砦の音楽会・3
ヨシュアが私のために用意してくれたバルコニーの特別席が、ルドガーに見つかってしまった。
私とティムとターラは青くなって顔を見合わせ、そそくさと退場しようとした。
だが時すでに遅かったようだ。
あれほど大勢いた人間が波が引くようににいなくなり、自分のまわりがすっと開けていく。
まるで身を守る盾を失ってしまったようだ。
「ルドガー兄上、お待ちください!」
制止するヨシュアを振り切って、ルドガーはこちらへ向かって大股で近づいてきた。
私は階段下でただ断罪の時を待つしかなかった。
数か月ぶりに会う夫は、妻である私をみとめて殺気に満ちた視線をよこした。
赤い瞳は地獄の業火のように、怒りに燃え上がっている。
「貴様、ここで何をしている」
地を這うような詰問の口調に、私はすくんで声も出なかった。
ルドガーは私の後ろにある階段と、階段の上に設けられたバルコニーの特別席を見た。
「なるほど……あの特別席は貴様のためか。
あれさえなければ、一般客のための席が数十席は確保できるのだぞ。
それを自分一人のために占領しようとは、公爵夫人の特権濫用もいいところだ。
砦の守備に何の貢献もしていないくせに、兵士の慰労のために催す音楽会を特別席で鑑賞しようとは、恥知らずにもほどがある」
私に対する夫の容赦のない譴責に、周囲がざわつく。
「まあ、あの女性、フレイザー公爵夫人だったの?」
「いやだわ、兵士の慰問のための音楽会にただ乗りするなんて」
「公爵夫人ならどんな音楽会にだっておいでになれるでしょうに、平民たちが音楽卿の演奏を聴ける一生一度の機会を奪うなんて」
「騎士団長の奥さまに無理強いされて、ヨシュアさまは断り切れなかったのね」
悪意と非難を込めたささやきがさわさわと流れていき、私は足元から冷たくなっていくような気がした。
ティムは私の隣で騎士団長に対して敬礼の姿勢を取っていて、助けにはなってくれなさそうだ。
けれどターラは、夫の剣幕に青ざめている私の腕を支えてくれた。
そこへルドガーを追ってきたヨシュアが現れて、私の様子を一瞥して眉を曇らせ、激昂する騎士団長ををなだめようとした。
「兄上、彼女は悪くない。これは僕の判断でやったことで」
「この女のことはお前には関係ない。引っ込んでいろ」
ルドガーは一喝してヨシュアを黙らせた。
そして私に向きなおり、さらに怒鳴りつけた。
「権力をかさに着て、兵士への慰問を自分の享楽のために利用するなど言語道断だ!
高位貴族に貴様のような不心得者がいては示しがつかん!
お前の役目は、子どもを産み育てることだろう。それを、子どもの世話もせずに、夜中に女一人で出歩いて音楽会とは、男あさりでもするつもりか?
フレイザー家の面汚しもいいところだ。
貴様のような女は顔も見たくない! とっとと出ていけ!」
夫はあらんかぎりの罵声を浴びせ、まっすぐ会場の出口を指さして私をにらみつけた。
そんな夫の背後から、何百もの好奇の目が私に向けられている。
「子どもの世話もせずに、男あさり?」
「いくらご主人に相手にされないからって…ねえ?」
「それにしてもあそこまで言われるなんて…」
「もしかすると音楽会へ行くようなお金ももらえていないのかしら」
「ご主人を愛人に取られていらっしゃるから…お気の毒」
「負け犬…」
驚きと憐れみと他人の不幸を喜ぶ意地の悪さの混じった視線に、居たたまれないという思いはとうに臨界点を越えていた。
血を流しすぎた心はもう痛みも感じることはなく、私は涙すら出なかった。
何も考えられずただ石になったように立ちつくしていると、ふいに清涼なピアノの音がした。
ポー…ン…。
さながら邪気を払うように軽やかに1つの音が響くと、それに伴って小さな青い小鳥たちが中庭の上空に飛び立った。
小鳥の羽ばたきの後には金色の光の粒子が散らばり、それが中庭を、そして砦全体を、薄い膜のように包み込んだ。
ステージの上で、ピアノの前に兄アルマンが座り、やわらかく短い旋律を奏でた。
青い小鳥はまた飛び立って、今度は会場の来客たちの頭上へ金の粒子を降らせ始めた。
その美しさに感嘆している来客たちに、ピアノの前に起立した兄アルマンは極上の笑顔を向けて、私の方へ手を伸ばした。
「みなさま、ご紹介いたします。今夜の歌姫、僕の妹エリナです」
突然の兄の言葉に、ルドガーは目をむいた。会場全体が大きくどよめく。
私は思いもかけない事態の急展開に、先刻までの胸の痛みも一瞬忘れて兄を見つめた。
アルマンは、太陽神とうたわれるにふさわしい光り輝くオーラをまとって、私に向かって両手を広げた。
「おいで、エリー!」
そうほがらかに呼びかける兄は、まるで太陽そのものだ。
一点の曇りもないそのまぶしい笑顔に引き寄せられて、私は魂を失くした人のように、ふらふらとステージに向かって歩き出した。
「おい…!」
ルドガーの声が聞こえたが振り向かなかった。
これ以上、夫のそばにはいたくない。私の心が死んでしまう。
私は救いを求めて、衆目にさらされていることも忘れステージの上で、私を迎えてくれた兄の胸に飛び込んだ。
兄の腕のぬくもりにようやく保護された気がして、私は深く大きく息をついた。
うつろな気持ちで何も考えられずにぼうっとしている私を抱きしめて、兄は耳元で
「安心おし、エリー。大丈夫だよ」
とささやいた。そして力強く私の肩を抱いて、会場の観客たちに向きなおった。
「みなさま。さきほどこの会場に、僕の小鳥が帳を下ろしました。どうぞお席におつきください」
兄の呼びかけを聞いて、ヨシュアや騎士たち、来客たちも、ルドガーの顔色をうかがった。
騎士団長は苦い顔で沈黙している。
「フレイザー騎士団長閣下」
兄は不自然なほど礼儀正しく、観衆の面前でルドガーに呼びかけた。
「今宵の音楽会、今この帳の中においでの方は、すべてこのアルマン・リズリーが、音楽卿の名の下にご招待した大切なお客さまです。誰一人として、追い出されては困ります」
わっと歓声が上がり、大きな拍手が湧きおこった。
騎士団長の命により一般の客を追い出そうとしていた兵士たちは、まわりをきょろきょろ見まわしてうろたえている。
兄アルマンは余裕の笑顔で、観衆に向けてすっと腕を上げ、そしてゆっくりと下げた。
「静粛に」という合図である。会場はぴたりと静まり返った。
「それから、騎士団長閣下。ここにいる我が妹エリナは、本日の招待客ではなく、演者です。
妹は、僕の歌姫としてこの音楽会に来ているのです。彼女のことも、追い返されては困ります」
またもやわあっと歓声が上がった。
ルドガーは腕組みをして不機嫌な表情でこちらをにらんでいる。
ヨシュアがその隣で、騎士団長をなだめるように一生懸命なにか話しかけている。
ティムの魔力はもう私に届いていないので、ルドガーとヨシュアの会話の内容は聞き取れなかった。
だがおそらくヨシュアが、兄アルマンの要求を呑むようにルドガーに取りなしてくれているのだろうということはわかった。
しばらくして、ヨシュアの説得が功を奏したのか、ルドガーが会場中に通る声で宣言した。
「……いいだろう。こと音楽に関しては、音楽卿の命令は王命と同じ。貴君の要請を受け入れ、俺もそれに従おう」
わっ、と歓声が起こり、一気に会場の空気が明るくなった。
会場から追い出されかけていた人々は、もともといた席へ足取り軽く戻っていく。
離れ離れになった兵士とその家族がふたたび一緒に席に着くことができたのを見て、彼らだけでなく私もほっとした。
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