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3.一周目②

3話目です。全8話。



「どうしてこうなるの……っ!」


 我慢の限界を超えたわたしが寮のベッドで突っ伏して叫んだのは、入学して三ヶ月目のことだった。

 無難に日々を過ごしたいというささやかな望みをあざ笑うかのように、わたしの周囲は悪い意味で騒がしい。

 入学早々わたしに目的不明の接触を図ってきた殿下は、その後もことあるごとにわたしの周囲に現れた。やれ勉強を教えよう、食事を共にしよう、庶民の暮らしを教えて欲しいと、手を変え品を変え声をかけてくる。勉強は自分なりに努力しているし、何度も食事を共にするような身分ではない。庶民の暮らしを知りたいという気持ちがあるなら、わたしのような自分の周りのことしか知らない人間に尋ねるよりもっと効果的な手段があるはずだ。

 どの誘いも、わたしが行く必要性も意義も見いだせず、それでもすべてを断るわけにはいかず五回に一回のペース……つまり週に一回程度は殿下と過ごす羽目になっている。

 貴族というのは、一緒に過ごす相手にも政治的意味があると聞いている。もしかすると、わたしの持っている「神樹の娘」の力が政治利用されようとしているのかもしれない。そう考えるとぞっとしたけど、それを確かめるすべがない。

 それに――。


「……レナルドぉ……」


 無意識のうちに口にした名前は、ひどく情けない響きをしていた。

 殿下とのあれこれ以上にわたしを打ちのめしていたのは、レナルドからの手紙が届かなくなったことだった。

 サリニャック邸にいたときは毎日のように届いていたのに、こんなのはおかしいと。パニックを起こしたわたしは、生活の面倒を見てくれている城の役人に外出許可を求めた。けれど返ってきた答えは冷ややかなノー。

 お知り合いにも生活があるのでしょう、庶民であれば毎日手紙を書く時間を捻出するのも大変なのでは、と。そう言われては、自分がひどく傲慢な思い違いを――彼がわたしのために何をおいても時間をとるのが当然だとでも言うような――しているのだと突きつけられたような気がしてそれ以上食い下がることが出来なかった。それでも、困っている幼なじみを放っておける人ではないのだと、下町に変わったことがないか確認し欲しい、とお願いだけは伝えていた。

 不安ばかりの毎日の中、レナルドの手紙が来るのを待つ事だけがわたしのよりどころになっていた。何やってるんだバカ、とか、もっとやりようがあるだろ考えなし、とか、本当にどんなものでも良いからレナルドの言葉が欲しかった。


 後から思うと、この時点でわたしは相当追い詰められていたように思う。ぶっきらぼうだが根は優しくて面倒見の良いレナルドが三ヶ月もわたしを放っておくなんて、レナルドの身に何かあったんじゃないかと心配する方が先のはず。なのに、この時のはわたしは自分の置かれた状況ばかりを気にして、レナルドに助けて欲しいとしか思っていなかった。

 だから、もしかしたら。この後に起こることは、その罰だったのかもしれない。


 最近は授業が終わったらすぐに寮に帰る癖がついていた。のんびりと学院にいると殿下に捕まってしまうから。そんなわたしに親しい友人が出来るはずもなく、どうすれば良いのか相談できる相手もなく。

 それでも、こうしてうずくまっていても仕方がない。今日こそレナルドからの返事が来ているかもしれないから、管理人室に行ってみよう。そう考えて起き上がったわたしは、こそこそと周りを伺いながら部屋を出た。女子寮にはさすがに殿下も入ってこないだろうけど、周囲に自分の噂話をされるのもダメージが大きいから、誰とも顔を合わせたくなかった。

 こそこそと管理人室に行って、とぼとぼと戻ってくる。そんな悲しいルーティンに慣れきってしまったわたしは、今日もやっぱり届いていなかった手紙について思い悩みすぎたのかもしれない。


「……イリスティア様?」

「――っ!」


 がっかりしたせいか、行きよりも帰りは警戒が足りていなかった。背後から自分の名前を呼ばれるまで、そこに人がいることに気づかなかった程度には。

 勢いよく振り向けば、そこに立っていたのは美しい女の人。深い赤の髪は品良くまとめられていて、少しつり目ぎみの瞳は紫水晶。腕の良い人形師が渾身の力を込めたような、迫力のある美貌。わたしよりずいぶん背が高いように見えるのは、ピンと伸ばされた背筋と履きこなされた高いヒールのためだろう。

 ひゅっと、喉が無様な音を立てた。だってこの方は、リュミエラ・バーデンベルク侯爵令嬢――ここのところわたしに不用意で不可解な接触を繰り返すオーギュスト殿下の、婚約者だったから。


 実際、こんな事態になったときにわたしが一番恐れたのは、このお方だった。

 ハーデンベルク家といえば、わたしでも知っている名門貴族。南方のバーデンベルク領は豊かな上に、現バーデンベルク侯爵は国の中枢を担う政治家。リュミエラ様はご兄弟の中の紅一点で、両親も兄弟も彼女を愛してやまないと聞いている。

 そんなリュミエラ様から見たら、わたしはぽっと出の元平民、自分の婚約者にまとわりつく羽虫だろう。いくらわたしにそんなつもりはないと言っても聞いてもらえるかはわからない。だからこそ、ずっと彼女の目に触れないように避け続けていたのに。

 硬直してしまったわたしに、優雅な足取りでリュミエラ様が近づいてくる。どうしよう、どうしようとそればかりが頭を巡ったわたしは、全身を支配する恐慌の命じるままにガバッと勢いよく頭を下げてしまった。


「申し訳ございませんっ、リュミエラ様!」

「……え?」

「わ、わたし、違うんです。本当に、殿下のことは困っていて、わたし、わたし、違うんです、こんなつもりじゃ――!」


 とにかく謝らなければ、わたしに殿下をどうこうする意図はないと理解してもらわなくては。

 その思いだけが先走って、言葉がうまく出てこない。結局、下手くそな自己弁護めいた単語しか発せないわたしに、リュミエラ様が困ったように眉を下げたのがわかった。


 瞬間、何故だかわたしはひどく打ちのめされた心地になった。


 孤児院にいた頃は、年長者としてレナルドの次に頼りにされていたと思う。お掃除と洗濯は孤児院で一番うまくて、年下の子たちもわたしのことをイリスお姉ちゃんと呼んで慕っていてくれた、と、思う。

 なのに、ここに来てからは何もうまくいかない。誰にも頼りにされないし、掃除や洗濯は専門の人がいるからわたしの出る幕はない。勉強はついて行くだけで精一杯で、人付き合いも全然及第点に至らない。いや、偉い人に関わらないという最低限すらこなせていない。

 何も出来ない。誰の役にも立ってない。こんなわたしだから、レナルドもわたしを忘れてしまったのかもしれない。


「イリスティア様!?」


 そんなことを考えたら、頭が真っ白になってしまった。違うんですと繰り返しながら、わたしはいつの間にか泣いていた。ひっ、ひっと小さくしゃくり上げながら肩を振るわせるわたしに、リュミエラ様が焦っているのがわかる。

 白い手が、わたしの肩をさすってくれる。「大丈夫ですか」と優しい声と共に差し出されたきれいなハンカチに、わたしはますます涙をこぼす。

 リュミエラ様にとって、わたしは目障りな存在だろう。何をされても文句は言えないのに、急に泣き出したわたしをリュミエラ様は優しく宥めてくださる。久しぶりに感じた他人の暖かさに、わたしの心はすっかり頽れてしまっていた。


「ごめ、ごめんなさい、リュミエラ様……き、きれいな、ハンカチ……」

「そんなことは良いのです。どうされたのですか? 何かあったのですか?」

「あの、わたし……っ」

「リュミエラ様と……イリスティア様? 何をなさっているのですか!?」


 優しく問いかけてくださるリュミエラ様をこれ以上困らせてはいけないと、わたしはなんとか嗚咽を飲み込んで現状を説明しようとした。


 すなわち、リュミエラ様の婚約者である殿下とは、何の関係もないこと。

 おそらく平民であった身の上を考慮して一緒に過ごそうとしてくれているのだと思うが、少し度が過ぎていると感じていること。

 もし元平民に監視が必要なのであれば受け入れるから、出来ればその役目は女性にお願いしたいこと。

 こうしてお声かけいただく事態になったことを、とても申し訳ないと思っていること。


 すべてきちんと言葉にしようと、けれどなんとか喉を通した声は、第三者の声によって遮られてしまった。

 少し緊迫した、どこか非難めいた色をした声音にぎょっとしてそちらを向けば、そこに立っていたのは桃色がかったブロンドが印象的な、きれいな女生徒。彼女もまた「関わらない方が良い高位貴族の女性」であることに気づいて、わたしの喉はひゅっと無様な音を立てた。

 第一王子の婚約者である、シェリーナ・アランティス公爵令嬢。彼女の婚約者でありオーギュスト殿下の兄である第一王子は、生母が正妃でないから王位継承権は低い。とはいえもちろんこちらが気軽に関われる身分ではないから、その婚約者であるシェリーナ様にも極力関わらないようにしようと、そう思っていたのに。

 彼女の声が切迫感を伴っていたからだろうか。周囲にはいつの間にか寮生たちが集まっていて、わたしたちを遠巻きに見ていた。その視線が怪訝なものになっているのに気づいたわたしは、その原因が泣いている自分であることも察してしまう。


「ちが……!」

「ずいぶん騒がしくしてしまいましたわね。……お話は、また改めて」

「あっ」


 違うのだと。トラブルが起こっているのではないのだと声を張り上げようとしたが、しかし優雅に遮られリュミエラ様は立ち去ってしまう。呼び止めることも出来ずにハンカチを握りしめたわたしに、シェリーナ様が気遣わしげに「何かあったのですか?」と問いかけてくる。

 やはり誤解されてしまっている。リュミエラ様がわたしに悪意を向けたから泣いているのだと勘違いされている。なんとか誤解を解かなければとわたしは周囲にも聞こえるように「違います!」と声を張った。


「リュミエラ様に、優しい言葉をかけていただいて……感極まって、泣いてしまったのです!」

「優しく……?」

「はい。リュミエラ様はとてもお優しい方ですね」


 少しばかり不自然な物言いになったかもしれないが、今はわたしの印象よりもこの場に満ちる嫌な空気を払拭する方が優先だ。シェリーナ様も怪訝な顔をなさったが、そうなのですか、と特に追求することもなく頷いてくれた。

 そこに至り、ようやくわたしは手元のハンカチを皺が出来るほどに握りしめていたことに気づく。

 このハンカチをお返しするという口実で、またお目にかかることは出来るだろうか。今日のお礼と謝罪をして、殿下についてご相談させていただけないだろうか。急に泣き出したわたしに優しくハンカチを差し出してくださった方なら、わたしの話を聞いてくださるかもしれない。 

 その考えは、わたしの心を少しだけ浮上させる。この学園に来て初めて、前向きな気になれた気がした。


 けれどそれは、夜が明けるまでの短い希望だった。


「イリスティア嬢、リュミエラが君に無礼を働いたというのは本当か?」

「……は?」


 翌日。学院に向かったわたしを捕まえて、開口一番に殿下が告げたそれに、わたしの頭は真っ白になる。不敬だとか無礼だとかそんな体裁が一瞬で吹き飛んで、わたしは夢中で「違います!」と叫んでいた。


「だ、誰が、誰がそんな嘘を言ってるんですか!?」

「い、いや。誰と言うことはないが、複数の生徒からそのような場面を目撃したと証言があったんだ。リュミエラと話している君が泣いていたと」

「誤解です! な、泣いてしまったのは、リュミエラ様が優しくお声かけくださったからで……とにかく、わたしはリュミエラ様に無礼など働かれてはいません!」


 必死に言いつのるわたしに殿下が困惑した顔をしているが、そんなこともどうでもよかった。周囲がわたしたちのやりとりに注目しているのもわかったから、ここで誤解を解いておかないと大変なことになるという事だけは理解していた。

 リュミエラ様は悪くないのだと、そのような噂を流さないで欲しいと、訴える姿はきっとみっともなかっただろう。けれど、わたしの体面よりもリュミエラ様があらぬ誤解を受ける方がよほどまずいに決まっている。

 だってその誤解は、「殿下の関心を引く神樹の娘を、婚約者の令嬢が害している」という状況を示している。三流の戯曲めいたそんなゴシップ、面白おかしく広められないはずがない。

 だからなんとしても、殿下にはこの場で「わかった、誤解だったんだな」と発言してもらう必要がある。衆目の中で、こんな話は全く事実無根だとみとめてもらわなくては。

 口元に手を当ててしばし思案していた殿下は、おもむろに「そうか」と呟いた。


「君は優しいんだな」

「……え?」

「君にひどいことをしたリュミエラを庇うなんて」


 理解してくれたのか、とほっとしたのもつかの間、殿下の言葉にわたしは凍り付いた。殿下の口から出たのが、リュミエラ様を非難する言葉だったから。

 わたしが必死に訴えているのに、どうして。目の前の殿下はまるでわたしの言葉が通じていないように、わたしがいかに優しいか、そんなわたしを脅しつけて怯えさせるリュミエラ様が悪女であるか、朗々と語っている。

 呆然とするわたしの脳裏に、ふいにレナルドの声がよみがえる。


「いいか、イリス。貴族がお前の言葉をねじ曲げて、どうしてもお前の話を聞いてくれない時は、『事実を上書きしたい』からだと思った方が良い」


 それはレナルドがいくつか教えてくれた「貴族と生活する上での注意点」の一つ。


「おまえが青だと言っているのに、貴族は赤だという。おまえが朝だと言っているのに、貴族は夜だという。そんな時は、おまえの伝え方が悪いんじゃなくて、貴族が『そうしたい』んだ。そうするために、回りを巻き込んで事実を上書きしようとしてる」

「なにそれ……そんなの、どうすればいいの?」

「そうなったらおまえじゃどうにもならんから、すぐに俺に相談しろ」


 そう言って目を細めたレナルドには、連絡が取れない。ずっと返事がない。今のわたしは孤児院に飛んでいくことも出来ない。

 握りしめた拳が震えていることに、目の前の「自分の婚約者に虐められた令嬢を気遣う王子」は気づかない。同情的な目をわたしに向けている周囲も、わたしが決死の思いで叫んだ言葉はまるで聞こえていないかのよう。


 芝居がかった調子で朗々とありもしないリュミエラ様の悪行を並べ立てる殿下の言葉が、遠い。

わたしは自分の身体が末端から冷えていくのを感じながら、せめてもの抵抗に口を噤むことしか出来なかった。




 それからの日々は、本当に最悪だった。

 わたしの言葉は、誰にも聞いてもらえない。リュミエラ様にはよくしてもらったのだと、誰に言ってもわたしが彼女に気を遣っているのだとあさっての解釈で流される。そのくせ、リュミエラ様がわたしにどんなひどい事をしたかという虚言は真実として流布された。

 リュミエラ様となんとか接触を図ろうとしたが、あまりにも学院内での流言飛語が激しいので登院を控えているとのことで直接お目にかかる事は叶わず。手紙も何通か出したのだが、彼女から返事が届く事はなかった。無理もない、このような状況になっては、わたしが嘘を吐いて殿下の気を引いているとしか思えないだろうから。

 八方塞がりの状況で過ごす学院生活は、針のむしろだった。レナルドからも相変わらず返事はなく、自分が世界でたった一人になってしまったような気すらした。


 けれど、そんな日々もいったん小休止を迎える。


 飾り立てられた大講堂、普段の制服とは違う色とりどりの正装に身を包んだ学生たち。目がくらむようなきらびやかさに圧倒されながらも、わたしはひどく安堵していた。

 今日は、やっと迎えた学期末。明日からは休暇となり、わたしもサリニャック子爵夫妻のもとへ帰る事が出来る。

 人の噂もなんとやら、きっと休暇明けにはわたしにまつわる噂も沈静化しているだろうし、なによりサリニャック家は学院よりもずっと制約がゆるい。お願いすれば、きっと孤児院に向かう事だって許してくれるだろう。そうすればやっと、やっとレナルドやバルニエ先生、孤児院のみんなに会う事も出来る。

 そう考えると、わたしの心は浮き立った。窮屈なドレスも我慢できるほどに。

 ドレスと言えば、これも最悪だった。何故か殿下がわたしにドレスを贈りたいと言い始めたから。

 リュミエラのお詫びに、尊き神樹の娘に王族からの当然の行為だと、耳を塞ぎたいほどうるさかった。わたしだって詰め込みとはいえ最低限の貴族教育は受けている、男性が女性にドレスを――それも公式の場で着るドレスを――贈る意味を知らないはずがない。サリニャック子爵夫妻が用意してくれたドレスがある、養父母が心を込めて選んでくれた初めてのドレスを着たいのだと、何度も頭を下げてやっと要求は引っ込められたが、どうにも事態が悪い方向に進んでいる気がしてならなかった。


 事ここに至り、わたしはようやく自分が何やらひどくやっかいな事に巻き込まれている事を自覚していた。それも、王族がらみの。

 「神樹の娘」という肩書きが貴族の社会にどれだけ影響するのか、実際のところわたしにはわからない。レナルドもそれについては難しい顔をするばかりだし、サリニャック子爵夫妻も尊い存在である事は間違いないけれど、という所感だった。孤児院のバルニエ先生は「無礼になるかもしれないが」と前置きした上で、子爵という王族や高位貴族に嫁ぐ例の少ない低位貴族の養女になるという事は、神樹の娘に政治的な影響力を持たせたくないという事ではないか、と言ってくれた。

 だからこそ、王族や高位貴族に対しては「可能な限り関わらない」程度の心持ちでいたというのに。こんな状況をどうすれば打破できるのか、わたしにはあまりにも知見がなさ過ぎた。


 休暇に入ったら、すぐにレナルドに相談する。サリニャック子爵夫妻にも話を聞いてもらって、どのように立ち回るのが適切か、休み明けまでにちゃんと決めよう。出来ればリュミエラ様にもちゃんとお詫びを申し上げたい。サリニャック子爵夫妻経由であれば、もしかすると場を設けてくださるかもしれない。

 壁際でひっそりと息を殺しながら、出来るだけ明るい未来を想像して気を紛らわせていたわたしの耳に、ふとざわめきが届く。

 視線をそちらに向ければ、同学年の側近候補たちを伴った殿下がいた。相変わらずきらきらしいオーラを放ったその一団から隠れるように、わたしはそっと彼らの死角になる位置に移動する。

 学期末の式典は終わったから、後はこのパーティが終わるのを待つだけ。貴族には夜会での適切な振る舞いも大事だからと参加を義務づけられているが、こんなのは一年に一度ぐらいで良いじゃないかと胸中で毒づきながら手にしたグラスをやけくそ気味に呷る。

 殿下が執拗にかまってくるおかげで、下位貴族のクラスで友達は出来なかった。だからわたしは、こんな場でも一人でいるしかない。

 孤児院にいた頃はあんなに賑やかだったのに、と、油断すれば浮かんでくる涙を押し殺しながら時間が過ぎるのを待つ。

 確か、まずは最も位の高い生徒の挨拶。今年の場合はもちろん殿下がそれをする。その後は歓談と食事をして、最後に学院長の挨拶をして終了。高位貴族から順に退室して、家から迎えがある生徒はもう寮に戻らずそのまま実家へと帰る。わたしもできるだけ早く戻りたいとお願いしたから、子爵夫妻が馬車を手配してくれることになっている。

 あと二時間から三時間ほどを我慢すれば、この学院から離れられる。そう自分を奮い立たせていたら、今度はさっきとは違う種類のざわめきが耳に入った。


「あ……!」


 思わず、声が漏れた。

 人垣が、避けるように引いていく。その中心には、リュミエラ様がいた。

 噂が流れ始めてから学院に出てくる事はなかったから、お姿を見るのは本当に久しぶりだ。今すぐ駆け寄ってお詫びを申し上げたい衝動を殺しながら、わたしはじっと彼女を見つめる。

 すこし、お痩せになっただろうか。かつては人に囲まれていた彼女が、今はたった一人でそこに立っている。凜と伸びた背筋と輝くような美貌に変わりはないが、心労が現れているように見えた。その一端を自分が担っていると思えば、申し訳なさで叫び出したくなる。

 できるだけ早く、リュミエラ様の汚名を雪がなくては。パーティが始まれば謝罪の機会もあるかもしれない。


 そんな事を考えて、彼女だけを見つめていたから。 

 わたしは、自分に近づく人間に気づく事が出来ず。


「イリスティア嬢、こんなところにいたのか!」

「っ!?」


 唐突に呼ばれた名前に、びくりと身体がはねる。いつの間にかすぐそばに来ていたのは、わたしが最も見つかりたくなかった一人。

 オーギュスト殿下。わたしが今悩んでいるすべての原因が、満面の笑顔でそこに立っていた。

 唇の端が引きつるのを自覚する。もやはわたしは自分の表情も取り繕えぬほど、この方に苦手意識を持ってしまっていた。だというのに、殿下は全く気にする事もなく、ひどく自然な仕草でわたしの背に手を添えた。


「尊き神樹の娘が、壁の花とはいただけないな。さぁ、こちらへ」

「い、いいえ、わたしは……っ!」

「君には、私の目の届くところにいて欲しい」


 そう言いながら殿下の視線が投げられた先には、一人たたずむリュミエラ様がいた。

 まだわたしがリュミエラ様に虐げられている事にしたいのかと怒りが湧くが、この場ではどうする事も出来ず。せめて背に添えられた手から逃れたくて不自然に背をそらしながら、誘導されたのは講堂の中心――大階段の正面だった。

 確か、挨拶はこの階段を上った先でするはずだ。わたしの認識に相違はなかったようで、殿下はこちらに意味ありげな視線一つ投げた後、ゆっくりとその階段を上っていく。

 

「この学び舎で将来のための勉学に励む紳士、淑女の諸君。本年も最初の学期を終えた事を祝おう」


 この講堂で一番高い位置から殿下が声を張ったとき、先ほどまでの浮ついた雰囲気は一気に静まり、誰もが殿下に集中した。

 よく通る声で語られるのは、当たり障りのない内容。何のためにわたしが中央に引っ張り出されたのかはわからなかったが、何事も起こらなそうな事に安堵する。

 高いところだと意外に一人一人に目が届くから、今移動するわけにはいかない。挨拶が終わったらさりげなく他の生徒たちに紛れようと考えていたその時、殿下が唐突に「リュミエラ・バーデンベルグ!」と鋭く声を張り上げた。


 どくん、と。心臓が嫌な音を立てた。


 殿下の声音は、婚約者の名を呼ぶそれではない。とっさにリュミエラ様の方を見れば、彼女の顔色が紙のように白くなっているのが見て取れた。

 嫌な予感がした。何かとんでもない事が起こるような、そんな。


「リュミエラ。君はバーデンベルグ家の権威とわたしの婚約者としての立場を利用し、神樹の娘であるイリスティア嬢を虐げた!」

「――!」


 そしてその予感は、的中してしまった。最悪の形で。

 今までも、陰日向なくその妄言は囁かれていた。リュミエラ様への事実無根の誹謗中傷は、わたしがどれだけ否定してもおさまる事はなく。

 それでも、これはそれを超える。こんな公衆の面前で殿下のような高位の人間に糾弾されれば、無実も事実のように扱われてしまう。衝撃のあまり絶句するわたしと、唇を一文字に引き結ぶリュミエラ様を、皆が交互に見ている気がした。


「その傲慢な性根は、とても国母にふさわしいとは言えない!」

「ま、待って、違う……っ!」

「よって、私はこの場でリュミエラとの婚約を破棄する!」


 戦慄く身体を叱咤してなんとか発した声はあまりにもかすれていて、張り上げた殿下の声にかき消された。せめて凍り付いたように立ち尽くすリュミエラ様を周囲の視線から守らねばと彼女に駆け寄ろうとするも、殿下の側近たちから庇うように遮られた。危ないですよと親切顔で言う彼らに、どれだけリュミエラ様にそんな事されていない、殿下の言う事は嘘だと訴えても誰も取り合ってはくれず。

 リュミエラ様を庇うイリスティア嬢はお優しい、と。訳知り顔で言う彼らが、気味が悪くて仕方がなかった。言葉は通じているのに心が通じない、まるで化け物と対峙しているかような、そんな。

 階段から降りてきた殿下が、仇と向き合うかのような瞳でリュミエラ様を見ている。違う、リュミエラ様はそんな事していないと必死に叫んでいたわたしは、心優しさ故に動揺しているのだとその場から連れ出されそうになっていた。

 お願い、やめて。わたしはこんなこと望んでいない。すでに体裁を整える事も出来ず泣きわめくわたしの耳に、届いたのはわたしとは正反対の落ち着いた声音。


「――殿下の仰る事はわかりました。婚約の解消は受け入れますが、いわれなき侮辱は、バーデンベルグ家より抗議させていただきます」


 それは、決して張り上げたものではないのに、講堂中に凜と響く。気高くてまっすぐで、清廉そのものの女性の声。

 ああ、ああ、ああ!

 何故、この場にいる人たちはわからないのか。いや、わかっていて彼女を陥れているのか。

 自分に後ろ暗いところのある人間が、あんな風にまっすぐにいられるわけがないのに。この講堂の全員から敵意を向けられて、それでも視線を落とさずにいられるわけがないのに。あんなに一点の曇りもなく美しく、いられるわけがないのに。

 もはやしゃくり上げて泣く事しか出来ないわたしは、半ば抱えるようにして退場させられる。彼女がどうなったか見届ける事は、もちろん許されなかった。



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