錬金工房へ
「レン、こっち」
「外に出るの?」
「そ。雨も止んでるし、丁度よかった」
確かに外の雨はいつの間にか止んでいた。
フローラはランタンに明かりを灯し、扉を開けて外に出た。もうすっかり夜なのに、今からどこかへ出かけるんだろうか?
ほとんど一日歩き通しだった僕は、ふくらはぎに疲労を感じながらフローラを追った。
「さ、着いた」
「もう?」
「そうよ。どうして?」
「いや、すごく近かったから……」
目的地は思いのほか近かった。
それはフローラの家と同じ敷地内にある、いわゆる『離れ』のような建物だった。
物置小屋というにはちょっと大きく、一軒家というにはちょっと小さい。
中は真っ暗で、誰かが住んでいる気配はない。
「入って。暗いから足元に気を付けてね」
「うん……分かった」
フローラが僕に見せたいものというのはこの建物の事らしい。
何となくだけどピンときた。フローラは哀れな僕を宿なしとみて、ここに泊めてくれるつもりに違いない。
今夜の寝床が懸念材料だった僕は、当然嬉しいに決まっている。
どんな言葉で感謝の気持ちを伝えようか考えながら建物に足を踏み入れた。
その建物の中は少しだけ埃っぽい気がしたけど、そんなの全然気にならない。
暗くても分かるくらい部屋の中がゴチャゴチャしていても、体を横たえるスペースがあれば特に気にならない。
なぜか妙な薬品のような匂いが漂っているけど、それもあえて気にしない。
僕の今夜の寝床として、ここは文句のつけようもない場所だった。
「キチンと片付けておけば良かったわ。やっぱり少し散らかってる」
「そう?」
「でも、できるだけお父さんが生きていた頃のまま残しておきたかったの。私だけじゃなく、死んだお母さんもそう望んでいたし……」
「……え?」
フローラはそう言って、ランタンで部屋の中を照らした。
そして僕の目に映し出された光景は、何とも言えず奇妙なものだった。
部屋の真ん中には、何を煮るのか大きな釜がある。
古びた木のテーブルには、重さを計るためであろういくつもの天秤。
他にも、理科の実験に使いそうなたくさんのフラスコや、お香を焚くような小さな炉。
その他は……もはや何に使うのかも分からない、雑多な器具の数々。
そして、大きな本棚には難しそうなたくさんの本。
大量の本は本棚に収まりきらず、一部は床にそのまま積み上げられている。
その表紙には『特別高等錬金術書』と書かれてあった。
「フローラ、ここは一体……」
「ここは、私のお父さんが使ってた錬金工房」
「工房……これが錬金工房?」
「その反応は、やっぱりレンから見ても汚れてるって事よね」
「う、うぅん。そういう事じゃなくて、僕は工房を初めて見るから……」
「そっか、そうよね。レンは経験がないって言ってたもんね」
僕は錬金工房に勝手に研究室のようなイメージを持っていた。
確かにそういう風に見えなくもないが、実際の工房はちょっと違う。例えるとしたら、図書室に工作室と調理場を足して割らないような感じだった。
だけど、今はそれよりも気になる事があった。
「……フローラのお父さんって、錬金術師だったの?」
「ええ、そう。けっこう腕は良かったみたい」
「でも、もう今はいない?」
「うん。私が小さい頃に死んじゃった」
「お母さんも……いないんだ」
「もう、そんな深刻な顔しないでよ。それも何年も前の話」
「でも……何だかごめん」
「レンってすごく優しいのね。別に気にしなくていいのに」
優しいかどうかはともかく、僕の気が利かないのは間違いない。
だけどフローラは、両親を亡くした悲しみからは立ち直っているようだ。
それでもこうしてお父さんの使ったというこの部屋や、僕に貸してくれた服を大切にとってある。
それは、今も想いが深い証拠だと思う。
「私の両親の話はいいの。それより今はあなたの事を決めなくっちゃ」
「僕の……」
「実はね、今日うちに生産者ギルドの人が来たのよ」
「生産者ギルドの人が?」
「そ、若い錬金術師が工房を探してるって言うの。それで良かったらこの工房を貸してあげられないかって相談されちゃった」
「それって……もしかして僕の事なのかな?」
「その時聞いた名前は、レン・アルケミ。お金も全然なさそうだし、もしかしたら住むところもない人だから、できたら何とかしてあげて欲しいって」
「やっぱり僕だね……」
そこまで知っているという事は、あの受付のお姉さんが話をしに来たんだと思う。
僕が当てもなく町を彷徨っている間、彼女は工房を探す約束を果たそうとフローラの家を訪れた。
その後、体力と気力の尽きた僕がフローラの家の軒先を借りに来た。
フローラの含みのある発言もやっと理解できた。
彼女は僕が持っていた申込み用紙を見た時から、全て気付いていたのだ。
「これってものすごい偶然じゃない? 私、ちょっと驚いちゃった」
「僕も。こんな事って、本当にあるんだ……」
「レンは知ってて私の家に来たんじゃないのよね。全然そんな風じゃなかったし」
「ち、違うよ。僕は本当に何も知らなかった」
「だとしたら……神様のお導きがあるのかもしれないわ」
「神様の……」
「だって、そうとしか考えられないもの」
神様がいるとしたら──神様は僕に戦闘スキルを授けず、異世界で孤独に生きる道を強いた。
だけど、こうしてフローラに引き合わせてくれた。
それは考えるまでもなく奇跡的な出来事だ。
「お父さんの思い出のある工房だし、どうしようかなって思ってたけど……レンになら私、貸してもいい」
「ま、待って。そんな大切な工房、僕なんかが使う訳にはいかないよ」
「ほら、そういう風に考えてくれるじゃない。そんなあなたならここをきっと大事に使ってくれる」
「フローラ……」
「生産者ギルドに返事をする前にあなたに会えてよかったわ。もしかしたら、お断りするかもしれなかったし」
「……本当に、僕がこの工房を借りていいの?」
「だって断ったらレンが路頭に迷って死んじゃいそうだし。私も祟られたくないしね」
「そんな簡単に死なないし、祟らないよっ」
「どうかしら。食べ物も寝る場所もなくずぶ濡れだったのに?」
「……はい。ごめんなさい」
死ぬかどうかはさておき、あのままなら体調は絶対に崩した。
体調を崩したまま空腹で残飯を漁ったりしていたら、食中毒か何かでアッサリ死ぬ可能性も否定できない。
だからと言って、別に祟ったりはしない。
「工房は狭いけどベッドもあるし、ちゃんと暖炉もあるわ。いま薪とシーツを持ってくるね」
「あ、ありがとう。本当に何て言ったらいいか……今は無理だけど、いつか必ずお礼する」
「んー……それはあんまりあてにしないでおこうかな。錬金術って普通はあまり儲からないみたいだし」
「それでも何とかするよ。家賃だって絶対に払うから」
「はいはい、分かりました。先の話はともかく、今はまず体を休めなさい」
フローラはそう言って、工房を後にした。
おそらくシーツと薪を取りに行ってくれるのだろう。
一人になった僕は改めて錬金工房の中を見渡した。
フローラのお父さんが使っていたという工房は、確かにかなり年季が入っている。
よく見るとあちこち煤がついていたり、焼け焦げていたり、正体の分からない汚れが付着している。
そして、山と積まれた錬金術の本。
幸いにも僕は読書が大好きなので、活字アレルギーはない。
僕はその一冊を何気なく手に取った。
「……うわぁ」
開いたとたん、声を上げてしまった。
それは普段僕が読む小説とはかけ離れていた。
文字の絨毯と言えばいいか、とにかく字が小さくて読みにくい。それでも読めない事もないけれど、内容が専門的過ぎて全く理解不能。
いきなり『特別高等錬金術書』なんかに手をだした僕がバカだった。
とにかく今はフローラの言った通り少し休んだ方が良い。
僕は読書を諦め、埃っぽいベッドに腰を下ろした。埃っぽくはあったけど不潔感はなく、このままでも充分眠れそうだった。
「……ん……」
お腹いっぱい、夕食をご馳走になったからなのか。
それとも安心できる環境に気が抜けたのか、柔らかなベッドの感触は、すごく僕の眠気を誘った。
思えば、ゆっくり休む暇なんてこの異世界に来てから全然なかった気がする。
僕の体は猫みたいに丸くなり、いつしかベッドに沈み込んでいた。
せめてフローラが戻ってくるまで寝ちゃいけない。
そう思ったけど、もう意識を保つのが困難だった。
不意に、ベッドの柔らかさに負けないくらい柔らかな声がした。
「レン? もう寝ちゃったの?」
「……すぅ……」
「すごく疲れていたのね……おやすみなさい」
僕の体に温かな毛布が掛けられた気がした。
瞼の裏に感じていたランタンの火が消え、完全な暗闇が訪れた。
その暗闇の中、僕は泥のように眠った。