【第01話】もはや手遅れであり間に合わない
焚き火台の上で薪が弾けた。
オレンジの火の粉が宙に舞い、闇の中に消えていく。
柔らかな春風が、若葉を揺らす音を連れてくる。
そのざわめきを背に、俺――槇島悠人はアウトドアチェアに腰掛け、ノートPCを睨んでいた。
「……どうにもならないな」
独り言を吐き捨てた。
画面に並んだ数字は、俺の未来を粉々に砕く。
老後資金、三千万。
それでも足りない。
六十五まで働き続けても、八十歳には残高ゼロ。
年金を足してもだ。
「一年七十万で暮らせるか? 月六万だぞ? ワンルームすら借りられない」
掠れた声が震えている。
憤りと恐怖のせいだ。
二十年以上、IT業界の何でも屋として真っ当に働いてきた。納税を怠ったことはないし、法を犯したこともない。
だというのに――俺の行く先に待っているのは老後破産だ。
「……どうすればいい?」
四十三歳。
立て直すには遅すぎる。
住宅ローン? 払い終える頃には七十を越える。
結婚? 子育て? 笑わせるな。
焚き火に薪をくべると、火柱が一瞬だけ高く伸びた。
その赤い揺らめきに目を閉じると、不意に胸が詰まる。
――八十歳で無一文。
その光景が、鮮明に浮かんできたからだ。
「いっそ、今すぐ……?」
危うい言葉が続くことに気づいて、慌てて首を振る。
いや、さすがに、それはない。
だが、このままではジリ貧だ。
何かを変えるしかない。
だが、何を、どうやって?
「……キャリアを積み直す? この歳から?」
頬が不自然な形に歪む。
苦い、乾いた笑いを浮かべたせいだ。
どんな仕事だって一流に至るには、十年はかかる。
キャリアを積み始めた最初の十年を思い起こす。体力が有り余り、無知故の向こう見ずだったから出来たことだ。
「現実的じゃない」
瞼を閉じ、深呼吸に集中する。
風に揺れる草木のざわめき。
自分の呼吸に耳をそばだてる。
……次の瞬間。
風が消えた。
それだけではない。
強烈な寒波に身震いした。
慌てて目を見開く。
「……!?」
光景が一変していた。
若葉の森は消え失せ、針葉樹の巨木が闇に立ち並んでいる。
「……どこだ、ここは?」
吐いた息が白い。
静まり返った森の中で、薪の爆ぜる音が異様に響いた。
ふと気づいて、辺りを見回す。
焚き火台を始めとした身の回りの物は、憶えている限り同じ位置にあった。
指先の震えを抑えながら、持ち物を確認する。
財布、ノートPC、モバイルバッテリー、通信機器――どれも消えてはいない。
スマートフォンを取り出す。
画面は「通信サービスなし」を示していた。
時刻は、零時を少し回っている。
冷え切っていく身体の中で、鼓動が速さを増していく。
「落ち着け。とにかく、状況の確認からだ」
立ちすくんでいても仕方がない。
必要そうなものをバックパックに詰め込んでいく。
ふと、放り出したままの長包丁に目が止まった。
「……役に立たないでくれよ」
鞘に収め、腰へ差す。
L型ライトをコートの襟に留めると、闇を照らした。
得られた視界は五メートル先まで。頼りなさすぎる光。
「どっちへ行く……?」
問い掛けたところで答えはない。小さな呟きは、静けさを際立たせただけだった。
意識を集中しながら、ぐるりと周囲を見回してみる。
微かな違和感を聴覚が捉えた。
息を止めて、耳を澄ます。
聞き間違いかと思うほど音は小さく乾いていた。遙か森の奥で、枝が折れているのかも知れない。
断続的に続く音から、何かが、ゆっくりと移動している様子を想像した。
「止まった……?」
不意に音が消えた。
暫く待ってみたが、音は届いてこない。
痛いほどの静寂が続く。
音のしていた方を睨んでみるが、頼りないライトの先は、真っ暗闇が広がるだけだ。
「……行ってみるか」
闇の中を慎重に歩き、十分ほどが過ぎた頃。
遠くから声が届いてきた。
男の怒鳴り声。
それに重なる、女性の悲鳴。
「……どこからだ?」
ライトを絞り、音のする方へ進む。
やがて視界が開けた。
急な下り坂だ。
月明かりが差し込む坂下は、狭い平地になっている。
そこに――いた。
大柄な男が、若い女性の長い髪を掴み、殴りつけていた。
近くには、うつ伏せに倒れた、もう一人の女性。
「迷うな。状況は一目瞭然だ」
だが、足が動かない。
男の体格は屈強で、身長は多分百九十センチ前後。素手ではないかも知れない。
「だからこそ、今行くしかない」
男の背を見つめて、意を決すると、全速力で急勾配を駆け下りる。
斜面を蹴って宙を跳び、男の背に踵を叩き込んだ。
「……ッ!」
苦痛の声を漏らした男が振り返ってきた瞬間、右の拳を叩き込む。
男の顎が跳ね上がった。
「これくらいで、死んだりしないよなッ!」
続けざまに左拳で顎を真下から跳ね上げる。
男は白目を剥くと、ガクンと膝を折った。
前屈みに倒れてきたので、もう一発こめかみに右拳を叩き込む。
確実な手応えに反して、男の反応はなく、ただうつ伏せに倒れ込んだ。
「意識を……、失っている間に……」
荒い呼吸を整えながら、バックパックからロープを取り出す。
震える手で、男の腕を後ろ手に縛り上げた。
背後からの視線に気づき、振り返る。
先ほどまで男に髪を掴まれていた女性だ。
頬を腫らしているが、美貌の持ち主だと分かる。金髪碧眼、年齢は二十前後だろうか。
不安そうな表情で、俺のことを見ていた。
「何もしない」
努めて和らげた声で呼びかけ、ゆっくりと両手を広げて見せてやる。
だが、彼女の表情は変わらない。
それどころか、怪訝そうな目を向けてくる。
暴力を振るわれた直後で、気が動転しているのかも知れない。
「仕方がない」
うつ伏せに倒れている女性へ目を向ける。
近付いて手を添えると仰向けにして、呼吸を確かめた。
「生きている……」
外傷もないようだ。
少女然とした頬に触れると、柔らかいし微かに温かい。
気を失っているだけだ。
「悪い、起きろ」
強めに頬を叩く。
女の瞼が重たそうに開き、やがて俺の目と焦点が合った。
次の瞬間、彼女は俺を突き飛ばした。
尻餅をつきながら後ずさり、立ち上がると、目を逸らさずに後退し始める。
「……何もしない!」
両手を大きく広げて、敵意のないことを示す。
眉根を寄せた彼女が、問い掛けるように言葉を発した。
「……何て言ったんだ?」
聞こえなかったわけではない。
呟きが届いたのだろうか。彼女が再び声を掛けてきた。
「どこの言葉だ……?」
再び聞いて確信する。
――彼女の発する言葉は、日本語ではない。
観察する。
身長は百六十センチ前後。
髪色は白金で肩口で切り揃えられている。碧眼。一人目と比べると、顔の作りは彫りが浅い。どちらかと言えば東洋的だ。
流行りのアイドルグループに居そうな可憐な顔立ちには、幼さが残る。おそらく年齢は十五、六あたりだろう。
ここまでには、特に違和感はない。
奇妙なのは衣服だった。
まるで中世ヨーロッパを思わせる簡素な服。腰を粗末な紐で縛っている。
「コスプレ……じゃないよな?」
小声が届いたらしく、首を傾げた後、少女が腰の袋から小さな物を投げてよこす。
足元に転がってきたのは、銀色をした二つの金属。
一つは細い腕輪。留め具がないので、アームバングルに分類されるだろう。
二つ目はイヤーカフのような形をしている。
「……身につければ良いのか?」
問いかけると、彼女は自分の右耳と左手首を示した。
足元に転がる二つの金属と似たものが付けられている。
不安は残るが、仕方がない。
拾い上げて、身につけてみた。
瞬間――
鋭い痛み。
次いで、頭の奥に映像が流れ込む。
過去の記憶……いや、記憶以上だ。
今まさに目の前で起きているような鮮烈さで、次々と光景が突き刺さってくる。
「な、何だ? これは……」
理解が追いつかぬまま、潮が引くように映像は消えた。
映像の奔流に飲まれて、暫く呆然としていたらしい。
おそらく何度目かの呼びかけが、漸く言葉として意識に届く。
「ねえ? 大丈夫……? 嘘? もしかして、クオンが壊れているの……? でも、そんなことって……」
……聞こえた。
確かに日本語として。
だが、彼女の唇の動きはまったく違う。
翻訳――?
思考が追いつかない。
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