7.あなたの隣で
7話目です。全8話。
小さな荷馬車を、一頭の馬が引いている。
それなりに整備された路の揺れは心地よい。規則的な振動に身を任せながら、わたしは周囲に人がいないことを確認してフードを下ろした。
冷涼な風が気持ちいい。ずいぶん髪を短くしたから首筋が少しばかりスースーしているが、それすらも新たな門出を祝福してくれているようだった。
御者台から真っ直ぐに伸びる路を眺めながら、わたしはなんでもないふりをして隣の幼なじみに肩をぶつけた。
「お城、大丈夫かなぁ」
「大丈夫だろ、気づかないよ」
何でもないような顔をして手綱を握るレナルドは、あんな大胆な作戦を考えたとは思えないほどにひょうひょうとしている。
そう。こんないつも通りの顔をして、彼は「神樹の神子」を見事に殺して見せた。
神樹の娘は、死すとその身体は若木となる。そしていずれ、国を潤す神樹となる。
そんな話をどこからか仕入れてきたレナルドは、今回も同じ未来をたどるのであれば「イリスティア・サリニャック」を殺そうと言った。一度目を踏まえて慎重に行動してもなお同じ結果になるのなら、それはこちらが手を出せない高位貴族の意思が働いている証拠だからと。
貴族のわたしなんて、わたしには必要ない。だからわたしは一も二もなくレナルドの作戦に乗った。
一度目のレナルドがどこで殺されてしまったかはわからないが、連絡が遮断される事はわかっていた。だからレナルドは居場所を特定できないように宿に泊まったり野宿をしたりと拠点を変えて生活するようになった。その上で、必要な時は卵の納入業者に扮して学院に来てくれて、他の人の手紙に紛れさせて管理人室に届けてくれた。女子寮の管理人が黒幕に抱き込まれている可能性も考えていたが、どうやら管理人室には黒幕の手が及んでいなかったらしく、あっさりと手紙を受け取れるようになったのは幸運だった。
前よりもさらに控えめにして、必要以上におどおどせずに第二王子からの接触はきっぱりと断る。それを実行していてもなお前と同じように進んでいく現状を報告したら、レナルドはすぐに作戦の決行を決めた。
一度目でわたしが軟禁された、学期末のパーティ。その直前が、わたしが抜け出せる最後のタイミングだ。パーティの準備で生徒皆が浮ついていたし、比較的全体の警戒も緩んでいる今しか、学院を抜け出す事は出来ない。
レナルドが利用したのは、学院の植栽――樹木や草花の定期手入れのタイミングだった。
植栽の一部は、学生のいない夜間に作業が行われる。レナルドは植栽の業者であるオルソンさんに頼み込んで、期末パーティ直前に学院にやってきた。
深夜、わたしの部屋の下まで来てくれたレナルドが用意してくれた縄を伝って、窓から降りる。もちろん、それらしい「遺書」を用意するのも忘れずに。靴は窓際に残して、さもここから飛び降りました、と言わんばかりの演出をする。育ちのいいお嬢様ばかりのこの学院で、裸足のまま窓から逃げ出したとはまず思わないだろ、と飄々と言ったレナルドの言葉通り、ちゃんとごまかせているといいのだけれど。
そしてレナルドは持ち込んだらしい若木を手早くその場に植えると、わたしが頭につけていたリボンを抜き取ってその枝に巻き付けた。時間が戻る前はしていなかったけれど、今回はことさら強調するようにつけ続けたリボン。「イリスティア・サリニャックといえば薄緑のリボン」という印象を周囲に与えられるように、ちょっと場にそぐわないかな、という時でも着け続けていたそれは、若木が「神樹の娘」であると誤認させるためのもの。
手早く処理を終わらせた後は、オルソンさんたちに混じって植栽の手伝いをし、夜間のうちに学院を出る。急に増えたわたしにオルソンさんは気づいていたと思うけど、何も言わずに片手を上げて見送ってくれて、それが涙が出るほどに嬉しかった。
「オルソンさんも大丈夫かな。ばれないかな?」
「ばれないし、ばれても何の罪になるんだよ。オルソンさんは仕事をしただけだ」
彼らに累が呼ばないよう、何も言っていないと。迷いなくレナルドが言うので、きっと大丈夫なのだろうと思う。これだけ先が読めるレナルドだ、わたしが思いつく程度の事なんて対策済みだろう。
つくづく、レナルドがいなければ今回も前と同じように殺されていただろうな、と思う。どれだけ頑張っても規定事項のように進んでいった今回の流れを思い出しながら、わたしはぐぅっと身体を折り曲げて膝に肘をついた。
「まさか、公爵家のお嬢様が黒幕だったなんて……誰もわたしの話なんて聞いてくれないはずだよねぇ」
頬杖をついてため息を吐いたわたしに、うん、と無言のままレナルドが頷いた。
本当に、シェリーナ様がわたしを、というよりリュミエラ様を陥れようとしたなんて。一度目の時はあんなに優しく気遣ってくださっていたのに、貴族って本当に怖い。
シェリーナ様だって、何もしなくても王子妃だ。第一王子はいずれ臣籍に降りたかも知れないけど、それでも公爵夫人。生家だって十分高位なのにそれ以上の地位が欲しくて、そのためには無実のわたしもリュミエラ様も陥れて殺したっていいと思ってるなんて、本当に高貴な人の考えることはよくわからない。
一度目の終わりを考えると、あの後も全てが彼女の思い通りに行ったかは怪しいけれど。リュミエラ様の事がきっかけで隣国との仲がこじれれば、第一王子が王となっても国の行く末には暗雲が立ちこめる。一度リュミエラ様を陥れてしまえばもう自分の脅威ではないと思ったのかも知れないけど、優秀な人はどんな境遇でも立ち上がるから、どのみちシェリーナ様の破滅は免れなかったかも知れない。
まぁ、それもすべて今はどうでもいいこと。今の、そしてこれからのわたしにとって、大事なことはたった一つ。
「……レナルドは、よかったの?」
「何が」
「全部、捨てさせちゃったよ」
真っ直ぐに前だけを見ている幼馴染みを横目で見ながら、ぽつりと呟く。レナルドは、少しだけ目を大きくした。それは彼が驚いている時の仕草で、わたしは彼の優しさに打ちのめされた心地になる。
レナルドは、いつもこうだ。わたしのために被った不利益を指摘すると、そんなこと思いつきもしなかったって顔をする。賢い彼がその不平等な天秤に気づかないはずがないのに。
「レナルドは街でも信用されてたし、バルニエ先生だってレナルドなら孤児院を継がせてもいいって思ってたよ。……全部捨てて、本当によかったの」
決してレナルドを責めたいわけじゃないのに、言葉が止まらない。
きっと、これはわたしの後ろめたさ。何でも出来て皆から期待されていたレナルドに全てを擲たせてしまった後悔。
本当はレナルドをおいてわたし一人で逃げ出すことだって出来たはずなのに、一緒に行くというその手を取ってしまった自分への嫌悪。
レナルドはいつだってわたしのことを考えてくれるのに、わたしはレナルドの幸せを一番に考えられているだろうか。その問いの答えが見つからなくて、胸の奥が詰まる心地がする。
ちらりと、レナルドが目線だけでわたしを見た。きっと情けない顔をしていたのだろう、少しだけ笑ったレナルドは、「イリス」といつもの声音でわたしの名前を呼ぶ。
「なんだ、俺と一緒じゃ嫌だったのか?」
「そんなわけないッ!」
きわめて軽い調子で言われた言葉に、とっさに大声が出てしまった。
まさかレナルドと一緒が嫌なんて、冗談でもそんなこと言わないで欲しい。レナルドと一緒にいたいけど、それがレナルドのためにならないんじゃないかって悩んでいるって言うのに。
わたしのあまりの剣幕にか、「うぉ」と小さくレナルドが声を漏らす。そのそんなに大きな反発は予想していませんでした、という反応になんだかむっとしてしまって、わたしはたたみかけるように「そんなわけないよ!」と大きな声を上げた。
「レナルドが一緒ならどこだっていい、何だっていい! レナルドが一緒じゃなきゃ嫌だよ!」
「じゃあいいだろ。俺も同じだよ」
もはや怒っているような勢いで詰め寄ったわたしだったけれど、まったく動揺の見られないレナルドの言葉にぴたりと止まってしまった。そう、パンパンに膨れた紙袋から空気を抜くように。
おれもおなじだよ。その言葉の意味が染みこむにつれて、じわじわと顔に血が上っていくのを自覚する。
おなじ、なのかな。
わたしがレナルドと一緒にいたくて、それが幸せだと思うように、レナルドもわたしと一緒にいたくて、それが幸せだと思ってくれているのだろうか。
だとしたらとても嬉しいことだけど、でも。
頭の中をぐるぐると、レナルドに会いたくて泣いてばかりいた日々が回る。どんな目に遭ってもレナルドさえいれば乗り越えられると、そう強く思っていたわたしと同じ熱が、レナルドにもあるのだろうか。
「……お、同じ、なの?」
「同じだよ」
「ほ、ほんとかなぁ」
そう思ったら、なんだか期待と疑いが混じってしまって。
視線を足下に戻してもにゃもにゃと歯切れ悪く呟いたわたしに、隣のレナルドがかすかに笑う気配がした。
その余裕に、やっぱり手のかかる妹的な感情なのでは、だとしたらそれはわたしからレナルドへ向けるものとは違うのだけど、と思う。なんとなくむっとしてしまったわたしに、しかしレナルドはひどく穏やかな声でもう一度「同じだよ」と言って。
「イリスがいる場所が、俺の生きる場所だ。俺はイリスに惚れてるから」
「!!」
まるで、当たり前のように。
朝になれば月が眠りについて太陽が生まれてくるように、吹き抜ける風が世界を渡ってまた帰ってくるように、わたしの彼への思いが、何度世界を繰り返しても喪われることのないように。
何の気負いもなく告げられた言葉は、理解するのにしばし時間が要った。具体的には、思わずレナルドの方に視線を戻して、ゆっくり瞬き五つ分。
そしてその意味を理解した瞬間、じわり、と、心臓から上った熱が顔を真っ赤に染めるのを自覚した。
「ほ、ほれてる、って、す、すきって、こと?」
「恋愛的な意味でな」
「ひぇええッ!」
混乱したまま震える声で確認したわたしに、レナルドはまたさらりと核心を突いた。まさかレナルドの口から「恋愛的な意味でイリスが好き」なんて言葉が聞けるとは思ってなくて、自分でも驚くほど変な悲鳴が漏れてしまった。
そんなわたしにレナルドは珍しく「ふはっ」と吹き出して、その切れ長な榛色を細めて笑う。いつもなら真剣なんだから笑わないでと怒るところだけど、その笑顔があまりにも嬉しそうで、幸福そうで。
喉がぎゅっと締まって、声が出ない。ぼんやりとただただ彼を見つめるだけになってしまったわたしに、レナルドは不意に馬車を止めて、わたしを見て。
「好きだよ、イリス。おまえが俺の事を必要だと言ってくれたあのときから。俺の人生は、イリスのためだけにある」
そう、言った。穏やかな、だけれど確かな重みを持った声音で。
それは、乾いた土に水が染みこむようにすんなりとわたしの中に入ってくる。だって、わたしもずっと同じ事を考えていたから。
好きだよ、レナルド。
十年以上少しずつ積み重ねてきた思いは、まるで溶けない雪が降り積もったよう。わたしの人生は、レナルドと共に在るために使いたい。
レナルドの左手に、そっと触れる。年を重ねていつの間にかわたしのものよりずいぶん大きくなっていたその手は、男性のものだ。
イリスティアだった頃、何度か他の男の人に手を取られる機会があったけれど、こんなにも安心して、こんなにもドキドキする手のひらをわたしは他に知らない。
皮が固くて、傷だらけで。短く切りそろえられた爪には、少し土汚れがついていて。昔負ったやけどの跡が、あざになって残っている。貴族の人たちの手は白くて爪も整えられていて柔らかだったけれど、わたしはレナルドの手こそが世界で一番きれいな手だって、そう思う。
そしてその手に触れられる幸福を噛みしめながら、すぅっと息を大きく吸って。
「……あのね、レナルド。あのね……」
「うん」
噛みしめるように、一言ずつ。頭の回転が速くないわたしは、心の内を言葉にするのもゆっくりだ。それでもわたしをじっと待っていてくれる彼への思いを、なんとか少しずつ形にする。
「わたしもね、ずっと……ずっと、レナルドだけが好きだったよ。死ぬ直前まで、レナルドの事だけを考えてた」
あの華やかな、だけれどわたしにとって監獄でしかなかった貴族社会。
イリスティアと呼ばれたわたしは、いつだってイリスに戻りたくて泣いていた。レナルドが隣にいてくれた「イリス」は、きれいなドレスを着た「イリスティア」よりずっとずっと幸せだったから。
レナルドを助けられたことには感謝していたけど、それでもこんな力はもう要らないと何度思ったことか。「神樹の娘」の力さえなければレナルドの隣に帰れるのなら、すぐに誰かに渡したかった。不自由はレナルドを助けた代償だと思えば我慢できたけど、それでも苦しくてさみしくて悲しくて。
一度目に死んでしまう前、こんなことになるなら逃げ出してしまえば良かったと、思った。途中で捕まってしまってもいいから、逃げれば良かったと。
そうすれば、最後に一目レナルドに会えたかもしれないって。ちゃんと言えなかった気持ちを、伝えられたかもしれないって。
だからこうしてやり直しの奇跡を得られた今、ためらう理由なんて一つもない。
「レナルドがいてくれるなら、それだけでいい。なんだって頑張る。だから、だから……」
わたしの言葉はずいぶんと鈍くて、ずいぶんとつたないものだった。だけどレナルドはやっぱり急かすことなく、静かにわたしを見つめてくれている。
ああ、こういうところが好きなのだと、自然と笑みがこぼれた。
いつだって、わたしを幸せにしてくれる人。わたしをわたしでいさせてくれる人。わたしが幸福にしたいと願う、わたしが守りたいと願う、たった一人。
そんなあなたに伝えたい、たったひとつ。
「わたしと一緒に、いてくれる……?」
レナルドのことが、世界で一番大好きだから。
短い言葉に、込めた思いは万感。
不意に風が通り抜けて、レナルドの髪を乱す。隠れたその目の奥が少し光った気がしたのは、気のせいだろうか。
「イリス」と。葉擦れの音でかき消えてしまうほど小さな声で、名を呼ばれた気がした。レナルド、と、呼んだ声は果たして彼に届いただろうか。
苦痛も、後悔も、悲哀も。全てがこの広い世界に溶けていくようで。
レナルドが握り返してくれた手の力が、わたしの世界の全てだった。