砦の音楽会・4
そんな私の背後から、兄の弾くピアノが聞こえてきた。
それは昨日、森の館の音楽室で兄がセドリックと連弾していたあの曲だった。
思わずピアノの方を振り向くと、私をじっと見つめている兄と目が合った。
春の夜の闇をかがり火が照らし、濃い色の金髪がほんのり輝いて見える。
兄の奏でる旋律には心地よい魔力が宿っていて、兄本人もうっすらと光を放っているようだ。
兄が弾いているのは、セドリックのような子どもでも弾ける簡単な曲だ。
音楽会の演目に入れるような曲ではなく、追い出された観客たちが戻ってきて席に着くまでの間の手なぐさみに過ぎない。
流れるようにピアノを弾きながら、兄は私に笑いかけた。
「お前もおいで、エリー。セディだけでなくお前とも連弾したい」
「お兄さまったら…お客さまの前ですわよ」
「いいじゃないか。お前にもステージ前の肩慣らしさ」
客席はざわざわしていて、こちらを真剣に見ている観客はまだ半分もいない。
これなら私のつたない演奏でも大丈夫だろうと思い、兄の隣に置かれた椅子に腰かけた。
鍵盤に手を触れ、主旋律を奏でてみる。
兄はすぐに反応して、メロディーに合う伴奏を即興で、超絶技巧を用いて繰り広げてくれた。
音楽通の観客の中には兄の高度な技術がわかった人たちもいたようで、おお…という感心したような声がそこここに上がった。
「エリー、突然ステージに上げるようなことをしてすまなかったね。でも見ていられなかったんだ」
兄は鍵盤に目を落としたままで私に詫びた。私も鍵盤を見ながら答えた。
「いいえ、ありがとう、お兄さま。でも私…歌姫だなんて」
「実家にいたころは、こんな風にステージに立つこともあったじゃないか」
「それはそうだけど……」
思えばリズリー家ではしょっちゅう音楽家仲間の演奏会が開かれていた。
私はもっぱら演奏を聴く側だったが、兄は時々余興と称して私をステージに呼び、歌わせることがあった。
私自身に魔力はないが、私が歌うことで兄の演奏がより素晴らしいものになるというので、私たち兄妹の共演はとても喜ばれていた。
私としては、人前に立つことはあまり好きではないけれど、人々をつなぐ音楽を生業とするリズリー家の娘として役に立てるのなら、という気持ちで兄の無茶ぶりも受け入れてきてはいたのだが。
「内輪の演奏会ならともかく、こんな大勢のお客さまの前で歌うなんて……」
「最初の一曲だけでいいんだよ。あとはステージをはけて、楽屋にいればいい。ターラもいるし」
「そうは言っても、なんの練習もしていない私が飛び入りでステージに立ったら、他のみなさんが不快に思うんじゃないかしら」
「エリーの歌を不快に思うやつなんて、僕の楽団にいるわけがないさ。
それに、音楽卿の名にかけて、誰にも文句は言わせない」
兄は私の眼前を横切って超低音部のキーを叩き、一種不穏な旋律を奏でてそう言った。
そしてすぐにその変調パートを整え、通常の曲調に戻して私に提案した。
「ニーヴの丘で聞こえた母上の祝ぎ歌。あれをやりたいな」
「え?」
「あの時、エリーは母上の魔力と共鳴していただろう? それと同じようにすればいいんだ、僕も手伝うから。きっと素晴らしい演奏になる」
そう言うと兄は、連弾曲を終了させた。
そのころには観客はもう全員席についており、音楽会開始前の連弾曲終了にぱらぱらと拍手が起こった。
兄アルマンは立ち上がり、私の手を取って私のことも立ち上がらせた。
ステージの上ではすでにすべての演奏者が既定の位置について、マスターである兄の号令を待っている。
兄は私をステージ左端にあるピアノの横に立たせたまま一人で中央に向かい、準備万端ととのえた楽団員たちを見渡してうなずいてみせた。
そして観客席に向きなおり、ゆっくりと深く礼をして頭を上げ、両腕を広げて観衆に呼びかけた。
「ウィロー砦の兵士諸君。
フィンバース王国のために日々尽くしてくれてありがとう。
今宵はどうか、家族や親しい人たちと、楽しいひと時を過ごしてもらいたい。
音楽卿アルマン・リズリーの名のもとに、ここにウィロー砦の音楽会の開催を宣言する。
ノナ・ニムの加護のあらんことを!」
「ノナ・ニムの加護のあらんことを!」
兄の開会宣言に続いて、会場にいるすべての人がノナ・ニムへの祈りの言葉を唱和した。
音楽会の始まりだ。
兄は舞台裾のピアノのところへ戻ってきた。
緊張している私に夏空の瞳が笑う。
「エリー、自信を持って。母上の祝ぎ歌を受け継ぐのはお前しかいない。
僕の魔力を通じて、お前にあの時の記憶を伝えよう。
母上の心をお前も感じられるはずだよ。僕を信じて」
そう声をかけて私の手を取り、会場へ向かって手を広げてお辞儀をする。
兄と手をつないでいる私も、観客に向けて淑女の礼をした。
兄がピアノの前に座って私を見る。
私はステージ上の楽団員たちを見、そして会場へ視線を移した。
数百人もの人々が、兄と私の動向を見守っている。
気後れしないわけがなかった。
私には魔力がない。
母や兄のような音楽の才能もない。
音楽が好きで何年も研鑽を積んできたわけでもない。
このステージに立って、観客に披露できるような特別なものは何も持っていない。
尻込みしていると、いつのまにか兄の青い小鳥が一羽、私の肩に止まり、羽を震わせた。
そして、不意に私の耳に声が届いた。
(アル)
(母さまの歌が聞こえた?)
これはお兄さまが話してくださったときの声?
いいえ、女性の声だ。
お母さまの声だわ。
私、お母さまの声を聞くことができているんだわ。
兄が、私を励ますように言った。
「エリー、セドリックのことを思い出して。
あの子に歌ってあげるつもりで歌えばいいんだ」
(あなたに届けたかったのよ)
母の声が聞こえる。
幼い息子アルマンに向けた、愛情にあふれた声が。
そこに込められた母の想いが、今の私には痛いほどよくわかった。
私もまた、当時の母と同じく、幼い息子を持つ母親になったからだ。
ああ、セドリック。私のかわいい息子。あの子に愛を、祝福を届けたい。
そのために歌う祝ぎ歌なら、私も……。
私は大きく息を吸って、顔を上げた。
そして、胸を張り背筋を伸ばしてゆっくりと会場を見わたし、そこにいるすべての観客に呼びかけた。
「みなさま、ようこそおいでくださいました。
今夜は、みなさまのおうちで眠っていらっしゃる子どもたちのために、またかつて子どもだったみなさまご自身のために、兄と私に母が歌ってくれた子守歌を、ノナ・ニムに捧げたいと存じます」
ちらりと振り向くと兄と目が合った。
兄は微笑んで、ニーヴの丘で聞いたという母の祝ぎ歌を弾き始めた。
不思議なことに、兄はピアノを弾いているだけなのだが、その旋律に二重にかぶさるように、切れ切れに女性の歌声が聞こえてきた。
それが母の声だということは直感的にすぐに分かった。
幼かった兄がリズリー邸の音楽堂で聞いたという母の祝ぎ歌。
その記憶を兄は青い鳥の魔力を使って私に伝えようとしてくれている。
ただ私に魔力がないので、その記憶を完全な形で受け取ることができずにいるのだろう。
それでも切れ切れの母の歌声の端々に込められた祈り、愛する我が子を想う気持ちは十分に伝わってきた。
祝ぎ歌の中心を構成するのは、母が兄だけでなく私にも歌ってくれていたという子守唄。
私は、今頃ザヴィールウッドの祖父母の邸で眠りについているはずのセドリックに向けて、心を込めて歌い上げた。
ザヴィールの森は ノナの森
風は緑に 地は黒に
月のましろに 照らされて
あそべ愛し子 夢の野に
母の祝ぎ歌の旋律は平易で歌いやすいものだったが、兄が演奏するとその旋律は幾重にも響きあって複雑な軌跡を描きながらも、危ういぎりぎりの調和が保たれた奇跡のような音楽となって、青い小鳥の下ろした帳のなかにこだました。
そしてその旋律には兄の太陽のような魔力がふんだんに盛り込まれていて、あのきらきらした光の粒子が、まぶしくなるくらい大量に砦の中庭全体にあふれていた。
観客の中には魔力を持たない平民も多かったはずだが、誰もがその光につつまれて、しかもそれを認識できているようだった。
私と兄の演奏が終わると、会場から一切の音が消えた。
誰一人身動きもしない。
私は不安になって、振り向いて助けを求めるように兄を見たが、兄は微笑むだけで何も言わない。
すると突然、どっと会場全体を揺るがすような大歓声が湧きおこった。
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