不信と恐れ・3
少し暴力的な表現があるのでご注意ください。
夫はずっと沈黙している。
私は問いかけた。
「旦那さま。
あなたも護衛騎士たちも、ネルラさまはか弱い女性だと言ってかばい、守っておられます。
けれどいくらか弱いといっても、成人女性でしょう。
4歳の子どもと成人女性がぶつかった時、怪我をする心配をしなければならないのは4歳の子どもの方ではありませんか。
もしこれが本当に平民の子どもであったなら、その子どもの父親は、高貴な女性であるネルラさまやその護衛騎士に立ち向かってでも子どもを守ろうとするでしょう。
でもセドリックの父親はどうなのです?
もしあの子の父親があの場にいたら、あの子を守ってくれますか?
それともあの護衛騎士たちと同じようにネルラさまをかばって、幼いあの子を責め立てるのですか?」
ルドガーの肩が揺れた。
「ルドガー・フレイザーさま、あなたは一体どなたです?
ネルラさまのルディではあっても、セドリックの父親ではないのですか?
あなたが私をお気に召さないのは仕方がないけれど、幼い息子のセドリックより、ネルラさまを守るとおっしゃるのですか。
それでは、あまりに……セドリックが哀れです」
懸命にルドガーに訴えていると、感情が乱れて私はつい涙声になった。
「セドリックは良い子です。
人を思いやれる優しい子です。
あの時だって、あの子はあんなに護衛の騎士たちに叱りつけられても、ネルラさまの探し人が早く見つかるように願っていたのですよ」
ルドガーは苛立ったように言った。
「良い子が人に体当たりなどするものか。
母親が指図でもしたなら別だがな」
「ですから、私はあの子に指図など…!」
「俺がネリーを守るのは当然だろう。
彼女を俺の唯一として、一生守ると決めたのだから」
ルドガーは、抑揚のない声でそう断言した。
私は長い息を吐いた。
そうして夫から静かに顔を背け、視線をうつろに宙に浮かせた。
「…そうですか。
それでご用件は何です?
なぜ私を訪ねていらしたのですか」
夫から顔を背け目を合わせようとしない私に、ルドガーは軽く舌打ちをした。
「可愛げのない女だ……まあいい、自分の役目さえきちんと果たせばな。
以前にも言ったとおり、俺とネリーが育てる子どもをもう一人産め」
私は信じられない思いで夫を振り返った。
「それこそ以前にも申し上げましたが、お断りいたします」
一言一句聞き間違いのないように、はっきりとした発音で私は返答した。
義両親を見ると、二人とも怒りの表情を浮かべて息子をにらんでいるが、ルドガーはまったく意に介していないようだ。
「今回のことでよくわかった。
ネリーに子どもがいれば他人から侮られることもない。
彼女の立場は安定したものになる」
「ですからそれは、ネルラさまご自身が産んだお子さまを……」
「ネリーに子どもを産ませるつもりはない。
子どもを産むのはお前の役目だろう。
俺には家族が必要だ」
私は耳を疑った。
この人は一体何を言っているのだろう。
「家族、とは?」
「父がいて母がいて、子どもがいる家庭をつくりたい。俺の家族を」
「あなたが父で、ネルラさまが母で?」
「そうだ」
「そしてその子どもは、私が産むのですか」
「そうだ。俺の子どもを産むのはお前だけだ」
面食らっているのは私だけではないようで、義父母も顔を見合わせて困った顔をしている。
義母が困惑した様子で口を開いた。
「ルドガー、家族ならもういるでしょう。
父はあなた、母はエリナさん、子どもはあなたとエリナさんの間にできたセドリック。
あなたはこの家族を大事にしていけばいいだけなのよ」
「母上、それはだめです。
それではネリーの居場所がない。
俺の家族はネリーの家族でもなければならないのです」
「いい加減にせんか、ルドガー!」
義父が肘掛を叩いて怒鳴ったが、ルドガーはまったく表情を変えなかった。
「なぜです?
生涯一人の女性を愛せとおっしゃったのは父上だ。
俺はお言葉の通り、ネリーを唯一の相手と決めた。
ネリーと子どもを育て、家族をつくるのは当たり前でしょう」
それ以上はとても聞いていられなくて、私は耳をふさいで勢いよく立ち上がった。
「もうたくさんですわ。
子どもは家族ごっこの小道具ではありません」
「家族ごっこだと?」
「そうです。ただのまやかしのお遊びです」
私は夫を見下ろしてきっぱりと言い切った。
「大人同士なら真実の愛を貫けばいいのでしょうけれど、子どもを育てるとなれば話は別です。
子どもは親の人生を輝かせるための小道具ではなく、その子自身の人生を歩んでいく独立した人格です。
その成長のために親は自分の我欲を抑えて、子どもをいちばんに考えてやらなければ。
そしてその子の個性に合った、いちばん良い道を示してやらなければなりません。
旦那さまはセドリックのことをまったく見てもおられないではありませんか。
親は子どものために、数十年も先を見据えて人生設計をしてやり、手をかけて育てていくのです。
現在のご自分とネルラさまのことしか考えられないのでは、未来を生きる子どもの親になどなれません。
ただ男女と子どもが寄り集まっているだけの集団は、家族とは呼べないのです。
そこに強い絆がなければ、それは見せかけの家族、おままごとの家族ごっこです。
そんなお遊びの道具にされるなんて、子どもが可哀想ですわ。
旦那さまが私のことを道具扱いなさるのはともかく、子どもはあなたがたの道具になどさせません」
ルドガーに真っ向から反抗するような物言いを、私はためらわなかった。
夫が、実の息子であるセドリックを切り捨てたことに対する怒りが、私の心中に満ち満ちていたのだ。
「あなたがネルラさまを守るとおっしゃるならそれもよろしいでしょう。
けれど私はセドリックの味方です。
たとえあなたに逆らうことになろうとも、私はあの子を守ります」
私はまっすぐ夫を見て告げた。
「私は母を早くに亡くし片親で育ちましたが、父アルバートは母のいない兄と私を心から愛し、立派に育ててくれました。
セドリックも私と同じように、愛情を注いで接していけば片親でも立派に育ってくれると信じています。
ですから旦那さま。
今後はどうかネルラさまのことだけをお考えあそばして、私とセドリックのことはご放念くださいませ」
私の言葉にルドガーは、わずかに顔をゆがませた。
低い声が返答する。
「そうしよう。お前が二人目の子どもを産んだらな」
「ルドガー、お前…っ!」
義父ベニートが激昂して立ち上がり、自分より背の高い息子の胸ぐらをつかんで引っ立てた。
「まだそんなことを!
お前の真実の愛とやらが、どれだけ家族に犠牲を強いてきたと思うのだ!?
フィンバースの黒竜と呼ばれ、フレイザー家の歴代当主の中でも、ザヴィールの盟約を果たすことのできる並外れた能力を持って生まれたお前が…!」
「父上」
ルドガーは義父に胸ぐらをつかまれた状態で、無表情に応じた。
「俺はザヴィールの器にも、器をこの世に生み出すための種馬にもなりたくありません」
「お前はっ!
代々盟約を守ってきたフレイザー家の当主を種馬と抜かすかっ!」
怒声とともに義父は息子を殴りつけた。
ふだん温厚な義父のそんな姿を見たのは初めてで、私は思わずヒュッと息を呑んだ。
心臓が早鐘を打ったように暴れだし、背に冷や汗がにじんだ。
父の鉄拳を受けたルドガーはよろめいたが倒れはせず踏みとどまり、血のにじんだ口元をぬぐって父親を見た。
その顔には表情がなく、抵抗するそぶりもなかったが、義父は気がおさまらないのか更に息子に手を上げようとした。
そんな義父の姿は、高熱を出しているセドリックを殴りつけた前世のルドガーを彷彿とさせた。
そして今まさに殴られようとしているルドガーはあの時の、12歳の少年だったセドリックを思わせて……。
「やめて!」
私は思わず大声で叫んでいた。
「やめて! もうやめて、その子を殴らないで!
誰か止めて!」
その瞬間、私の目の前を何かがサッと横切った。
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