義母の哀訴・1
深く暗い水底から水面へ上昇していくような感覚で、私の視界は少しずつ明るくなってきた。
「母さま! 母さま、僕だよ、わかる!?」
泣き声まじりの問いかけが耳に届く。
私は重たいまぶたを苦労して持ち上げて答えた。
「…セディ…」
自分でも驚くほどかぼそい声だったが、それを聞いたセドリックは、わっと泣き出して私に抱きついた。
「母さま、母さまあ…!」
全身で泣く幼子の熱さを感じて、私の意識は徐々にはっきりしてきた。
手を上げてセドリックの黒髪をなでてやると、泣き声は次第におさまって、しゃくりあげる声に変わってきた。
私はベッドに身を投げ出している息子の後ろに、涙をこらえているらしいナタリーと、兄アルマンの姿があるのに気がついた。
「お兄さま…」
兄は私の声を聞いて、安堵したように小さく笑った。
「エリー、よかった、目を覚ましてくれて。
身体に異常はないと医師から聞いてはいたし、母上がノナ・ニムの祝福を受けたときも三日間眠り続けていたのを知っているから、大丈夫だとは思っていたんだが、それでもやっぱり心配だったんだ」
「ごめんなさい、お兄さま…」
目の下にクマをつくって面やつれしている兄に、私は心から謝罪した。
兄は笑って、私とセドリックの二人を一緒に抱きしめてくれた。
「エリーが謝ることは何もないさ。ノナ・ニムに会って疲れただろう。安心してゆっくり体を休めるといい」
「ええ、ありがとう。
お兄さまは、私がノナ・ニムの所へ行った事情をご存じなのね?」
兄にそう確かめると、夏空の瞳はセドリックにちらりと向けられた。
「エリー、詳しいことはまた後で話そう。お前にずっと付き添っていてやりたいけど、僕はそろそろ音楽会へ行く支度をしなくちゃいけないんだ」
「まあ、大変!」
私はあわてて兄から身を離し、セドリックもベッドから降りた。
その時、ドアをノックする音がして、義父と義母が部屋へ入ってきた。
「エリナさんが目を覚ましたんですって?」
義母イーディスは頭を下げているナタリーの前を通り過ぎて私の枕元へ駆け寄ってきた。
その後ろに義父ベニートが続く。
「エリナさん、気分はどう?」
「どこか具合の悪いところはないかね?」
「お二人とも、お気づかいありがとうございます。特に具合の悪いところはありませんわ」
私の返事に義父母はホッとした様子で顔を見合わせた。
義父はベッド脇にいる兄を見て声をかけた。
「音楽卿。顔色が悪いようだが大丈夫かね?」
兄アルマンは軽くお辞儀をして答えた。
「大丈夫です、閣下。今日も花祭りの音楽会がありますから、その準備に向かおうとしていたところです」
「そうか。昨日の音楽会は素晴らしかったと評判だよ。
しかし君は昨日からほとんどエリナに付きっきりで、ろくに眠れていないのではないかね?」
「ご懸念には及びません、閣下。僕はこれでもかなり身体は丈夫な方なのです。それに、僕の音楽会を楽しみにしていてくれる方たちのことを思うと心がはずみますしね。
ただ、体調が万全でない妹のことが気がかりです。どうかエリナのことはよろしくお願いいたします」
義父母に深く頭を下げる兄を見て、私は胸が苦しくなった。
すると、セドリックが伯父のところへトコトコと歩いていき、その顔をのぞき込んで言った。
「伯父さま、僕が母さまのお世話をするから心配しないで。音楽会、がんばってね」
「セディ…」
兄は虚を突かれたようにセドリックを見つめると、満面の笑顔になっていきなり甥を抱き上げた。
「ああ、がんばっていい演奏をしてくるとも! お母さまを頼むよ、セドリック」
乱暴なくらい強く頬ずりされて少しだけ迷惑そうな顔になりながらも、セドリックは「うん」とうなずいた。
その光景を目にして、義両親も私も笑顔にならずにはいられなかった。
兄が去った後、入れ替わりにターラがやってきた。
兄から私の世話を命じられたという。
公爵家の侍女たちの手前、私はターラに世話をしてもらうことを躊躇したが、義母はすんなり了承してくれた。
「ターラはエリナさんのお母さまの代から仕えてくれているのでしょう。
気心の知れた侍女についていてもらえば、エリナさんもゆっくり休むことができるわね。
ではターラ、エリナさんのことはあなたとナタリーにまかせますよ。
しっかり休養を取らせてあげてちょうだい」
「かしこまりました、大奥さま。
大奥さまと大旦那さまのご恩情に心から感謝申し上げます。
このターラ、お二人のご信頼を裏切らないよう、しっかりとエリナさまのお世話をさせていただきます」
ターラは小柄な体を折り曲げて、白髪交じりの頭を義両親に向け深々と下げた。
「では儂らはいったん失礼するよ、エリナさん。セドリックはどうするね?」
見るとセドリックは、眠たげに目をこすっている。
もしかして、母親の私を心配してあまり眠れていないのだろうか。
私は小さな手を取ってベッドのそばへ引き寄せた。
「セディ、心配をかけてごめんなさいね。
母さまはもう大丈夫よ。
おじいさまやおばあさまと一緒にお食事をして、それから少し眠るといいわ。
母さまももう少し休んだら、いつもどおり動けるようになるから。
そうしたら、約束したとおり一緒に花祭りに行きましょう」
「うん…」
眠くて体温の高くなっている小さな身体を抱いて黒髪の頭にキスしてやると、セドリックは甘えたような仕草で私の胸に顔をこすりつけた。
義母がそんな孫息子に優しく声をかけた。
「さあ、セディ、行きましょう。お母さまを休ませておあげなさい」
セドリックは不承不承といった様子で私から身を離し、義父と義母に手を引かれて、私の方を何度も振り返りながら部屋を出て行った。
「ちい坊ちゃまは、本当にお母さまのことが大好きなんですねえ」
まわりに私とナタリーしかいなくなったせいか、くだけた口調でターラが感心した。
ナタリーも同意してうなずき、私を見て言った。
「エリナさまが眠っていらっしゃる間、セドリック坊ちゃまはずっとこのお部屋でおそばについていらしたんですよ」
「まあ…私はどのくらい眠っていたのかしら?」
私がたずねると、ナタリーは答えた。
「まるまる一昼夜といったところです」
「まあ…」
母がノナ・ニムの所から帰ってきたときは、三日間眠り続けていたのだと兄アルマンに聞いた。ということは、私はそれに比べて驚くほど短期間で目を覚ましたことになる。たぶん、ニーヴの丘で、古代樹の神殿から戻った私の疲れをいやすためにと、ニーヴさまがご自分の霊力をわけてくださったおかげだろう。心の中で私があらためて大柳の木の精に感謝をしていると、ナタリーが問いかけてきた。
「昨日の朝早く、応接室の前の庭園に倒れておられるのが見つかったんですよ。
覚えておられませんか?」
「ええ…なんだか記憶がとぎれとぎれで…」
私はこめかみをおさえて記憶を呼び起こそうとしたが、ターラはそれを止めようとするかのように、そっと私の手をとった。
「ちい嬢さま、今はまだお疲れが残っています。
ひどいお顔の色ですよ。
まずは、あたたかいものを召し上がって、もう少しお眠りなさいませ。
いろいろなことを考えるのは、目が覚めて頭がすっきりしてからですよ」
ターラの手の温もりが、私に自分の居場所を教えてくれる気がした。
私はその後、部屋に届けられたスープを少し飲んでからまた眠った。
今度の眠りはほんの数時間程度だったが、心地よい眠りだった。




