大精霊との対面・7
朝日のまぶしさで、私は目を覚ました。
「ここは、どこかしら…」
節々が痛む身体をゆっくり起こしてあたりを見回すと、そこはニーヴの柳の根元だった。
小川の向こうにウィロー砦が、朝日を背にしてそびえている。
「お、目が覚めたか」
頭の上から声がして、鉄錆色の痩せた猫が身軽な動作で、柳の樹上から私の目の前に飛び降りてきた。
「…ザジ?」
「おう、お疲れ」
赤猫は灰色がかった緑の目を細めて、人間の言葉で私をねぎらった。
「身体はどうだ、大丈夫か?」
「……」
ザジの問いにすぐに返事ができないほど、身体が鉛のように重く、身体のあちこちがきしんでひどく痛んだ。
「私は、一体…?」
春暁のひんやりした風に、岸辺の小さな草花たちがそよいでいる。
小鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、空からは徐々に夜明けの色が薄れて、太陽が高く昇り始めた。
そんな見慣れた景色の中にいて、私は昨夜起こったことが現実だったのかどうか自信が持てなくなった。
だがふと横を見ると、そこには月桂樹に似た葉を茂らせた枝があった。
切り口はもう光を発してはいないが、それは私が古代樹の神殿でノナ・ニムからもらった、あの御神木の枝に違いなかった。
「…夢じゃなかったのね…」
ぽつりとつぶやくと、私のかたわらに寝そべった赤猫がフンと鼻を鳴らした。
「夢なもんか。エリナ、お前はノナばあさんの祝福を受けて黒の森の魔女になったんだぜ」
「ええ…」
ぼうっとしている私の、頭上の大柳の枝がざわめき始めた。
《きれいな子》
《エリナだって》
《レーナにそっくり》
《ノナ・ニムの祝福を受けたんだって》
《黒の森の魔女だって》
小鳥のさえずりに混じって甲高い子どもたちのささやき声がする。
そして昨夜ザジと私に道を開けてくれた大柳のうろから、昨晩聞いた覚えのある声がした。
《お帰り、レーナの娘。ノナ・ニムはお元気だったかい?》
ニーヴの柳の精の声がする樹上へ、私は視線をやって答えた。
「はい、ノナ・ニムはとてもお元気そうでした。ニーヴの柳の精さまから、よろしくと伝言を頼まれたことをお伝えしました」
大柳はたくさんの枝を嬉しそうに揺らした。赤猫の姿で、ザジが柳の精に声をかけた。
「昨夜は世話になったな、柳の。
だけど眷属のチビどもにしっかり言い聞かせてくれよ。いくらきれいだからって、エリナを取り替え子なんかしないでくれってな。そんなことしたらノナばあさんが怒るぜ? こいつはノナ・ニムの魔女になったんだからな。
エリナお前、ここのやつらに自己紹介してやれよ」
尻尾を立てて背伸びをした赤猫にそう強く言われて、私は戸惑いながらも口を開いた。
「ニーヴの柳の精とその眷属のみなさま。私は祝ぎ歌のレーナの娘で、エリナと申します。
昨夜、古代樹の神殿で、ノナ・ニムに黒の森の魔女として祝福を受けました。
ノナ・ニムにいただいた魔女名は“月白”です。どうぞよろしくお願いいたします」
《レーナの娘》
《ノナの魔女》
《月白だって》
《つきしろ》
私の挨拶を受けて、大柳の枝のあちこちで小さなささやき声がするとともに、たくさんの微小な光がチカチカとまたたいた。私にはそれが、柳の精たちが私をお祝いしてくれているように思えた。
「さあ、それじゃ戻るぞ、ザヴィールウッドへ」
そう言って赤猫はさっさと柳の脇にある道を上り始めた。
私は痛む身体をなんとか起こして立ち上がり、柳の木に向けて頭を下げてから、ノナ・ニムにもらった古代樹の枝を抱えた。
おぼつかない足取りでザジの後を追おうとしたその時、背後から思いがけず大柳の枝が幾本か伸びてきて、軽く私の背中や肩をさすった。
すると、柳の枝の触れたところから、鈍い身体の痛みがすうっと引いていった。
驚いて柳の木を見上げると、枝のあちこちでまたたいている光の一つ一つに、それぞれ小さな精霊の姿が見えた。
そして、大柳の太い幹には、ノナ・ニムより年下に見える20代くらいの緑の髪の女性が浮かび上がった。
《月白の。私の霊力を少し分けてあげたけれど、身体の痛みは取れたかい?》
先ほど身体をさすってくれた枝は私に霊力を与えてくれていたのだと、その時初めて気がついた。
「ありがとうございます、ニーヴの柳の精さま。おかげでとても身体が楽になりました」
《それはよかった。この間、とても素晴らしい祝ぎ歌を聞かせてもらったお礼だよ。
それから私のことはニーヴと呼ぶがいい。
お前はもう、私と同じ黒の森の一族、ノナ・ニムの眷属なのだから》
ニーヴの柳の精がそう言って微笑むと、枝に散らばる小さな光がいっせいにうなずくようにまたたいた。
《気をつけてお帰り。そしてまたいつでもおいで》
ニーヴの柳の精の心のこもった言葉を聞いて、私は胸があたたかくなった。
「ありがとうございます、ニーヴさま。眷属のみなさまもありがとうございました。
きっとまたここを訪ねてまいります。どうぞみなさま、それまでお元気で」
ニーヴの柳の精は、そう言って手を振った私にほほ笑んでくれた。
そうして大柳に別れを告げた私は、分けてもらった霊力のおかげで身体の活力が戻り、急斜面を独力で上りきった。
丘の頂上にたどりつくと、そこにはあの精霊の道が開いていて、道の入口で赤猫が私を待っていた。
「ザジ、お待たせ」
「遅いぜ、まったく。人目につかないように、夜が明けきる前に着きたいのによ」
「ごめんなさい。でもあなたならあっという間に着けるでしょう?」
「赤豹を当てにするなよ。俺は疲れた」
「あら……それじゃどうすればいいの?」
「今のお前なら精霊の道を自分で通っていける。ほら来いよ」
赤猫は土で汚れた私のドレスの裾をくわえて、精霊の道の入口へ引っ張っていった。
水のように揺らいでいる透明のトンネルの中におそるおそる足を踏み入れると、私の身体は地面から宙に浮いた。
「まあ…!」
「精霊の道での一歩はすごい距離になるから、あっという間にフレイザーの領主館に着けるぜ。
俺は、一晩中お前とノナばあさんの間に挟まれてくたくただ。歩くのも面倒だからお前の肩に乗せていってくれ」
言うや否や、赤猫は私の肩に飛び乗った。
だが不思議なことに、重さはほとんど感じられない。
私は肩にぐんにゃりとなった猫を乗せ、胸に大きな木の枝を抱えた上、泥だらけのドレスとぐしゃぐしゃになった髪という悲惨とも珍妙とも言える格好で、ともかく目の前の透明なトンネルの中を歩き出した。
「わあ…っ」
思わず子どものような声が出てしまう。
精霊の道のトンネルを歩いていると、周囲の景色が面白いようにぐんぐん後ろへ飛び去って流れていくのだ。
それに、高い空の上から見下ろす街や田園の景色はふだん見ることのできないとても興味深いものだった。
昨夜も同じ光景を目にしていたはずだがなにしろ暗かったし、私自身に気持ちの余裕がなかったので景色を鑑賞してなどいられなかった。
だが今は、目まぐるしくいろいろなことが起こってすべてを受け止め切れてはいないが、自分の心にゆとりが生まれてとても安定しているのがわかる。
それは私がノナ・ニムと対面して、自分の生い立ちや亡くなった母のことを知り、黒の森の魔女として認めてもらったからだ。
そのチャンスをくれた赤毛の護衛騎士に、思えば私はまだ何も言っていなかったことに気がついた。
「ありがとう、ザジ」
私は精霊の道を歩きながら、肩の上の赤猫を軽くなでて、心からの感謝を伝えた。




