領都での邂逅・6
昼間の騒ぎの後、カントリーハウスに戻ってきた私は、ナタリーにそっと耳打ちした。
「少し手首をひねったみたい」
するとナタリーは驚きもせずに言った。
「やっぱり…左手首ですよね?
ご様子がおかしいと思っておりました。見せてください」
「ナタリーあなた、気づいていたのね…」
私のことを知り尽くしている忠実な侍女に隠し事はできない。
私は左手の袖口のレースをまくって、レースに隠されていた手首をナタリーに見せた。
あの広場で、騎士団の騎士からセドリックをかばって地面に手をついた時に痛めたらしく、左手首は外側の関節部分を中心に赤く腫れあがっていた。
「こんなに腫れあがって…お医者様に診ていただきましょうか」
「大丈夫よ、一晩冷やして湿布をしておけば、明日にはだいぶ良くなると思うわ。
セドリックやお義母さまたちに心配をかけたくないし。
ナタリー、悪いけど、手当てしてくれる?」
「はい、エリナさま」
そう言うとナタリーはすぐに湿布と包帯をもらってきて、私の左手首の手当てを済ませ、さらに小さな氷嚢を私に渡して、包帯をした手首に当てさせた。
「こうやって冷やして、なるべく左手は動かさないようにしてくださいね、エリナさま。
なにか必要があればすぐに私におっしゃってください」
「わかったわ。ありがとう、ナタリー」
花祭り前夜であるその晩は、カントリーハウスの誰もが忙しくしていたせいか、私の怪我に気づく者はいなかった。
だが唯一セドリックだけは、眠る前の読み聞かせの時に私の左手の包帯に気づいた。
「怪我したの、母さま? 痛い?」
こわごわ包帯をさすりながら聞いてくる息子に、私は笑いかけた。
「大丈夫よ、大したことはないの。
すぐに治るから心配しなくていいのよ」
「本当?」
「本当ですとも」
「よかった。じゃあ一緒にお祭りに行けるよね、母さま?」
「ええ、ぐっすり眠って元気に目が覚めたらね」
右手でやわらかい頬をなでてそう言うと、セドリックは「うん!」とうれしそうに笑った。
そうして読み聞かせを始めるといつもの金色の魔力がきらきら降り注ぎ、セドリックはすぐに安らかな寝息を立て始めた。
息子が完全に寝入ったのを確認すると、私はカントリーハウスのセドリック付きの侍女に後を託して、子ども部屋からナタリーとともに退出した。
宿泊している客室に戻ると、室内には灯りがともされて、数人の侍女たちが立ち働いていた。
寝室の奥に設置された浴室のバスタブにはたっぷりとお湯が張られており、私は侍女の手を借りて入浴を済ませた。
身体を拭き乳香を塗ってから肌触りの良い夜着を羽織る。
カントリーハウスの侍女たちはみな下がっていき、残っているのはナタリーだけになった。
「エリナさま、お休みになる前に湿布を替えておきましょう」
「そうね、お願いするわ」
ソファで左手首をナタリーに預け、包帯を解いてもらう。
腫れはまだ引いていないが、痛みはだいぶやわらいでいた。
湿布を取り替えたナタリーに、私は「ご苦労さま。今夜はもう下がっていいわよ」と声をかけた。
「明日は花祭り本番だもの。早くベッドに入ってね、ナタリー」
「わかりました。それではまた明日の朝まいります。
おやすみなさいませ、エリナさま」
「ええ、おやすみなさい、ナタリー」
ナタリーが去って一人になると、しんとした静寂が訪れた。
私は知らず知らずのうちに、大きく息をついていた。
朝から休む暇もないほど、目まぐるしい一日だった。
それに思いもかけず王国騎士団に関わってしまったことがひどく気になった。
ルドガーの領分には足を踏み入れないようにしようと思っているのに。
明日からの花祭りの期間中も、なるべく義父母と行動をともにして、決して夫とは関わらないように注意しなければ。
でないとどんな言いがかりをつけられるかわからない。
セドリックの前で暴言を吐かれるのはいやだった。
部屋の灯りはすべて落としてあるが、バルコニーに面した大きな窓は開け放ったままで、そこから明るい月の光が差し込んでくる。
ウィロー砦で見た月は満月だったが、今夜の月はそれよりだいぶ細くなっている。
それでも美しい月を眺めたくなって、私はバルコニーに出た。
春の夜風が心地よく肌をなでていく。
庭園に目をやると、遠くから一騎、馬が走ってきていた。
馬上の人物はマントをはためかせ、まっすぐに邸の玄関に向かっている。
こんな夜更けに、誰だろうとは思ったが、それ以上は気に留めなかった。
しばらく月光を浴びて夜景を眺め室内へ戻ったとたん、強めのノックの音がした。
「エリナさま、ナタリーです。
まだお目覚めでいらっしゃいますか」
先ほど寝室へ下がったはずのナタリーの、緊迫した声がする。
「ええ、起きているわ。入っていいわ、ナタリー」
ナタリーは「失礼いたします」と部屋に入ってからすぐに扉を閉めた。
そして青い顔で私に告げた。
「ルドガーさまがおいでになったそうです」
「え?」
それではさっき庭園を走り抜けていった馬上の人影は、ルドガーだったのかと私は初めて気づいた。
「理由はわかりませんが、エリナさまを呼べとおっしゃっているそうで……」
「どういうことかしら。私には何が何だか」
ナタリーと二人うろたえていると、またコンコンとドアがノックされた。
「奥さま、イーディス大奥さまの侍女のカイサでございます。
大奥さまのお言葉をお伝えに参りました」
「お義母さまの?」
私はナタリーに目で合図して、部屋の扉を開けさせた。
扉の向こうに立っていたのは、このカントリーハウスの侍女長でもある義母付きの古参侍女カイサだった。
「夜分に恐れ入ります。
現当主のルドガーさまがいらっしゃっています。
奥方のエリナさまにお話があるということです。
ご夫婦のお話し合いには大奥さまと大旦那さまがお立ち合いになられるとのことですので、よろしければ第一応接室へお出ましいただけませんでしょうか」
「え、ええ、わかりました。でも着替えをしなければ」
顔を見合わせた私とナタリーに、カイサは硬い声で告げた。
「お休みになるところだったことは承知しております。
ですがお支度はお急ぎください、奥さま。
ご当主さまをあまりお待たせすると、奥さまのおられるこのお部屋までおいでになりかねないご様子なのです。
大騒ぎになれば、セドリック坊ちゃまが目を覚ましてしまわれるかもしれません」
それは困る、と思った。
ルドガーの思惑がなんであれ、セドリックを巻き込むわけにはいかない。
「わかりました。
すぐにそちらに向かうとお義母さまに伝えてちょうだい」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」
カイサは礼儀正しく挨拶をして、足早に去っていった。
私はナタリーに手伝ってもらって一応の身なりを整え、急いで一階の応接室へ降りていった。
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