう言って兄は驚いたように目を見張り、私の背後を凝視した。
振り向いて兄の視線の先を見ると、庭園入口にあるアーチの下の空間が、小石を落とした水のような波紋をえがいて揺らいでいる。
その揺らぎの中心から、子どもを肩車した若い男がゆらりと姿を現した。
「セディ!」
男の肩に乗っているのは、なんとセドリックだった。
「わあ、すごい! すごいや!」
「こら、引っ張るな」
セドリックは興奮して、自分を担いでいる青年のもじゃもじゃの髪の毛ををかき回している。
鉄錆色の赤毛をした謎の青年は、迷惑そうな顔をしているものの、子どものなすがままにされている。
考えるより先に身体が動き、私は青年とセドリックのところへ駆け寄った。
兄たちも私の後に続いた。