大精霊との対面・2
私は後ろ髪を引かれながらも、ザジの後ろについてニーヴの柳の根元まで下りていった。
小川の岸辺に立ったザジは、先ほどの緊張感はどこへやら、いつもの気の抜けた様子に戻っていた。
「さ~て、エリナ。
これからノナばあさんの所へ行くわけだけど、人間界に戻ってくるつもりなら、ばあさんの所で一切飲み食いはするなよ。
精霊界のものを口にしたら戻れなくなるからな」
「わ、わかったわ」
「じゃあ行くか。おい、柳の。俺とこいつを通してくれよ」
ニーヴの柳を見上げてザジがそう語りかけると、大柳の枝はいっせいにざわめいてそれにこたえた。
≪赤猫の。ノナ・ニムのところへ行くのかい?≫
「ああ。“祝ぎ歌”の娘をばあさんに会わせてやろうと思ってさ」
大柳の枝の間にたくさんの小さな火花が散って、キャッキャと笑う声があちこちで聞こえた。
それとともに大木の幹のうろが少しずつ大きくなり、やがて人が通れるほどの道が開いた。
道の先には暗黒の闇が広がっていたが、ザジは躊躇せずその中に足を踏み入れた。
私も意を決してその後に続こうとしたが、入口で声をかけられて立ち止まった。
≪“祝ぎ歌”の娘。
私はお前が生まれる前からお前を知っているよ。
ノナ・ニムによろしく伝えておくれ≫
どういうことかはよくわからなかったが、私は精霊界への道を開けてくれたニーヴの柳の木の精へ、心からの感謝を込めて「はい」と答えた。
私が木のうろの中へ入ったとたん、扉が閉まるように木の幹は閉じていった。
暗い穴の中でザジの持つ棒だけが、その先に不思議に光る灯りをともして道を照らしていた。
「ついてきな」
ザジはそう言って先を歩きはじめる。
私はザジのともす灯りで注意深く周囲を観察しながらその後についていった。
暗い洞窟の中をどれほど歩いただろうか、遠くにかすかに出口の光が見え始めた。
近づいていくにつれ、その出口の向こうに広がる景色がはっきりと目に入ってきた。
そしてついに洞穴を抜けて外界へ出ると、目の前には見たことのない景色が広がっていた。
「まあ…!」
ザジに続いて外へ出た私は思わず感嘆の声を上げた。
そこは天を衝くほどの巨木に囲まれた森の神殿だった。
頭上は暗く星も見えない。幾重にも枝が重なる森は、人の手がまったく入っていない原始の森だが、中心には小さな湖があった。
その真ん中の浮島には、ひときわ巨大で風格のただよう大樹がそびえており、その樹を囲むようにして、今は見られなくなった古代様式の小さな神殿が建っている。
神殿のあちこちには青白い灯がともり、月光のようにほのかに森を照らし出していた。
「この森は古代樹の森だ。あれは古代樹の神殿。ノナ・ニム・フォレッサの住処だよ」
物珍しさにきょろきょろとあたりを見回している私に、ザジが解説してくれた。
「この森には、いにしえの神々の時代から生えている古代樹ばかりが残っていて、ノナばあさんの霊力の源になっている。
ふつうの人間にはここの空気は清浄すぎて毒になるんだけど、エリナ、お前は大丈夫そうだな」
ザジが意外そうな顔で私に言ってきたので、私は答えた。
「空気がきれいで私は気持ちいいけれど?
あとで毒が効いてくるのかしら」
「毒になるとしたら今の時点ですでに、そんな平気な顔しちゃいられないさ。
お前は人間の割には、魂が汚れていないのかもな。
なんとなく精霊に近いような気がするぜ」
ザジはなんだか楽しそうに、私にニカッと笑いかけた。
「でもまあノナばあさんは格が違う。
人間には危ないから俺のそばを離れないようにしろよ。
じゃあ行くか。橋を渡って神殿に入るぞ」
「わかったわ」
ザジはまた一人でずんずん歩いていく。
私は少し小走りになりながら後について、手すりもない簡易な桟橋をわたっていった。
浮島に降り立ち、すぐ目の前にある階段を上ると、そこが神殿の入口になっており、中には大きなホールがあった。
入口正面には、外からも見えていたあの大きな古代樹が生えていて、御神木として祀られている。
御神木に至るまでの床には、なにか魔方陣らしきものが描かれていた。
ザジは無遠慮にどかどか足音を立てながら、ホールに入っていってその魔方陣の上に立った。
そして、天へ突き抜けている大木の幹のまわりを囲む神殿の天井を仰ぎ、大声を張り上げた。
「ノナばあさん、俺だ! 赤猫のザジだ! ちょっと面ァ出してくんねえかな!」
大精霊に対する敬意がまるで感じられない呼びかけをしたザジは、両手を腰に当てて天を向き、相手の反応を待っている。
すると、床に描かれた魔法陣がかすかに光り出した。
そこから光の粒子がぱらぱらと浮いてきて天井へ向かってゆっくりと上昇していく。
その光の動きを目で追って、何気なく頭上を見上げたとたん、私はすくみあがった。
なんと神殿の天井一面に、巨大な人の顔が浮かんでいたのだ。
「……!」
言葉にならない悲鳴を上げている私をよそに、ザジはのんきな声で言った。
「ばあさんばあさん。縮尺間違ってっから。今の1000分の1くらいに調整してみな」
≪ほう…そうかい≫
頭上からひび割れたような声が降って来たかと思うと、巨大な顔はみるみる小さくなって、ホールの奥の御神木に収斂していき、天井まで届く古代樹の太い幹いっぱいに、女性の上半身が浮かび上がった。
青白い肌に緑の髪、緑の瞳。大きめの鷲鼻をしていて、頭には大鹿のような角が生えている。
見た目の年齢は30代後半か40代といったところだろうか。ばあさんと呼ばれるほどの年齢ではないが、落ち着いた大人の女性に見えた。
あぜんとしている私をよそに、聖なる樹に宿っている青白い女性の、ほとんど色のない唇が小さく開いた。
すると、先ほど天井から降って来たひび割れた声とは打って変わった、やわらかいアルトの声がした。
「これでどうだい、ザジ」
「もうちょい抑えてくれねえと。人間が耐えられる程度にさあ」
「注文が多いねえ、お前はまったく」
御神木に宿る女性はそうぼやくと、さらに縮んで木の幹の半分ほどの身体になった。
下半身は樹と一体化しているが、目線の高さは私が少し見上げるくらいだ。
ザジが振り向いて私に説明してくれた。
「ノナばあさんは、肉体を持たないでっかい精神体だからさ。
そのうちの大部分は森の深部にいてここにいるのは一部に過ぎないけど、それでも外見にも霊力にも縮小かけないと、人間が向き合って話すことはできないわけさ。
けどばあさん大雑把だからさあ、教えてやらないと縮尺が合ってなかったりするんだよ」
「はあ…そうなのね」
黒の森の大聖女ノナ・ニム・フォレッサが、ザジにかかるとまるで人間界の市井のおばちゃんのようだ。
私は何を言っていいのかわからず、ザジの説明に生返事をした。




