祝ぎ歌のわたる丘・3
「下りになっているから気をつけて、エリー」
兄が私に差し出してくれた手を取って、おそるおそる斜面を降りていく。
その途中に大柳の根元があり、太い根が何本もしっかりと斜面に張っていた。
丘の斜面の終着点には小川が流れていて、根の何本かはその岸辺まで届いていた。
「この川は黒の森から流れてきていて、この先のウィロー砦に続いているんだ」
兄の言う通り、小川の上流には森があるのが見えた。
これもあの黒の森なのか。私の住んでいる館の近辺からここまで続いているとは、フィンバース王国を支えているだけあってさすがに大きな森である。
ニーヴの柳の横の斜面には、人が通ってできたのであろう道がついている。
私たちはその道を通って、岸辺に降り立った。
下から見ると、降りて来た時には気づかなかった木の空洞が見えた。
そこにはたくさんの花が供えられていて、茶色くしなびているものだけでなく、まだ新しい色鮮やかなものもあった。
中にはカードや、小さな人形なども見える。
ニーヴの柳がこの地に住む人々の信仰を集めていることが感じられた。
岸辺に立って根元から見上げると、大きな柳の木は何千本もの枝をしだれさせて、春の風に躍らせ細い葉を舞わせている。まるで私たち兄妹を手を広げて歓迎しているみたいに。
「満月の夜には、この柳は根っこを地面から引き抜いて、足の代わりにして歩き回るんだそうだよ。想像するとおかしいけどね」
岸辺に向かい斜めに生えた幹に手を這わせ、兄がそう言って笑った。
「まあ、この柳が歩き回るかどうかはともかく、満月の夜はこの木の根元に精霊界への道が通じるんだそうだ。母上はその道を通って、ノナ・ニムのところから人間界へ帰って来たらしい」
「そうなの。ターラも一緒に?」
「いや、ターラはリズリー家の音楽堂から精霊の道を通って、ノナ・ニムの住む古代樹の森まではついていったらしいんだが、その後母上は森の神殿の中にお一人で入っていかれたんだそうだ。
それでターラは、自分だけ一足先にリズリーの音楽堂に戻って来たらしい。
それから何日か経った満月の夜、ノナ・ニムの祝福を受けて黒の森の魔女となった母上は、このニーヴの丘へ帰ってきた。
そしてこの丘で、ノナ・ニムを讃える祝ぎ歌を歌ったそうだ」
兄はいつくしむように柳の幹をなでた。
「それまでも母上は素晴らしい歌い手だったけれど、その晩の母上の祝ぎ歌は、この世のものとは思われないような、天上の音楽そのものだった。
その歌はニーヴの柳を通してノナ・ニムにも届き、おそらく精霊界全体にも響いただろう。
僕は7歳だった。
後でわかったことだけど、そのとき母上のお腹には、お前がすでに宿っていた」
兄のその言葉に心臓がどくん、と波打った。
なんだろう?
「母上の歌は精霊の道を通じてリズリー家の音楽堂にも伝わってきた。
僕もその歌を聞いたよ。
真夜中だったけれど不思議な感覚で目が覚めたんだ。
何かに引き寄せられるように音楽堂へ行ったら、父上や使用人たちや内弟子や楽団員や、みんなが集まっていた。
音楽堂のまわりで満月を仰ぎながら、誰もかれも涙を流して母上の祝ぎ歌に聞き入っているんだ。
それを見て僕も、自分が涙を流しているのに気がついた。
悲しい涙じゃない。だからってうれしい涙でもない。
ただただ、母上の歌に共鳴して魂が震えているというだけの、感動の涙なんだ。
あんな涙を流したのは、後にも先にもあの夜だけだ。
祝ぎ歌が終わると、みんなが恍惚となっている中で、ターラがいち早く我を取り戻した。
『マグダレーナさま!』
そう叫ぶと、涙でぐちゃぐちゃの顔をぐいっと拭って、音楽堂の祭壇にひらいた精霊の道へ飛び込んでいったよ。
余韻に残っていた祝ぎ歌の魔力の源をたどっていったら、ニーヴの柳へたどり着いたんだそうだ。
そこでターラは母上を見つけた。
しばらくして、母上を連れてターラが精霊の道から戻ってくると、途端に音楽堂に開いていた入口はふさがってしまった。
母上は疲れて少しぐったりしていたけど、お元気だったよ。
僕を見てにっこりして、『アル、母さまの歌が聞こえた?』と聞いた。
僕が『聞こえたよ』と答えて母上に抱きつくと、僕をぎゅっと抱きしめてくださって
『あなたに届けたかったのよ』とおっしゃった。
それから父上が優しく母上を抱き上げて、寝室へ連れて行った。
母上はすぐ眠りについて、その後三日間目を覚まさなかった」
兄は遠い目をしてニーヴの柳を見上げた。
「ああ、この場所にはあの時の記憶が残っているね。母上の歌が聞こえるかい、エリー」
目を閉じて胸に手を当てる兄は、少年のような顔で幸福そうに笑みを浮かべている。
耳を澄ませてみても、私には母の歌は聞こえなかった。
ただ耳元を吹き抜ける風に誘われた気がして、私はそっと記憶の中にある歌を口ずさんだ。
ザヴィールの森は ノナの森
風は緑に 地は黒に
月のましろに 照らされて
あそべ愛し子 夢の野に
歌い終わったとたん、私の周囲が一瞬パッと明るく光った。
驚いて目を見張ると、光は消えて、空中にきらきらと金色の粉のようなものが舞っていた。
「お兄さま、これ…」
私と同様驚いているらしい兄に向かって当惑した声を出す。
いったい何が起こったのか。
「エリー、お前、母上の歌が聞こえたんだね」
うれしそうに笑いかけてくる兄に戸惑い、「いいえ」と否定した。
「私はただ、自分の覚えているたった一つのお母さまの歌を口ずさんだだけよ」
「母上の子守唄だね。僕にもお前にもよく歌ってくださっていた。
母上の祝ぎ歌の中にはその旋律も含まれていたんだ。
さっきのあの光、あれはこのニーヴの丘の記憶に刻まれていた母上の歌と、娘のお前の歌声が共鳴した証だろう。
ほらエリー、まだ空中に浮かんでいる、きれいな金色の魔力が見えるかい?
母上の歌にはこの魔力が宿っていたんだよ。
お前の歌が今、この丘に残る土地の記憶からそれを引き出したんだ」
「そんなことがあるのかしら。私には魔力がないのに。
お母さまの歌も、私には聞こえない」
なんだか少しすねたようなことを言ってしまった。
兄は困った顔をした。
「精霊の世界のことは僕にもよくわからないけど、魔力がなくても、お前にもさっきの光や、この金色の魔力の粒子は見えるんだろう?」
「そうね、見えるわ」
「これは母上の魔力だよ。お前も小さいころは見ていたはずだ。もう覚えていないかもしれないけどね」
「ええ、でも…」
母の魔力は覚えていない。けれど私は、この金色の魔力を知っていた。
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