ただ愛ゆえに・3
少し残酷な表現があるのでご注意ください。
「その女を渡せ。
猫ふぜいが俺に逆らうな」
ルドガーの殺気に満ちた視線を受け流し、ザジはへらっと笑って言った。
「おいおい、なめんなよ。
猫には気性が荒いのもいるんだぜ?」
言うが早いかザジはさっと身をひるがえし、大きな赤い獣に変身して私の前に降り立った。
それは私が今まで見たことのない獣だった。
赤いなめらかな毛並みには黒の斑点が散っていて、シルエットは猫そっくりでしなやかな動きをする。
ザジの変身した獣は、鋭い牙をむきだして結界の向こうにいるルドガーを威嚇した。
「赤豹か。
カルセミアとの戦以来だな」
ルドガーは獣の名を知っていた。
ザジが変身したことにも驚きはまったくないようだ。
北方の隣国カルセミアとの戦で、ルドガーは大きな功績を上げて英雄と呼ばれるようになった。
フィンバースの黒竜と異名を取り、各国から一目置かれる存在となるきっかけとなったその戦の際、ザジはルドガーと一緒に戦っていたのだろうか。
ノナ・ニムの統べる黒の森は人間界のどの国にもくみしない、中立地帯だったはずだけれど。
一瞬そんな疑問が頭をよぎったが、すぐに消え去った。
今はそんなことはどうでもいい。
ルドガーの手を逃れて、何としてもザジに森の大聖女の所へ連れて行ってもらわなければ。
赤い猛獣は私を振り向いて、人間の言葉で言った。
「背中に乗りな」
私は自分を見上げるザジと視線を合わせた。
赤豹のザジは、人間でいた時の邪魔な前髪がなくなったせいか、その緑がかった灰色の瞳がいっそう妖気を増しているように見える。
いったんその背に乗れば、そこから先は人ならざる者の世界へ行くことになるのだ。
そう思うと、私は恐ろしくなり思わず身ぶるいした。
けれど行くしかないのだ。
私は覚悟を決めた。
自分の道は自分で切り拓くしかない。
(セディ……母さまは必ず戻るわ。待っていてね)
私は左手の包帯をさすり、胸の中で息子のセドリックに固くそう誓った。
そうして不安を振り払い、こちらを見ている赤豹の瞳をまっすぐ見返した。
「ザジ、あなたはセドリックの寝室にいたのでしょう。
だったらあの子と私が、一緒に花祭りに行く約束をしたことも見ていたわよね?」
「見てたけど?」
赤豹は首を下げ、前足で床をひっかくような仕草をした。
「なんだよ、だからそれまでに帰らせろってか?
うへ~、イヤなプレッシャーのかけ方しやがる。
えぐいぜエリナ」
獣のザジはぐるぐると喉を鳴らして目を細めた。
「けどまあ、そういう駆け引きのできる女は嫌いじゃねえ。
さあ、乗れよ」
ザジにうながされ、私は肚をくくった。
夜着に近い簡素な服を着ていたので、ドレスの下に着ける大仰な各種のペチコートやボーンなどはなく、少々行儀は悪いが赤豹の背にまたがることができた。
こんなことは小さな子どもの時以来だったが、私はその時の、少女だった自分のわくわくした気持ちを少しだけ思い出していた。
赤豹の背には、人間だった時にザジが背負っていた木の棒が、今は柔らかくなってちょうど馬の手綱のように巻きついている。
「その紐にしっかりつかまっとけよ」
「ええ」
ザジに言われて私は、元は木の棒だった紐をぎゅっと握りしめた。
応接室の中には夫と義両親の姿が見えるが、彼らの手が私に届くことはない。
私は夫には構わず、義父母に向かって声をかけた。
「お義父さま、お義母さま、セドリックのこと、よろしくお願いいたします」
ザジの背中で私が頭を下げると、結界の向こうの義両親は快諾してくれた。
「まかせてちょうだい」
「安心しなさい、あの子には儂らがついている」
二人の心強い返事に、私の不安は少しだけ解消された。
「さあ、行くぞエリナ、ノナばあさんの所へ!」
赤豹が足踏みをして床を踏み鳴らすと、バン!と大きな音がして部屋の奥の大きな窓が全面開き切った。
次の瞬間、ザジが義両親やルドガーとの間に作っていた結界が、部屋の中からみるみる伸びて窓から屋外へ走っていき、気がつくと水でできた透明のトンネルのような道が夜空に向かって出来ていた。
ザジはそのトンネルの中、私を背に乗せて一歩踏み出した。
「待て! 戻ってこい!」
結界のトンネルの向こうでルドガーがしきりに叫んでいる。
私はちらりとそちらへ目をやった。赤豹も黒髪の人間を振り向いた。
「俺を止めたいならここまで来ればいいじゃねえか。
ルド、お前…」
赤豹のザジは哀し気な声音で言った。
「もう精霊の道に入ることもできなくなったのか」
結界の向こうで揺れる夫の表情はよくわからなかった。
私はふいと顔を背け、前方へ目を向けた。
それと同時に赤豹は勢いよく走りだした。
周囲の景色がものすごい速さで後方へ流れ去っていく。
窓から外へ出て、庭園の上空を赤豹は駆けあがっていった。その背中をルドガーの切羽詰まった声が追ってくる。
「よせ! 戻ってこい!
精霊の世界は本当に危険なんだ!
取り替え子に遭うぞ!」
取り替え子とは何のことだろう。
どこかで聞いたことがあるような気もしたけれど、私にはわからなかった。
背後で夫の声はだんだん遠ざかり、聞こえなくなっていった。
けれど完全に聞こえなくなる直前、
「行くな、エリナ!」
天空の月に向かう夜空の闇の中で、悲鳴のような声が響いた。
それを耳にしながら私は、夫に名前を呼ばれたのはこれが初めてだとぼんやり思っていた。
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