EP22 泥濘に立つ
一振一殺。刀が振るわれるたび、魔の獣は死体に変わる。群れの直中に突っ込んだ隼人は、雑草を刈り払うように豪快に餓鬼を蹴散らしていく。
今の彼に不調の影はない。後遺症を抱えた肉体の操縦方法を松樹翔との模擬戦で把握した隼人は、手にした対魔刀の真価を遺憾なく発揮している。
一撃一撃がまさに必殺。瘴気の霧に潜んでいた魔獣の群れは、あっと言う間に斬り捨てられ、血と肉の泥濘と化していった。
「はぁぁぁぁ!」
彼の気迫はまさに修羅の形相であり、相対する者からすれば、恐怖の化身である。
「何よあれ……」
そう呟いたのは、瘴気の霧に身を隠した茶髪の女伏魔士――常盤葵だった。
傍らに犬型獣鬼を従えた彼女は、獣鬼が率いる餓鬼で構成された魔獣の群れと葬魔士の戦いを、瘴気を媒介とした遠見の目によって注視していた。
なぜこの伏魔士が魔獣に襲われないのか。それは彼女の念信が魔獣を従えることに特化した“隷属”の念信であるからだ。彼女はその能力で群れの頭である犬型獣鬼を従えると同時に、獣鬼が支配する群れを操っていた。
犬型獣鬼に服従する餓鬼は、葵とその仲間である伏魔士を襲うことを獣鬼に禁じられ、さらに彼女の命令を聞くように調教されていた。
念信によって魔獣の群れを操る彼女は、たった一人で大勢の敵を相手取ることができ、時間稼ぎに適任である。そのため、葬魔士から奪還した鏖魔神斬剣を隠れ家に運ぶまでの時間稼ぎを仲間から任されていたのだ。
先日、第四支部の葬魔士と遭遇した際は、あっけなく返り討ちにしてやった。ついさっきの輸送部隊も同様に苦もなく撃破した。
だのに、目の前の光景は何だ。見る間に群れが滅ぼされてしまうではないか。これでは時間稼ぎどころではない。
仲間内で涼しい顔をしていられたのは、与えられた役割を果たしていたからだ。ここで失敗しては、主導権を保つことはできないだろう。
「ちっ……」
舌打ちをした葵は、温存していた補充要員を呼び寄せようと、意識を集中させた。
『シェフ! 群れを呼びなさい!』
念信による指示に従い、犬型獣鬼が遠吠えで補充要員を呼び寄せた。すぐさま呼び声に応じ、実体化した餓鬼が、次々に葬魔士に駆け寄っていく。
「――!」
新手の接近を察知したのか、葬魔士の男は目を見開いた。吠えながら迫る二体の餓鬼による前後からの挟撃――否、それだけではない。さらに右方から新たな餓鬼が突然現れ、奇襲を仕掛けた。
「終わりね」
動揺した葬魔士を見て、葵がほくそ笑んだ。彼の左方には大木があり、逃げ道を塞いでいる。三方からの同時攻撃は、さすがの彼も躱せまい。仕留めきれずとも、手傷を負えば、後はどうとでもなる。動きの鈍ったところで、数の暴力で蹂躙してやる――
「……え?」
だが、そんな彼女の目論見は外れた。
素早く周囲に視線を走らせた彼は、左方の大木を目にすると、その大木に向かって走り出したのだ。
ぶつかる寸前でも、男は止まらない。むしろ加速し、大木の幹に足を乗せると、勢いに任せて駆け上がり、幹を蹴って空へ跳躍した。
「なっ――!」
葵が絶句するのも無理はない。葬魔士の男は襲ってきた餓鬼の頭上を宙返りで飛び越えると、空中で身を捻らせて斬撃を放ち、背後から首を刎ねたのだ。軽業師じみた曲芸機動は、異形の怪物でさえ立ちすくみ、目で追うばかりだった。
「あれが葬魔士……伏魔士の敵」
首を失った餓鬼が倒れる刹那に、残った二体を一瞬で屠った男を見て、葵は思わずそんな言葉を口にしていた。
葬魔士は伏魔士の敵。小さい頃、村の大人からそう教えられた。
彼らが語る憎しみの理由は、まだ幼い葵には理解できなかった。ただ、葬魔士を憎め、と言う大人たちの顔は、皆、仮面を貼り付けたように無表情だった。それがひどく怖かったことは憶えていた。
「ギャオッ――!」
餓鬼の悲鳴で葵は我に返った。今、葬魔士に斬り伏せられたこの個体が、補充要員の最後の一体だった。
「群れが……」
葵は茫然とした声で呟いた。彼女にとって無敵の軍勢だった魔獣の群れ。それがわずか数分で全滅していた。
これまで遭遇した他の葬魔士は、いずれも名ばかりの強さだった。だが、彼は違う。三〇体を超える魔獣の群れを滅ぼしてなお、無傷だった。
完全に失敗した。時間稼ぎが目的なら、無理に倒そうとする必要はなかったのだ。焦りがこの失態を招いた、と葵は打ちひしがれていた。
魔獣の死骸が作り出した血肉の泥濘に立つ葬魔士。その絶望的光景を目にした葵の脳内には、もはや逃走という言葉しか残っていなかった。幸いまだシェフという最大の切り札が残っている。シェフがいれば群れの再建は可能であり、犬型獣鬼の俊敏性なら、逃走も難しくはないだろう。
そう思案を続けながら男を観察していると、ふと、彼の背後にいる少女が目に入った。
「あっちの女は、全然戦ってない。ううん、違う……戦えないの?」
葬魔士の後方にいる少女に視線を向けた葵は、眉根を寄せて苛立ちを露わにした。そういえば葬魔士の男はわざと派手に動き回り、群れの注意を引き付けているようにも見えた。
「後ろで守られているだけなんてお姫様気取り? 気に食わないわね」
一般人を襲うのは御法度だが、葬魔機関の制服を着ているあの少女は、機関の関係者だ。であれば、より弱い獲物を狙うのは、戦略として当然のこと。あの少女を襲えば、男は気を取られるはず。そう考えて標的を変えようとした葵は、傍らの犬型魔獣に目をやった。すると彼女は、途端に言葉を失った。
「シェフ……?」
彼女が見たのは、歯を剥き出しにして威嚇する獣鬼だった。前方を見据える目は血走り、呼吸は荒い。これほどまでに荒ぶるシェフを、葵は見たことがなかった。
群れの仲間が殺され、怒りで念信の効果が薄れているのか。それとも念信を阻害する何かが力を乱しているのか。少しでも気を緩めれば、この魔獣は今すぐ駆け出してしまうだろう。いや、下手をすると自分自身が襲われてしまう恐れもある。
「……っ」
緊張した顔で傍らの魔獣を見た葵は、念信を使おうと意識を集中させる。
『シェフ、私の声を聞きなさ――え?』
念信を放つ瞬間、薄霧の中で閃く光が見え、何かが顔を掠めて通り過ぎた。その直後、葵の背後にある木の幹に、硬い物がぶつかったような乾いた音が鳴り、彼女の右頬に鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
恐る恐る手の平で頬に触れると、真っ赤な血がべったりと付着していた。痛みに怯んだ葵は、いつしか集中が途切れていた。
「ガオオッ――!」
犬型獣鬼の咆哮が森に木霊する。その咆哮で、念信の効果が途絶えた、と葵は知った。彼女が動揺している間に、犬型獣鬼は駆け出した。
「シェフ、待ちなさい! シェフ!」
襲われる危険を冒して呼びかけるも、犬型獣鬼の足は止まらない。霧の向こうにいる標的目掛けて、魔獣は猛進した。