EP01 獣神の祭壇
冬木美鶴が目を覚ますと、そこは真っ暗な空間だった。
まだ夜が明けないのだろう、と思った彼女は、ベッドから起き上がろうとして枕元に手を置くと、手の平が冷たく硬い床に触れた。
「え……!?」
それと同時にじゃりじゃりとした感触が指先から伝わり、その手触りに驚愕した美鶴は慌てて飛び起きた。
暗がりの中で指先を見ると、砂のような粒が付着しており、足元に視線を落とすと、硬い石の床の上にいたことを知る。
「ここは……どこ?」
困惑した美鶴の声が、床に反響して闇に吸い込まれた。どうやら想像以上に広い空間のようだ。
葬魔機関での慣れない生活で疲れていた美鶴は、機関の制服を着たまま、ベッドに横たわっていたのだが、いつの間にか眠ってしまったのだろう。それは彼女にも理解できた。
彼女が理解できないのは、この謎の空間のことだった。
出口を探して周囲を見渡すも、壁すら見当たらない。まるで深海にいるように周囲は黒く塗り潰され、見通すことのできない闇が広がっている。
そんな黒一色の世界で、それでも美鶴の目が見えるのは、遥か遠くに見える一本の光の柱のおかげだろう。地上から天に向かって突き刺さるようにして屹立したそれは、この空間を支えるようにも見え、透明な壁に覆われた内側から眩しい光を放つ光景は、まるで巨大な蛍光灯のようだった。
「……」
ぼうっとした表情で立ち上がった美鶴は、柱が放つ光に誘われたかのように、ふらふらとした足取りで柱に近づいていく。しかし、すぐに妙な気配を感じて立ち止まった。
「……?」
闇に閉ざされた空間が、蠢くように揺れている。我に返った美鶴が目を凝らすと、闇色の霧が辺り一面に漂っているのが見えた。その光景に見覚えがあった彼女は、さっと顔色を青ざめさせた。
「瘴気……!」
魔獣を生み出す魔性の霧、瘴気。その霧に囲まれているとなれば、魔獣に囲まれているようなものだ。魔獣に襲われた恐怖を思い出した彼女の背に冷たい汗が流れ落ちる。
「……え?」
ふと揺らめく紺色の霧の向こうに影が見えた。だがそれは、彼女が懸念していたものではなかった。
瘴気の向こうに見えたそれは、一つの人影だった。少女のものと思しき長い髪に華奢な人影が、柱の前にぽつんと立っていた。
見えた影が魔獣のものではないと知って安堵した美鶴は、彼女に話しかけようとして駆け寄った。
美鶴が近づくと、少女の姿が徐々に明らかになった。黒く長い髪に白い肌。白装束に身を包んだ日本人形を思わせる少女が、虚ろな目をして立っていた。
「あの……!」
そう言いかけて、そこにいた少女が一人ではないことに気付く。否、正確に表すなら、少女が増えた。
ぽつりぽつりと滲み出すように、霧の中から続々と少女たちが現れる。周囲を覆う霧のせいで鮮明には見えないが、その姿は、いずれも先に現れた少女にそっくりだった。白装束を身に纏った少女たちは、最初からそこにいたように、柱の前にずらっと並んで立っていた。
「……!」
いつしか無数の視線が、品定めでもするように自分を凝視していた。無言の少女たちは、何かを訴えているように思えた。彼女たちの意図を知ろうと意識を集中させた美鶴は、少女たちの放つものとは異なる強い気配を感じ取った。
『そう……あなたが選ばれたのね』
ふと声が聞こえた。よく響く透き通った声だ。その声がした方を向くと、数メートル先に一人の少女が立っていた。不思議なことに彼女の周囲だけ、明らかに瘴気の霧が薄い。
まるで霧が彼女を避けているようだ、と美鶴は訝しんだ。そうして見る間にカーテンが開くように霧が流れ、彼女の姿が露わになる。
「綺麗……」
彼女の姿を目にした美鶴の口から、そんな感想が漏れ出た。彼女は格好こそ周囲の少女たちと変わらないが、その雰囲気は明らかに異質だった。
闇を照らすように輝く淡い金の髪に夜空を思わせる紫水晶のような瞳。陶器を連想させる白い肌は、遠目から見ても分かるほど滑らかな質感があり、常人離れした怪しげな美貌を放っていた。
「……」
「あっ、あの……ここはどこですか?」
金の髪の少女にじっと見つめられた美鶴は、どうにか声を絞り出して尋ねた。彼女は考えるように少し沈黙した後、ゆっくりと口を開く。
「あー」
「……?」
彼女は大きく口を開いたまま、一定の音量で声を出した。
「いー、うー」
「えっと……?」
金の髪の少女は音程を変えながら、淡々と声を出し続ける。まるで発声練習だ。彼女の突然の行動に戸惑った美鶴は、怪訝な顔で少女を凝視した。
「ごめんなさい。喉を使うのは久しぶりなの。ねぇ、私の声は聞こえてる? 言葉は通じる?」
「はい、一応……」
「そう、よかった。それで……何を聞こうとしたのかしら?」
首を傾げてみせた少女に困惑しながらも、美鶴は意を決して口を開いた。
「ここはどこですか?」
問いを投げる張り詰めた美鶴の声が闇に響くと、少女はその響きを反芻するように頷いた。
「ここは獣神の祭壇。贄を捧げる神聖な場所」
不穏な言葉を耳にした美鶴は、眉をひそめた。
「贄……?」
何を捧げるのか。誰に捧げるのか。二つの質問が、美鶴の頭に浮かんだ。
「誰にですか?」
少し悩んでから、美鶴は後者を尋ねた。
「あなたたちは“呪堕”と呼んでいたかしら」
「呪堕――!」
少女の言葉に驚き、目を見開いた美鶴は、彼女の背後に山のように巨大な影が浮かび上がる様を見た。
「選ばれたって、まさか……!」
「でも……今はまだ、あなたが来るべき時じゃない」
金の髪の少女が美鶴に手の平を向けると、彼女の体は吹き飛ばされるように後方へ勢いよく飛んでいった。
「待って! あなたは一体――」
「さようなら。二度と会わないことを願っているわ」
美鶴の叫ぶ声を遮るように、金の髪の少女は別れを告げた。そうして霧の向こうに美鶴の姿が消えると、巨大な影もまた霧に紛れるように薄れて消えていった。
「新たな巫女が選ばれた……そう、目覚める時が来たのね」
誰に聞かせるでもなくそう呟いた少女は、星のない暗い空を見上げた。
「できることなら、このままずっと眠っていたかったのだけど……」
「はぁっ! はぁ、はぁ……はぁ……」
ベッドを激しく軋ませながら、美鶴は跳ね起きた。荒い呼吸を落ち着かせようと胸元に手を当てると、シャツがぐっしょりと汗で濡れていた。
「私、何を……? 夢?」
夢の中で、想像を絶する光景を目の当たりにした……気がした。
「……思い出せない」
夢にしては妙に現実感があった。それは憶えているが、肝心な夢の内容をまったく思い出せない。
「……」
思い出せないものをいくら考えていても仕方がない。一先ず、自身が無事だったと知った美鶴は、安堵の息を吐き出した。
「え?」
シャツから離して無意識に握った手の中に、奇妙な感触があった。訝しんだ彼女が、その手の平を見ると、紺色の砂粒が付着していた。
それはまさに瘴気の霧と同じ色だった。