砦の音楽会・2
「フレイザー騎士団長がお見えになりました!」
その伝令をヨシュアの横で耳にして、私は血の気が引いた。
「団長が?」
見るとヨシュアも、どうやらこの事態をまったく想定していなかったようだ。
「どういうことだ。そんな予定は聞いていないぞ」
「はっ、どうやらザヴィールウッドの視察の前に立ち寄られたようです」
「事前の連絡もなしにか」
「そのようです」
ヨシュアは盛大にしわの寄った眉間に手を当ててため息をつき、
「ご苦労だった、下がっていい」
と伝令の兵士を下がらせた。
いつしか場内には、先刻までのうきうきした空気は影をひそめ、どこかしらピリピリとした緊張感が漂っていた。
そんな中、1階ホールから中庭へ入るあたりから大きなどよめきが起こった。
通路にいた大勢の人々が次々と端に寄り、貴賓が通るための道を開ける。
そうやって潮が引くように人のいなくなった通路を、ひとり傲然と歩いてくるのは、背の高い黒髪赤眼の騎士。
王立騎士団長のマントと肩章を確認するまでもなく、私の夫ルドガー・フレイザーその人だった。
「エリー、ちょっとここで待っていて。ティム、彼女を頼む。僕は団長に挨拶してくるから」
ヨシュアは小声で指示を出すと、私たちをバルコニーへ続く階段の入口に残し、ルドガーの歩いてくる中央通路へ早足で向かっていった。
「マダム、どうぞこちらへ」
ティムは人込みを避け、私とターラを壁際に誘導し、自分は階段の手すりの前に立って私たちを人波から遮断してくれた。
そして私に「失礼」と言ってぱちんと指を鳴らした。
するとそこには、音に乗って何かの魔力の気配が生まれた。
血のつながった兄の魔力でできた青い鳥だけは見えるものの、魔力のない私には基本、魔力でつくられたモノの姿かたちは見えない。
だからティムの魔力の形状は私には見えなかったが、魔力を持つ黒の森の民であるターラは、ティムが上向けた彼の手のひらを見て、
「まあ、かわいい白ねずみだこと」
と感嘆した。
「音楽卿のようにはいきませんが、僕も音の魔力を少し操ることができます。
ヨシュア兄上と僕とは主従のつながりがありますから、兄上が拒絶さえなさらなければ、僕の魔力を兄上につなげて、ヨシュア兄上のお耳に入る音や声を僕もこちらで聞くことができるのです。
兄上をお守りする従者として、とても役に立つ能力なのですよ。
声の聞こえる空間に、お二人も入れてさしあげましょう。
フレイザー団長とヨシュア兄上との会話を、お二人も聞くことができますよ」
ティムが地面に向かって「行け!」と小声で指令を発すると、ターラが
「ちい嬢さま、白い小ねずみが長い糸を引っ張って、ヨシュアさまたちの方へ走っていきましたよ」
と私に教えてくれた。
ほどなく私の耳に、遠く離れた中央通路にいるはずのルドガーとヨシュアの声が聞こえ始めた。
二人の姿は来客たちの陰になってこちらからは見えないが、彼らの交わす会話は私たち三人に聞こえている。
ティムは右手の掌を上に向け、時おり指を鳴らしていた。
ターラの言う「白い小ねずみ」を操作しているのだろう。
遠目に小さく、騎士団長と司令官の向かい合う姿が見えた。
ティムの小ねずみを通じてか、ヨシュアの穏やかな声が聞こえる。
「ルドガー兄上、ようこそおいでくださいました」
「ヨシュア・エイレル。これはどういうことだ」
ヨシュアと正反対に、ルドガーの声音は冷ややかだった。
あたりをじろりと睥睨する騎士団長の圧倒的な威圧感に、音楽会の開会を待っていた人々の喧騒は消え、高揚が一気に冷めて会場は静まりかえっていく。
そんな中で、抑揚のないルドガーの声が無機質に響いた。
「いったい何の騒ぎだ? この砦はカルセミアとの最前線基地だぞ。この浮ついたざまはなんだ」
「カルセミアの竜騎士団は、この砦の周辺からは何年も前に撤退しています。それに、砦の結界のレベルは最大に上げてあります。警戒は怠っていませんのでご安心ください。
今日は、音楽卿が我が砦の守備隊のために、慰問に来てくださっているのです。
ザヴィールウッドの有名な花祭りに参加できない兵士たちに向けた音楽会です。
そのことは、騎士団上層部にもきちんと報告していますし、兄上の許可もいただいたはずですが」
「俺が許可したのは砦の兵士たちへの慰問だ。ここにいる者の大半は兵士ではないだろう」
「ですが、兵士たちにも家族がいます。この音楽会は、ふだん離れて暮らしている兵士たちの家族をもねぎらう意味もあるのです」
「兵役に従事する当事者とその家族とは別だ。慰問の対象者とそうでない者との境界は明確にしておかなければならん」
ルドガーはぴしゃりとヨシュアの弁明を切り捨てた。
「慰問音楽会は兵士としての責務を果たした者に対する褒賞だ。
兵士の家族だからといって、当然のように参加させていいわけがない。
見ろ、この会場の人混みを。
これほどの人数を砦の中に収容して、万が一この中に敵がまぎれていたらどうするつもりだ」
「それは…」
ヨシュアが言葉に詰まった。
周囲はみな、事の成り行きを固唾をのんで見守っている。
「しかし兄上。兵士たちの家族ですから、みな身元は確かです。不審者は結界が弾くはずですし」
「どうだかな。とにかく、慰問音楽会に招待されるのは砦の守備隊の兵士だけだ。
それ以外の者は参加できない。今すぐ退去させろ」
「そんな、今さら…!」
ヨシュアの声が聞こえるとそれをかき消すような勢いで、周囲の来場客から抗議の声が噴出した。
「横暴だわ!」
「ずっと前から楽しみにしていたのに」
「はるばる遠方から来たんだぞ」
怨嗟のうねりが会場全体を覆っていく。
だがルドガーは一切譲歩しなかった。
「これは規則だ」
そう言い切ると砦の兵士たちに命じて、兵士以外の来客を一斉に中庭の外へ追い出し始めた。
武装した兵士に強いられて、来客たちは不満をあらわにしながらも、のろのろと通路へ出て会場の外へ向かい始める。
ティムの魔力を通じて私たちには、ヨシュアが必死にルドガーに食い下がる声が聞こえた。
「ルドガー兄上、もうすぐ開演の時間だ。
今から客席の移動などしていたら、せっかく来てくれた楽団員たちにも迷惑がかかる。
今日のところは目をつぶってくださらないだろうか。
そうだ、兄上も我々と一緒に音楽会を楽しまれてはいかがです?」
「俺は音楽など……」
ルドガーの言葉はそこで途切れた。
短い沈黙の後、騎士団長は低い声で砦の司令官に問うた。
「ヨシュア。お前もこの音楽会を鑑賞する予定なのだな」
「え…ええ。僕は一応この砦の最高責任者ですし」
「だから自分のために司令官用の特別席も用意したというわけか」
「は、はい、それは…」
「あのバルコニー席だな。急ごしらえのようだが、席は二つあるようだ。
お前の他に、ウィロー砦の司令官と同格の特別席に座るのは誰だ?」
「……!」
ヨシュアが息を呑むのが私たちにも伝わった。
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