EP03 支部長面会Ⅱ
隼人が立ち上がったその時、部屋を仕切っていたカーテンがさっと開き、彼の主治医である桑野成実が顔を覗かせた。
「あのさ、陽子。ここ医務室なんだけど。あんたの部屋じゃないんだけど?」
「ここは私の支部だ。何をしようと私の勝手だろう」
「なんつー暴君。ていうか隼人君、あたしの患者なんだけど? こき使うのまだ早くない?」
「それを言うなら、長峰は患者である前に私の部下だ。それにもうすぐ患者ではなくなる。この診察が終われば、めでたく出所だ」
「出所言うな。退院って言え」
陽子の言動を不快に思った成実は、むっとした顔でそう言った。
「訂正はしない。ああ、長峰。分かっていると思うが、砂糖はいらないからな」
戸棚からコーヒーカップやインスタントコーヒーの入った瓶を取り出していた隼人の背に向かって、陽子が言った。
「隼人君、陽子の雑用なんてしなくていいからね。あっ、それはそれとしてあたしは砂糖マシマシでよろしく」
「はぁ……」
雑用をしなくていい、と言いつつ自分もコーヒーをせがむ成実に軽く困惑しながらも、隼人は慣れた手付きで準備していく。
「そうだ桑野。この間買ってきたという菓子はどうした?」
「何の話?」
きょとんとした顔で成実が聞き返した。
「ほら、食堂で私に自慢していただろう。コーヒーに合う菓子が手に入った、と」
「え? そんなのとっくに食べちゃったわよ」
「何だと……?」
ショックを受けた陽子は、愕然とした様子で硬直する。
「えっと……あ、隼人君の右腕、大分よくなったみたいね」
陽子の視線から逃げるように隼人の背に目を向けた成実は、話を誤魔化そうとした。
「おい、話をすり替えるな!」
「ねぇ、隼人君。今はどんな感じ?」
「そうですね……若干、痺れが残ってますけど、日常生活に不都合はありません」
背後の会話に辟易しつつも、隼人は成実の問いに答えた。
猟魔部隊の放った黒い矢――魔獣捕獲用封印弾“禁門の矢”に射貫かれた右腕と左脚は、支部で目覚めた後、しばらく感覚が鈍っていた。特に感覚が鈍かったのは、右腕だった。矢を射られた箇所は傷みがあるものの、指先の感覚がどうも鈍い。最初は、数日間眠っていたせいだろう、と悠長に構えていた隼人だったが、すぐに異変に気付く。まるで麻酔を打ったように右手の感覚が不鮮明であり、箸を掴むことすらままならなかったのだ。
目覚めてから二日間は、指で触れたり、針で突いても感触がほぼなかった。どうにか感覚が戻ってきたのは、三日が過ぎてからだった。
今では右腕も左脚も普段どおり動せるようになったが、感覚の鈍化は微弱な麻痺となってまだ残っている。それでも当初と比べれば見違えるほどであり、精密な動作には若干の不安があるものの、日常生活の範疇では別段、支障はなくなっていた。
「猟魔の奴ら、厄介なことをしてくれたな……まったく」
「この痺れはあの矢のせいですか」
「少し違うな。お前のそれは、矢と念信の相乗作用によるものだ」
「あの矢には、伏魔の封印式が刻まれている。念信能力者でなくとも、魔獣を捕獲、封印することができるようになっているわけだ。そんなものを撃たれたうえに封印の念信を受けたとなれば、麻酔を過剰投与したようなものだ」
「私や冬木の念信は、あくまでお前の魔獣を鎮めることを第一にしているが、連中はそんなことお構いなしだからな」
呟くように言った陽子の言葉に隼人は首を傾げた。
「あれ? 支部長の念信封印は、力づくで押さえつけるイメージだと言ってませんでしたか……?」
「ふん。奴らは、私以上に乱暴だ。鎖に繋いで檻に閉じ込めるのとはわけが違う」
「どういうこと?」
二人の話を聞いていた成実が口を挟んだ。
「そうだな……例えるなら、門が開かないように幾重もの木の板を釘で打ちつけるようなイメージか。稚拙で乱雑、その場しのぎもいいところだ。なりふり構わず、後のことなんてまるで考えていない出鱈目な封印式さ。だからそんな後遺症が残ってるんだ」
コーヒーを淹れる手を止め、白い包帯に覆われた右腕に視線を向けた隼人は、包帯の上から何本もの釘が刺さっている様を想像して顔をしかめた。
封印の念信を放った猟魔部隊。猟魔の名が意味するのは、魔を狩る者。魔獣を狩るためには、一切の慈悲が無く、どんな手段でも厭わない。それは、その身に魔獣を宿す隼人と猛も例外ではなかった。
右腕に施されたこの封印も、今までの封印とは似て非なるものだ。封じられる者の安全など一切考慮していない。死ねばそれまで、といった具合である。
「ああ、ところで桑野。長峰の侵蝕範囲はどれくらい広がった?」
再び手を動かし始めた隼人は、背後から聞こえた声に聞き耳を立てた。
「それがね……範囲自体はさほど広がってなかったわ」
「……!」
予想外の言葉に隼人の手が止まった。驚いた表情のまま、ぴたりと停止する。
「範囲はあまり広がってないけど、深度が深くなってるの。そうね……」
「範囲ではなく深度……新たに領土を得るのではなく、既に獲得した領土を補強したか」
言葉に詰まった成実の後を、陽子が継いで言った。
「ええ。城砦を築いて守りを盤石にするように、ね。でも、何があったのかしら。侵蝕のパターンがこんな急に変わるなんて……」
成実の呟き声を耳にした隼人は、原因は公園での戦闘だ、と推測した。
美鶴目掛けて振り下ろされる大剣を受け止めようとしたその瞬間、彼女の叫びを聞いて魔蝕の右腕が赤く明滅したのだ。
これも鍵の巫女である美鶴の力が関係しているのだろうか、と隼人は訝しんだ。
だが、その推測を声に出すことはできなかった。言えば、美鶴に追及の矛先が向けられ、彼女の不安を煽ることになる。そう考えると、言葉にすることが恐ろしかった。
「……」
あれこれと思考を巡らせる隼人は、カップの中で静かに揺れる湯気をぼんやりと見つめていた。
「あれ? 隼人君、コーヒーまだ?」
隼人の背後にいる成実は、彼の心情など露知らず、動きが止まったままの彼の様子を訝しんでのんきな声で尋ねた。
「え……あっ、すいません。お待たせしました。どうぞ」
「ふぅ……やっと一息つけた」
先に隼人からカップを受け取った陽子は、湯気が立つ熱いコーヒーを一口啜ってからそう言った。
「うん、おいしい! やっぱり男の子に淹れてもらうコーヒーは最高ね!」
手渡されたカップをすかさず口に運んだ成実は、満足げな笑みを浮かべた。
「はぁ、そうですか」
インスタントですけど、と隼人は付け加えた。
「インスタントでこの味なら、大したもんよ。段々上手になってるじゃない」
「おい桑野、お前……いつもこうやって長峰にコーヒーを淹れさせてたのか?」
陽子から疑いの目を向けられた成実は、カップを口にしたままの姿勢で固まった。
「え……あーリハビリよ、リハビリ。指先のトレーニング!」
「お前な――」
陽子が呆れた声を出したそのとき、彼女の声を遮るように館内放送を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「東雲支部長、東雲支部長。お客様がお見えになりました。至急、応接室までお越しください」
「客だと? 予定は入ってなかったが……」
館内放送を訝しんだ陽子は、まだ中身がなみなみと残ったカップを見つめて溜め息を吐いた。
「はぁ、まったくコーヒーの一杯もおちおち飲めないとは。仕方ない。長峰、残りはお前にやる」
「えっ、これ飲みかけですよ……」
陽子から手渡されたカップと彼女の顔を交互に見た隼人は、動揺の声を漏らした。
「何だ。いらないのか?」
「支部長だって俺の飲みかけを渡されたら、嫌ですよね?」
「ふっ、私は飲めるぞ」
「え……」
驚く隼人を尻目にして、からかうような笑みを浮かべた陽子は、颯爽と医務室を出ていった。
医務室に残された隼人と成実。彼女は口元に運んだ自分のカップ越しに陽子から手渡されたカップを持った隼人をじっと見つめていた。
「ねぇ、隼人君。それ飲むの?」
「ま、まさか……」




