4.一周目③
4話目です。全8話。
最悪だったパーティのあと、わたしは帰宅を許されず学院の一室に軟禁されていた。
存在も知らなかったその一室は、学院長室のある最上階にある貴賓室。王族すら滞在できる格のある部屋なのですよと、殿下から派遣されてきた侍女が言っていたが、それがわたしの心を慰めるはずもなく。
リュミエラ様――バーデンベルグ家からの逆恨みで害される可能性がある、サリニャック子爵家では君を守り切れない、と。パーティ終了後に訪ねてきた殿下はそう言った。まだ錯乱状態だったわたしはリュミエラ様が私を虐げたことなどないと半狂乱で訴えたが、殿下は「もういいんだ」としたり顔で首を振った。
「私はすべてを知っている、もうリュミエラを庇わなくて良いんだ」、と。また同じ事を繰り返されて、わたしは目の前が真っ暗になる心地がした。
わたしの主張は何も聞いてもらえず、おまけにここに入ってからは手紙を書く事すら許されない。部屋の入り口は殿下の手配した騎士たちが常に見張りについていて、窓からは逃げられる高さじゃない。八方塞がりのわたしに出来る事は、扉に耳をつけて侍女と騎士の噂話を聞く事だけだった。
騎士や侍女は複数いて、一日に何度か交代している。その中にはおしゃべりな人たちもいて、彼らは存外無防備に部屋の外で立ち話に興じていた。
しばらくは、聞きたくもないリュミエラ様の悪口ばかりが聞こえてきた。神樹の娘を害するだなんて、とか、高慢だと思っていた、とか。そんな言葉が聞こえてくるたびに耳を塞いでいたが、しばらくすると様子が変わってきた。
リュミエラ様が、隣国に行かれたと。
謹慎を命じられていたはずなのになんてことを、きっと前から企てていたのだと侍女たちは怒っているようだったが、わたしはそれを聞いて心底安堵したのだ。
確か、リュミエラ様のお母様は隣国の傍系王族だったと聞いた。きっと、母方の親戚を頼ってこの国を抜け出したのだろう。外がどういう状況かわたしにはわからないが、それでもリュミエラ様がこの国から出られた事には安心した。それに、いくら何でも彼女一人で国外脱出は難しい。きっとご家族がお力になってくれたのだろうと思えて、わたしは知らず涙をこぼしていた。
レナルド。久しぶりに、胸中で幼なじみの名前を呼ぶ。わたしのせいで罪のない少女が不幸になったと思えば、わたしは大好きな幼なじみに顔向け出来なかった。
――だけど、今日だけは。
レナルド、リュミエラ様は無事にお逃げになられたみたい。わたしがうまく出来なかったせいでリュミエラ様を不幸にしてしまったけれど、最悪の事態にならなくてよかったよ。
わたし自身は、これからどうすれば良いか、全然わからない。こんなことになったら、もうレナルドや孤児院のみんなに会いたいと思わない方がいい。それだけはわかっている、のだけど。
「レナルドぉ……」
唇は勝手に、世界で一番大事な人の名前を呼んだ。
ボロボロと、こぼれ出る涙が頬を伝って腿のあたりで握りしめた拳を濡らす。今まで拭ってくれていた指がないここでは、それは後から後から溢れて上等なドレスを湿らすばかり。
レナルド。わたしの大事な幼なじみ。
今まで、彼がどれだけわたしの不足を補っていてくれていたのだろう。いいえ、ただ彼が隣にいるだけでよかった。それだけで、どれほど心強く過ごす事が出来たか。
レナルドはぶっきらぼうだけど、いつだってわたしの目を見て話を聞いてくれた。わたしの事を理解していると嘯いて、捨て置く事もなかった。わたしが今どんな気持ちでいるのか、その聡明な瞳はいつでも見透かしているようだった。
わたしが特別な力を持たないただの孤児でも、レナルドはまるで宝物みたいに大事にしてくれた。レナルドほどは頼りなくても、わたしがレナルドのために心を砕けば、同じだけのものを返してくれた。わたしを、イリスとして――一人の人間として、向き合ってくれていた。
レナルドは、いつだって。いつだって、わたしを幸せにしてくれていたんだ。
ほんの数ヶ月前まで、レナルドと会えなくなる事なんて――一緒に生きる事が出来なくなるなんて、考えなかった。ずっと変わらずいられるだけで、それだけでよかったのに。
すべては、「神樹の娘」に与えられた異能が故に。こんな必要ないもののために、わたしはレナルドを失ったのだ。
そう思えば、涙が後から後から溢れて止まらない。涙を拭う事も出来ずに唇を引き結び肩を震わせるわたしを、慰めてくれる誰かはやはり現れなかった。
さらに外の様子が不穏になったのは、それから一月半ほど経った頃だろうか。
とっくに学院は始まっているはずだが、危ないからと言う納得できない理由で軟禁は続いていた。世話をしてくれる侍女たちも相変わらずわたしとまともに口をきいてはくれないが、部屋の外で囁かれる噂話がどんどん剣呑なものになっていく。
曰く、バーデンベルグ家から正式に王家へ抗議が来ている。
曰く、隣国に行ったリュミエラ様が次期公爵様に求婚されており、隣国からも正式に問い合わせが来ている。
曰く、国王陛下がオーギュスト殿下のなさりようにお怒りで、臣下の中でも彼の異母兄である第一王子殿下を推す声が増えている。
曰く、リュミエラ様が神樹の娘を虐げた証拠がどう調べても出てこない。
最後の噂は、わたしがずっと訴えてきた事。事実リュミエラ様はわたしを虐げたりはしていないので、証拠が出てくるわけがない。けれどもうくだんの出来事から二ヶ月経とうとしているこの状況で問題に挙がっているということは、すなわちオーギュスト殿下の旗色が悪いという事だとわたしは理解した。
わたしがあれだけリュミエラ様の無実を訴えても聞き入れられず、事実無根の汚名を返上する事が出来ず。国内でも高位の貴族であるバーデンベルグ家の令嬢を衆人環視の中で貶め、殿下が神樹の娘を保護するという構図を貴族たちに示したのは、そこに何らかの意図があったのだと考えている。
オーギュスト殿下にとってそれが有利になる、なんらかの事情があったのだろう。
だからこそオーギュスト殿下派の人間はそれを後押しした。わたしにだってわかるあの蛮行がその場で止められなかったのは、そのためだと思う。
無意味に与えられた長い時間の中で、わたしはそんな結論にたどり着いていた。肝心な理由はわからないが、一番避けたかった政争に巻き込まれた事は間違いない。
あれだけレナルドに注意されていたのになぁと何度目かわからない後悔をしていた時、急に扉が開け放たれた。
一応わたしは殿下の庇護下という立場だから、使用人たちがそんなことをするはずはない。案の定、息を切らしてそこに立っていたのは、わたしをここに軟禁した張本人である殿下だった。
「イリスティア嬢……っ!」
「痛ッ!?」
つかつかと足音を立ててわたしに近づいた彼は、思わず声が出てしまう力でわたしの肩を掴む。けれど痛みに顔を歪めたわたしを気遣う事なく、殿下は真っ青な顔をして「君は!」と切迫した声音で叫んだ。
「君は、私に嘘をついていたのか!?」
「……は?」
「リュミエラは、君の事を虐げてなどいなかったのか!?」
絶叫に近い音量のその内容を、理解するのにしばしの時間が要った。
嘘をついている? わたしが、殿下に? どんな事実は、どこにもない。ただ、リュミエラ様がわたしを虐げていないというのは事実。わたしがずっと訴えてきた事。
何もかもがおかしいそれが頭にしみこんだ瞬間、全身の血が沸騰する心地がした。いけないとわかっていたが、気づけばわたしは勢いよく殿下を突き飛ばしていた。
「だからッ! わたしは最初から言っています! リュミエラ様に虐められてなんていないし、優しくしていただいたって!」
「い、イリスティア嬢……?」
「わたしがリュミエラ様に虐められているなんて、一度だって言いましたか!? いつも庇わなくていいとか本当の事はわかっているとか、わたしの言い分の聞かず勝手に暴走したのはそっちじゃない!」
あまり理不尽で、あまりに怒りが湧いて。頭に血が上ったわたしは、もはや言葉遣いを取り繕う事も出来ず。
呆然とこちらを見る殿下の目が、信じられないものを見たという色をしているのが腹立たしい。わたしはドレスの裾が乱れるのもかまわず地団駄を踏んで、「誰もわたしの話なんて聞いてくれなかった癖に!」と大声をあげた。
「し、しかし、確かに聞いたのだ! 君がリュミエラに虐げられていると訴えていると、信頼している筋から……!」
「信頼している筋!? ならわたしじゃなくてその人に聞きなさいよ、どうせわたしの言うことなんて聞きもしないくせに!」
「そ、それは、君がバーデンベルグ家に遠慮して本音を言えないと聞いて……」
「だから、それを信じたんならその人に聞けって言ってるの! わたしは最初から本当の事しか言ってない、リュミエラ様にいじめられてなんてない!」
感情のままにわめき散らして、涙のにじんだ目で殿下をにらみつける。外を守っていた衛兵が何事かとこちらを伺っているのがわかったが、一度切れた感情の堰はもう止める事が出来ず。
殿下が呆然と、まるで自分が被害者のような頼りなげな目をしているのがひどく癇に障って、「わたしは嘘なんて言っていない!」ともう一度叫び、唯一鍵のかかるバスルームへと駆け込んで籠城した。
もう、何もかもがどうでも良い。貴族の礼儀とかあり方とか決まり事も。誰が加害者で誰が被害者なのか、わたしを都合よく使おうとしているのが何なのかも。
ただ、ただ。わたしは「イリス」に戻りたかった。「イリスティア」になる前に戻りたかった。育った孤児院で、大好きな、大事な人たちに囲まれて、自分の出来る事をして、誰かの助けになって、そうして生きていきたかった。豪華なドレスも食事も、傅かれる生活も、何も要らなかった。
「神樹の娘」の力だって、そう。本当はいらなかった。だけどレナルドを助けるあの一回の奇跡の代償が今の現状だと思ったから、耐えてきたのだ。
だけど。――だけど。
こんな状況、もう耐えられない。もうたくさんだ。何もかも投げ出してしまいたいけれど、せめて、もう一度。
「レナルド……」
こぼれたのは、世界で一番大事な人の名前と、雫となった涙。
レナルド。ここに来てからずっと、彼の事ばかり考えている。もう一度だけでも声が聞きたかった、その手に撫でて欲しかった。無理をしがちなその隣にいたかった、よく褒めてくれた手作りのクッキーを、また食べて欲しかった。
でも、もう何もない。わたしに必要だったものは、わたしの欲しかったものは、すべて手のひらからこぼれ落ちてしまった。
ずるずると力が抜けるに任せて床に座り込んだまま、わたしは声も上げずに泣き続けたのだった。