兄の来訪・4
「ザヴィールウッドに行く前に寄るところがある」
そう言った兄に、私は反射的に聞いた。
「え? どこに?」
「ウィロー砦だ」
「砦?」
「ああ」
予想もしていなかった答えだったが、続く兄の言葉で納得がいった。
「砦の兵士たちは、花祭りに参加できないだろう。そんな彼らの慰問に行こうと思うんだ」
「そうなの。それは素晴らしいことだわ」
「それで、エリー、お前も一緒に来ないかと思ってね」
「私が? なぜ?」
「ウィロー砦近くにあるニーヴの柳は、精霊界へ通じる道の入口だと言われているのは知っているかい?」
「ニーヴの柳…」
黒の森は精霊の森で普通の人間は立ち入ることができないが、条件がそろえば魔力のない人間でも、黒の森に広がる精霊界へ行くことができるという。
そうした「入口」が、王国内にはいくつかあると言われている。
ウィロー砦近くのニーヴの丘にある大きな柳の木はそのうちのひとつで、「ニーヴの柳」と呼ばれるその大木の根元では、満月の晩になると「入口」が開くというのだ。
「ノナ・ニムの現れることもあるという柳の木?」
「うん、それだ。その柳の木は、僕らの母上マグダレーナ・リズリーが、ノナ・ニムの祝福を受けて祝ぎ歌の魔女になった場所なんだ」
「ええっ、そうなの?」
私は驚いて思わず身を乗り出した。
「そんなの今まで聞いたことなかったわ」
「エリーには教えようと思ってたんだけど、言いそびれていたね。
公表はしていないよ。僕は、母上の思い出の場所を、見も知らぬ他人に荒らされたくないからね」
兄の気持ちは私にも理解できた。
多くの人を歌の力で救ってきた母には、いまだに根強い信奉者がいる。
母のゆかりの地となれば、多くの人が詣でるであろうことは容易に想像がつく。
「エリー、僕が生まれた時は、母上はまだノナの魔女じゃなかった。
でもお前は、母上が祝ぎ歌の魔女になってから生まれたんだよ。
そんな母上の聖地へ、行ってみたいと思わないかい?」
私の顔をのぞき込むようにして兄が問いかける。
私は顔を伏せた。
私には、母の記憶はほとんどない。
かすかに耳に残っている子守唄のメロディーがあるだけで、それも母の歌なのかどうか定かでない。
母が娘の私をどう思っていたのか、今となっては知るすべもない。
それだけに、母にまつわる場所を兄と訪れるというのは、心惹かれる誘いだった。
「…行きたい。行ってみたいわ、お兄さま」
「そう言うと思ったよ」
兄は破顔した。
「だけど砦へセドリックは連れていけない。今のところ戦闘はないにしろ、カルセミアとの最前線だからね」
北方の隣国カルセミアとの国境を守るのがウィロー砦だ。
黒の森は人の立ち入る場所ではないので中立地帯だが、森の出口からニーヴの丘を抜けた東方の海岸までは、フィンバースとカルセミアの国境地帯で、かつてカルセミアの侵入を防ぐべく築かれた低い石の城壁が、海に接する岸壁まで延々と続いている。
今のところ平和条約が発効していて戦争状態ではないのだが、国境を守る砦である以上、やはり有事のことは念頭においておかなければならない。
セドリックのような小さな子どもを連れていける場所ではなかった。
「セドリックは一足先に、ザヴィールウッドのお義父さまたちのところへやりましょう。
この館にいる公爵家の護衛騎士と、ナタリーを付けてやれば安心だわ。
お兄さまはいつ砦へ発つの?」
「なるべく早く」
「それじゃあ明日、セドリックを送りだしてから出発しましょう。昼前には発てるわ」
「わかった」
兄はそう言って紅茶を一口すすった。私はふと兄にたずねた。
「でもお兄さまとターラは大丈夫? 今日ここへ着いたばかりなのに、疲れていない?」
「ターラのことは、砦の音楽会じゃなくて、ニーヴの丘へ連れてきたつもりなんだ。
ターラは喜んでいるし、疲れなんか吹っ飛ぶだろうよ。
母上がノナ・ニムに招聘されたときには、彼女も黒の森のノナ・ニムの神殿へ一緒についていったんだから、ニーヴの丘はターラにとっても思い出の地だ。
それにあそこは、黒の森の玄関口だ。
砦の音楽会では、僕はそっちにかかりきりになるし、ターラにはその間、久しぶりに故郷へ里帰りしてきたらいいんじゃないかと勧めているんだよ。
そういうわけで、僕とターラについては何の心配もいらないよ、エリー。
それより、問題はセドリックの方じゃないか?」
「え?」
「あの子は母親っ子だからね」
という兄の言葉も終わらぬうちに、
「母さま~!」
昼寝から起きたらしいセドリックが、大声で私を呼びながら駆けてきた。
兄の言った通り、この後セドリックに、ザヴィールウッドのお祖父さまの館へは、母さまと一緒にではなく先に一人で行くことになったと、なだめて納得させるのにはかなり骨が折れた。