EP23 猛襲の牙
念信を放とうとした姿の見えない襲撃者に威嚇射撃ならぬ威嚇投擲をして、数秒後。大気を震わせる魔獣の咆哮が霧の壁を突き破り、隼人の耳朶を打った。
「これは……!」
聞く者に恐怖を刻む魔の咆哮。それが聞こえてから間を置かずに、高速で迫る気配を感じ取る。
森という障害物の多く起伏の目立つ地形を無視して疾走する走破性は、餓鬼のそれではない。優れた脚力を備えた獣鬼に違いない。
「獣鬼か……!」
魔獣の進行方向には、猛々しい咆哮に委縮して立ち尽くす丸腰の少女がいた。
獣の摂理は弱肉強食。非武装の相手だろうが容赦しない。武器を持たぬ弱者を襲うのは卑怯などというのは、人の理屈であり、獣には通用しない。それどころか格好の的になる。
「冬木――!」
美鶴への攻撃を察知した隼人は、咄嗟に刀を握っていない左手で彼女を突き飛ばした。
「きゃっ……!」
胸元を強く押された美鶴は背後に転倒し、餓鬼の死骸の上に横たわった。直後、霧の中から巨大な犬型獣鬼が飛び出してきた。
「ガァァァァッ!」
つい一秒前まで美鶴がいた空間を、魔獣の牙が交差する。一本一本が大型ナイフのようなその牙は、美鶴を突き飛ばした隼人の左腕に突き刺さった。
「ぐっ……!」
滴る鮮血が枯草を赤く濡らす。左腕を貫かれた痛みを、奥歯を噛んで堪えた隼人は、反撃の刃を魔獣の首に突き立てた。
深々と突き刺さった対魔刀。それは首から空に向かって斜めに生えた操作レバーのように思えた。引けば傷口という放水口から血を放出する操作レバーだ。
「このまま喉をかっさばいてやる!」
そうして操作レバーを下ろすように、対魔刀の柄を引いて魔獣の喉を切り裂こうと試みる。しかし、その直前、正確には対魔刀に力が加わった瞬間、攻撃の予兆に気付いた犬型獣鬼は、隼人を咥えた状態で首を振り回して抵抗した。
自ら傷口を広げることを厭わず、猛烈な勢いで首を振る獣鬼に、隼人は攻撃を中止し、振り落とされないようにしがみつく。
だが、獣鬼の抵抗は凄まじく、翻弄された隼人は、力が緩んだ一瞬の隙をついて投げ飛ばされた。彼の体は高速で宙を飛び、受け身も取れないまま、硬い木の幹に打ち付けられた。
「がはっ……!」
「長峰さん!?」
背を打つ強い衝撃と鋭い痛みで脳が蹂躙された。失いかけた意識は、美鶴の悲鳴を耳にしてどうにか繋ぎとめた。
「くっ……」
空になった右手を地面に置いて、隼人が頭を起こす。すると彼の目の前に対魔刀が落ちていた。その刀を掴もうと彼が手を伸ばすと、美鶴に近づく犬型獣鬼が視界に入った。
「待て……!」
制止を求める隼人の声など構うことなく、犬型獣鬼は美鶴に迫る。
「ちっ……!」
対魔刀を拾い上げた隼人は、両脚に渾身の力を込めて走り出す。魔獣の因子によって傷が治癒するとはいえ、まだ左腕は完治していない。それでも片手のみの不完全な構えで斬魔一閃を放とうと、隼人は対魔刀を振り上げる。
「間に合え――!」
隼人から美鶴までの距離はおよそ二〇メートル。だが、そのわずか二〇メートルがあまりにも遠い。彼が一歩踏み出す間に、魔獣もまた一歩を踏み出す。その眼前にいるのは、一人の少女だ。見るからに華奢な彼女は、魔獣の誇る鋭い爪牙を防ぐ術を持たず、容易く肉体を引き裂かれてしまうだろう。
「っ……」
牙を剥き出し、唸りを上げながら近づく魔獣を正面に見据えた美鶴は、首のチョーカーに左手を当てて目を閉じる。
美鶴は生存を諦めたわけではない。彼女は集中力を高めようと視覚を閉ざしたのだ。
「――?」
怯えていた標的の纏う空気が一変したことに、犬型獣鬼は訝しんだ。得体の知れない胸騒ぎを覚えた魔獣は、野生の直感に従い、跳躍のために助走を開始する。
俊敏性の高い犬型獣鬼。だが、それよりも思念の声の方が速い。
深呼吸をし、瞼を開けた彼女は――
『戦いをやめなさい』
凛とした声で念信を放った。
響き渡る思念の声。それを聞いた獣鬼は、ぴたりと動きを止めて硬直し、目を見開いて彼女を凝視する。
その視線を臆することなく見つめ返した美鶴は、左手を首のチョーカーに添えたまま、残った右手を魔獣に向けてかざした。
『あなたのいるべき場所に還りなさい』
続けて放たれた念信を聞いた犬型獣鬼は、虚ろな目をして頭を巡らせた。そうして二人に背を向けると、半分眠っているようなおぼつかない足取りで瘴気の中に消えていく。
「逃げた……のか」
獣鬼の後ろ姿と徐々に薄れる瘴気の霧を目にして、隼人は安堵の声を漏らした。
「動けなかった……」
歴戦の葬魔士である隼人は、獣鬼の咆哮に身を竦ませることはなかった。しかし、美鶴の念信は違った。彼は無意識に動きを止めてしまっていた。規格外の力を誇る念信能力者である彼女の声には、抗い難い威力があったのだ。いや、正しく表すなら、威力ではなく魅力、と言った方がいいかもしれない。
ともかく、獣鬼が途端に戦意を失ったのと同様に、隼人もまた獣鬼への戦意がすっかり抜け落ちていた。それはまるで暴風が吹き、波が荒れ狂う大海を一瞬で凪に変えたかのようだった。
やはり、鍵の巫女、と称される彼女の力は、伊達ではないのだ。
「長峰さん、大丈夫ですか!?」
拾い上げた刀を血振るいして納めた隼人を見て、戦闘が終わったと知った美鶴は、慌てて彼に駆け寄った。
常人では余りある力を発揮したにもかかわらず、彼女の様子に変わりはない。いつものように隼人の身を案じて、憂いを帯びた表情をしていた。
「……ああ、これくらいすぐに治る」
物思いに耽っていた隼人は、その思考を中断すると、魔獣の因子によって既に傷の塞がった左腕を持ち上げて彼女に見せた。
「それより……驚いた。冬木、念信を制御できるようになったんだな」
美鶴の念信に反応せずに沈黙を続ける魔蝕の右腕に視線を走らせながら、隼人はそう言った。
猟魔部隊による攻撃の後遺症も影響しているのだろうが、右腕に異変の兆候はない。そして彼女の念信を察知した魔獣が集まってくる気配もない。
美鶴は念信の効果と範囲を任意に設定したのだ。それは彼女が念信を制御できていることの証明だった。
「え……」
隼人に指摘された美鶴は、一瞬、戸惑いの表情を浮かべた後にはっとした。
「あっ……ごめんなさい。私、夢中で……」
「制御できるって確証はなかったのか」
「支部長に指導していただいたおかげで、その、ちょっとは上達したと思うのですが……成功するかは分かりませんでした」
「支部長に……?」
傷を負った隼人が医務室で治療を受けている間に、美鶴は陽子から念信の手解きを受けていたのだろう。
念信の鍛錬は、本来なら隼人に任された仕事だったが、悠長に教えている時間はなかったのだ。
しかし、こうして対抗する術を身に付けていたおかげで、犬型獣鬼を退けることができたのだった。陽子の判断は正しかった、ということだろう。
「そうか……」
少し残念そうな響きを含んだ声で、隼人はぽつりと呟いた。
「あの……ごめんなさい」
「いや、あの状況じゃ仕方なかった。俺が不甲斐ないせいだ……すまなかった」
隼人が頭を下げると、美鶴は困り顔で首を横に振った。
「そんなこと……長峰さんに助けてもらわなかったら、危なかったです」
そう言って安堵の表情を浮かべた美鶴は、自身の胸に手を置いた。その仕草を目にした隼人は、魔獣の攻撃から逃がすため、咄嗟に彼女の胸元を突き飛ばしたことを思い出す。
「……」
ほのかな弾力を秘めたやわらかな感触を想起した隼人は、左手をじっと見つめた。
「長峰さん?」
左手に視線を落として黙り込んだ隼人の様子を訝しんだ美鶴は、彼の顔を覗き込んだ。
「あ、いや……俺は葬魔士だからな。お前を守るのは当然だ」
熱くなった頬を隠すように顔を背けた隼人は、照れた様子でそう言った。
「でも、ありがとうございます」
隼人の照れた理由など露も知らない美鶴は、そっと微笑みを浮かべて彼を見た。
「……ああ」
淡い罪悪感を抱いた隼人は、彼女に聞こえないくらい小さな声で、
「すまない」
と詫びた。




