ただ愛ゆえに・1
少し残酷な表現があるのでご注意ください。
眠る前にベッドの中から心配そうにこの包帯を見ていたセドリックのことを思うと、絶望に呑み込まれそうになっていた私の中で何かがはじけた。
私は勇気を奮い起こし、隣に寄り添ってくれていた義母の元から離れて、ゆるゆると顔を上げて夫の背後にいる赤毛の男へ目を向けた。
「ザジ」
そう呼びかけると、ザジは不意を突かれ毛を逆立てた猫のように、警戒心をあらわにした。
「なんだよ、エリナ」
「あなたは、セドリックと一緒に寝ていたと言ったわね。
ずっとあの子の部屋にいたの?」
「ああ、そうだぜ。
あんたが坊主に本を読んでやってるのも見てたよ」
「そう…ちっとも気づかなかった」
「そうだろうさ。猫は隠れるのが得意なんだ」
「本当ね。そうやって隠れて、あの子を守ってくれているの?」
ザジはちらりと、自分を振り向いて見ているルドガーに目をやってから「おう」と答えた。
私は、左の袖口からのぞく白い包帯へ目をやった。
それが思い起こさせる息子の顔に力を得て、私はソファの後ろからザジのいる方へ歩き出し、包帯をしている左手をかかげてみせた。
「ねえザジ。
あの子がこの包帯に気がついて私を心配してくれていたのを、あなたは見ていたのよね?
これくらいのケガでさえそうなのだもの。
私の両手両足がなくなったら、セドリックは悲しむわね」
義両親と夫はぎょっとしたようだが、私は彼らを横目に歩を進めた。
ザジは平坦な口調で「だろうな」とだけ言った。
私は左手を下ろしたが、そのままザジの方へ歩き続け、重ねて問いかけた。
「それに、もしお産で私が死んだら、あの子はもっと悲しむでしょうね。
セドリックのお産はひどい難産で、私は死にかけたのよ。
手足を切り落とされた上に二度目のお産をすることになったら、今度こそ私は命を落とすと思うわ。
そうなったら、その後あの子はどうなるのかしら。
私がいなくなったら、あの子は一人ぼっちになってしまうわ。
その時いったい誰があの子を守ってくれるの? ザジ、あなた?」
ルドガーが座っていた肘掛椅子の後ろに立つザジから、数歩離れた距離で私は立ち止まった。
背の高いザジは愛用の棒を担いだまま私を見下ろした。
「まあ、俺はフレイザーの跡継ぎを守ることにはなってるさ。
けどさあ、坊主の肉体は守ってやれても、心の傷は俺にはどうにもできないぜ。
俺は坊主の母親の代わりになんてなれないからな」
その言葉を受けて、私はザジに正面切って向かい合い、灰緑色の瞳をまっすぐ見上げた。
「だったらお願い、私を助けて、ザジ。
あなたは私の護衛騎士なのでしょう」
ザジは少し眉を下げて情けない顔になった。
「それはルドガーとの盟約の範囲内の話だ。
ルドガー本人がすることは止められないぜ」
「わかっているわ。
旦那さまにそむけと言うつもりはないの。
でもセドリックを守りたい気持ちは、あなたも私と同じでしょう」
私がそう言うと、ザジはガシガシと頭をかいた。
「ああ、しょうがねえなあ。
さっさと契約解除しとくんだったぜ。
それじゃ一応聞くだけは聞いてやるから、どうしてほしいか言ってみろよ。
エリナ、お前の望みは何だ?」
もじゃもじゃの赤毛の前髪の下で、瞳孔の縮んだ瞳が私を見た。
人のものとは明らかに違うその眼の光に少し気おされはしたが、私はそんな自分を叱咤して、胸にある願いを口にした。
「……強くなりたい。あの子を守れる力が欲しい」
心からこぼれたその言葉を表に出したとたん、私の周囲にいっせいに空色の羽根の渦が巻き起こった。
気がつくと私は、舞い踊る羽根が生み出す金色の粒子に取り巻かれ、淡い光に包まれていた。
堰を切ってあふれ出る水のように、身体の奥から温かいものが湧き上がって私を満たしていく。
この感覚には覚えがあった。
ウィロー砦の音楽会で母の祝ぎ歌を歌ったあの時と同じだ。
兄が私に魔力を流してくれた時もこうだった。
これが私の持つ魔力なのだろうか。
ザジは一歩引いて、じろじろと無遠慮に私と私の周囲を眺めまわしてから、全身で感嘆の息をついた。
「なるほどねえ、祝ぎ歌のレーナの加護持ちか。
そういや2,3日前に、ウィロー砦から魔女の祝ぎ歌が聞こえてきたっけ。
音楽卿の音楽会があったらしいからアルマンの関係者だとは思ってたけど、あれはお前だったんだな、エリナ」
いやはやと首を振るザジの横で、ルドガーはウィロー砦のバルコニー席で見たのと同じ驚いた顔をしている。
ザジはそんなルドガーを軽く笑い、それから私の方を見た。
「あれは胸に沁みるいい歌だったな、エリナ。
レーナの祝ぎ歌なんて、えらいもん聞かせてもらったもんだ。
こいつあ一肌脱ぐしかねえだろ」
ザジは手にした棒を背におさめ、両手を腰に当てて胸をそらせた。
そうして、もったいぶった威張ったような口調で私に告げた。
「ノナばあさんに会わせてやるよ、エリナ」
「バカな!」
ザジの言葉にルドガーが猛反発した。
「ふつうの人間をノナ・ニム・フォレッサに会わせるだと!?
霊力に当てられて命を落としかねん!」
「大丈夫に決まってんだろ、俺がついてんだからよ」
ルドガーが珍しく感情をあらわにして声を荒げるのを、ザジは軽くいなした。
「それにエリナはふつうの人間じゃないぜ。
ノナの魔女である祝ぎ歌のレーナの娘で、どうやらその加護も発現しているみたいじゃねえか。
ノナばあさんからすりゃあ、孫娘が遊びに来るようなもんだろうさ」
「何を言う!
そもそもその女をノナに会わせてどうするつもりだ!?」
「どうって、そりゃあ、ばあさん次第さ」
ザジは私とルドガーの間に立って飄々と答えた。
「エリナは強くなりたいと望んでる。
坊主を守る力が欲しいとな。
ノナばあさんの気分によっちゃあ、何かの力がもらえるかもしれねえ。
でなけりゃ武器とか、魔道具とかな。
試してみる価値はあるだろ?」
だがルドガーはザジの言葉にまったく耳を貸そうともせず、低くうなるように言った。
「話にならん。
そこをどけ、この裏切り者の赤猫め」
ザジは、ルドガーの言葉に反応して強く言い返した。
「だからあ!
俺もばあさんも、お前を裏切ったりなんかしてないんだって!
何べん言ったらわかるかなあ、この石頭!」
にらみ合う黒髪と赤毛の間に火花が散った。
ルドガーが強引に私とザジのいる方へ足を踏み出すと、ザジは素早く背に負っていた棒を手に取って、中心を握って円を描くようにくるりと回転させた。
その一瞬で、ルドガーとザジの間は目に見えない空気の壁に寸断された。
ルドガーが私へ手を伸ばそうとしても、その手は壁に阻まれて私とザジのいるこちら側には届かず、水中にあるかのようにゆがんだ形で向こうに揺れて見えるばかりだ。
壁の向こうでルドガーは苛立ち、義父母はおろおろとうろたえているのが見えた。
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