大精霊との対面・1
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
赤豹のザジは精霊の道から夜空を渡り、いくつもの町や村をあっという間に通り越して小高い丘に降り立った。
私はその丘の景色に見覚えがあった。
「ここは、ニーヴの丘…?」
何日か前に訪れたときは明るい昼間の景色だったが、今は暗い夜の景色に様変わりしている。
それでもその丘が、兄が連れてきてくれたあの丘だということはわかった。
丘の斜面にあるニーヴの柳は大きく枝を広げ、その上には上弦の月がかかっている。
ザジは私を背から降ろすと人間の姿に戻り、肩や首を回して関節をコキコキ鳴らした。
「へ~やれやれ。久しぶりに全力疾走したら疲れたぜ」
そんな年寄りじみたことを言うザジを、私はねぎらった。
「お疲れさま。まるで風のようだったわ。赤豹ってすごいのね」
「ふふん、そうだろ? 海の向こうの大陸の奥地にしかいない動物だけどな」
ザジは得意げに肩をそびやかした。
「あなたはなぜ、そんな動物に変身できるの? 赤豹をどこかで見たことがあるの?」
疑問に思って尋ねると、ザジは一瞬間をおいて答えた。
「ああ…昔、今のフィンバース国王が即位した時、王都へ行ったんだ。
あの時はいろんな国から新国王への贈り物があって、その中には珍しい動物が何種類もいた。
そいつらは檻に入れられて、王都の街中をまわる見世物にされてた」
「ゴダード陛下が即位なさった時? だったらもう20年以上も前よね。あなたもまだ子どもだったでしょう。王都へは誰と行ったの?」
「兄貴と…」
ザジは言いかけていったん言葉を切った。
「…うちの兄貴が、王都まで俺を無理やり引っ張っていったんだ。
各国からいろんな人や物が集まるこの機会を逃す手はないってさ。
なにしろ兄貴は“知りたがり”だからな。
それで、そこで見た珍しい動物に変身できるよう、俺を特訓したってわけだ。
豹とか、虎とか、獅子とか、猫に近いような種の猛獣たちにさ。
あんのクソ兄貴、弟を使わないでてめえがやれって話だよなあ、今思えばさあ。
まあそれが結局、俺のためにもなったからいいんだけどな」
ひとしきり兄の愚痴をこぼしたザジは、つと私の方を見て感心したように言った。
「しかしエリナお前、よく決心したなあ。得体のしれない俺みたいなやつについてくるなんて」
そう真顔で言われると多少不安になったが、今さら帰るわけにもいかない。
「だってそれしかなかったもの。手足をもがれるかもしれないなんて思ったら…」
私がそう答えると、
「バカじゃねえの。あのカタブツがそんなことするわけないじゃん。カルセミアの竜女じゃあるまいし」
そう言ってザジは、さも軽蔑したような顔で私を見た。
私は思わずカッとなって言い返した。
「な、なによ。
私の手足をもいじまえって、あなたが旦那さまに言ったんじゃない」
「そりゃそうだけど。
俺はルドガーがそんなこと絶対しないって知ってるから、ちょっとからかっただけさ。
お前、あいつのこと何にもわかってねえんだなあ、エリナ」
あきれた声を出すザジに腹が立ったが、言われてみれば私がルドガーのことをほとんど知らないのは事実である。
反論はせずに私が黙り込むと、ザジは「行くぞ」とあごをしゃくって、ニーヴの柳へ向かって大股で歩き出した。
数日前に兄アルマンとここへ来た時は、まだ日中で足元も明るかったが、今は深夜だし斜面を下りていくのは少し怖かった。
ザジは兄と違って、私に手を貸すどころか振り向こうともしない。
悪気はないのだとわかってはいるものの、ふだん公爵夫人として人の手を借りることに慣れてしまっている私には少しこたえた。
下りる途中でふと見上げた夜空の上弦の月は、私の頭上に広がる柳の木の枝にほとんど覆いつくされている。
不安を覚えて後ろを振り向くと、さっきまで私がいた丘の頂上付近に、赤い髪をした小さな子どもの後ろ姿が見えた。
「おーい、ザジ」
どこからかそう呼ぶ声が聞こえた。
(ザジ?)
あの子の名前はザジというのだろうか?
いぶかしく思う私をよそに、赤毛の男の子はびくっと体を震わせて声のした方へ走っていった。
彼の走っていった先には、ひとかたまりになっている二人の子どもがいた。
二人とも黒い髪をしていて、小さな子どもの上に、それより少し年上の子どもが馬乗りになっている。
私がじっと見ていると、おさえつけられている方の子どもが、自分の目の前に来た赤毛の男の子を見ようとして頭を上げた。
その顔を目にした私は、思わず大声で叫んだ。
「セドリック!」
「どうした、エリナ」
耳元の声に驚いて振り向くと、私のずっと先を歩いていたはずのザジが、いつの間にかすぐ背後に立っていた。
私は必死でザジの腕をつかみ、丘の上へ引っ張っていこうとした。
「ザジ、来て! セドリックが誰かにつかまっているの! 早く助けなきゃ!」
取り乱す私を見て、ザジは苦々しい表情になった。
「お前、見えたのか。あれが」
「何が!? いいから早く、セドリックを助けなきゃ!」
懸命に訴える私の腕を無言で振りほどいて、ザジは言った。
「あれはセドリックじゃない。それにもういないだろ」
「え…」
そう言われて振り返った丘の上には、ザジの言う通り誰もいなかった。
「ど…どういうこと? あの子たちは一体…」
「さあ、もういいだろ。行くぞ、エリナ」
ザジは私の言葉をさえぎってそう言うと、またさっさと柳の斜面を下り始めた。
私は後ろ髪を引かれる思いで丘の頂上を振り返りながらも、ノナ・ニムの所へ連れて行ってくれるザジの後ろについて、大柳のある斜面を下っていった。




