EP10 夢の終わり、魔法が解ける時
木の根を枕に眠っていた隼人は、髪を撫でるそよ風に目を覚ます。
「……?」
だが、どうもその感触は普通のそよ風ではない、と隼人は訝しんだ。目を瞑ったまま、おぼろげな感覚に意識を向けると、誰かが髪を撫でているようだ。
きっと寝ぼけているのだろう。昔、こんなことがあった気がする。確かあれは隼人がまだ幼い頃のことだ。
養子として迎えられたあの家で、隼人はある女性に世話になっていた。眠りに落ちる前に感じた腕の痛みが、彼女を思い出せたのだろうか。
「姉さん……」
懐かしさから呟くように彼女を呼ぶと、頭上でくすりと笑う声が聞こえた。
「ふっ……私はお前の姉ではないぞ」
「えっ?」
記憶にある声と様子が違うことを不思議に思った隼人は、重い瞼をそっと開けた。瞬きを数回繰り返すと、次第にぼやけた視界が鮮明になっていく。
「――!」
横になっている隼人を覆い被さるように見下ろしていたのは、浅江だった。
「目が覚めたか隼人」
「あ、ああ……?」
想定外の人物を目にして困惑した隼人は、ふと現在の状況に疑問を抱いた。
「ふむ……どうかしたのか?」
後頭部に伝わる感触は、木の根の硬さではない。弾力を秘めた柔らかさを布越しに感じる。そして上から覗き込む浅江の顔と自分の体勢。これらから導き出される答えは――
「ひっ……」
「ひ?」
状況を理解した隼人が声を震わせる。そんな彼を見た浅江は首を傾げた。
「膝っ――!?」
慌てて跳び起きた隼人は、突如右腕に走った激痛に顔をしかめて咄嗟に腕を押さえた。
「って、痛った……」
「無理をするな。まだ痛みが残っているのだろう。ほれ」
痛みに悶える隼人の肩を掴んだ浅江は、先ほどと同じように彼を膝の上に寝かせようとする。
「お前、何やってるんだ!」
「何って……膝枕、というやつだな」
動揺した隼人が悲鳴じみた叫びを上げるも、浅江は平然とした様子でそう答えた。
「なっ、な、な……!」
「何を驚く。今までぐっすりと眠っていたくせに」
言葉にならない隼人の声を聞き、浅江はくすりと笑みをこぼす。
「俺が聞きたいのは、何をしてるのかじゃなくて、どうしてこんなことをしてるのかってことだ!」
混乱していた隼人は、やっとのことで我に返ってそう叫んだ。すると答えに窮した浅江は、頬を掻いて視線を逸らした。
「今日の礼だ。その……一日、付き合ってくれただろう」
「え? 礼なんて別に……お前こそ俺を支部から連れ出してくれたじゃないか」
「私一人では、この靴を買う決心がつかなかった。どうせ私のことだ。今日、買わなかったら、きっと心残りになったことだろう。後で思い出して、“ああ、あのとき買っておけばよかった”と後悔していたはずだ。最悪、任務中に思い出して戦闘に集中できなかったかもしれん……」
しみじみと浅江がそう言うと、隼人は困惑の表情を浮かべた。
「そ、そこまでか……」
「ああ。その心残りが無くなったのは、お主のおかげだ。だから……その礼だ」
「その……木の根を枕にするよりはいいだろう?」
頬を赤らめながら訥々と言う浅江の様子に、隼人は顔が熱くなった。
「そりゃまぁ……木の根よりは、な」
「なら、もう少しこのままでいろ。私の話に付き合え」
「お前の話……?」
隼人が問いを投げると、遠い目をした浅江が頷いた。
「憶えているか……? 私とお主が最初に会った日のことを」
「えっ……ああ、憶えてるぞ」
「あの日もこうして桜が舞っていたな」
夜空にひらひらと舞い散る桜の花びらを見つめた浅江がそう言った。
「……そうだったな」
「あのとき、私は迷っていたのだ」
「迷っていた? 何を……?」
神妙な声で呟く浅江を見つめた隼人の顔が、真剣な表情に変わる。
「このまま剣士として生きていくか。それとも剣を手放し、一葬魔士として自らの在り方を矯正するか」
「私は兄弟子や姉弟子たちのように優れた葬魔士ではない。かろうじて抜刀術のみが取り柄だった。今時、私やお主のような剣士は不要とされている。その理由は知っているであろう?」
「他の葬魔士と連携が取れないから……だな」
「ご名答。今の葬魔士に求められているのは、一芸に特化した剣士ではなく現代装備に身を固めた兵士だ」
隼人も浅江も剣士であるため、つい忘れがちであるが、葬魔士全体からすると近接武器を主な武装として扱う者は少数なのである。
現代では銃火器を扱う葬魔士こそ一般的であり、近接武器は魔獣に接近された際に使う非常用の装備の意味合いが強い。
銃火器の特徴として使用者が変わっても威力が変化しないという利点がある。刀や槍、弓矢といった武器は、個人の技量や体格でその威力が大幅に変わる。しかし、銃火器――弾薬の威力は、あらかじめ薬莢に込められた火薬に依存するため、使用者によって威力が変わることはない。
誰が使っても威力が変わらないということは安定した火力を期待でき、より多く数を揃えれば、それだけ強力な部隊を編成できるということである。
そのため、現代ではかつてのような一騎当千の英雄が求められるのではなく、凡百の兵士が求められ、平準化された代替可能な駒としての役割を果たす兵士こそ今日の葬魔士の理想となっていた。
とどのつまり隼人や浅江のような昔ながらの剣士は、部隊を編成する一員としては、もはや遺物にして異物なのである。だがそれでも、そうだと分かっていても彼女が剣士を続けているのは、ある理由があった。
「……あの日、お主に会って抜刀術を磨け、と言われなければ、私はきっと剣を手放していただろう」
「お前の得意とするその一つを極めろ。お前の剣は美しい」
隼人の声色を真似て浅江がそう言うと、動揺した隼人はその目を左右に泳がせた。
「そんなこと言ったか、俺……」
「言った。忘れたなんて言わせないぞ」
とぼけた様子の隼人を、浅江はじろりと軽く睨んだ。
「む……」
浅江の気迫に気圧された隼人が彼女の膝の上で縮こまっていると、彼を見つめる琥珀色の瞳が細められた。
「私は嬉しかった。父に教わった剣をお主に褒められたことが……兄弟子たちには、ついぞ認めてもらえなかったからな」
「桜を見る度に思い出すのだ。お主の言葉があったから、私はこうして剣士を続けていることができた、とな。だからお主には感謝している」
「……そうか」
彼女の言葉にどう答えていいか分からない隼人は、それだけ返すと小さく唸って黙り込む。そうして舞い散る桜の花びらに目をやると、何かを思い出したように声を上げる。
「あっ……」
「どうした?」
「あのときのことなら俺も憶えていることがある」
「ふむ……?」
小首を傾げた浅江を見上げた隼人は、仕返しだと言わんばかりに彼女を軽く睨む。
「お前、俺の首にいきなり刀を突き付けてきたよな。その後、刃先で顎をぐっと持ち上げて――」
「あ、あれは覗き見をしていたお主が悪い!」
指を自分の顎に押し当てて示す隼人を見下ろした浅江は、動揺して叫んだ。
「刃が顎の下にめり込んで痛かった、というか少し切れたんだからな」
「うっ、それは悪かった……って、なんで私が謝っているんだ!?」
「ははっ……」
ころころと表情を変える浅江を見て、隼人はおかしそうに笑みをこぼした。
ああそうだ。こんな風に馬鹿をやっている方がやっぱり俺たちらしい。
「……御堂、もう大丈夫だ。そろそろ起きる」
「本当に大事ないか?」
「ああ。それにしても、まさかこんな夜中になるまで眠りこけるとは思わなかった」
そう言って起き上がった隼人は、浅江の隣にあぐらを組んで座る。
「それで……寝心地はどうだった?」
浅江が頬を朱に染めながら尋ねると、その熱が伝わったように隼人も頬を朱に染めた。
「ああ、うん。まぁ……そうだな。悪くなかった、と思う」
目を逸らしながらそう返した隼人を見て、浅江は口元を緩ませた。
「ふふっ……ああ、その心配は杞憂だったか。なんせこれほど熟睡していたのだ。さぞ寝心地がよかったと見える。気付いているか? もうじき日付も変わるぞ」
「なっ! 俺、そんなに寝てたのか……!」
隼人の慌てた声を聞いた浅江は、ふっと息を吹き出して立ち上がった。
「まったく……任務に遅れたら、どうしてくれるのだ」
「……任務?」
不穏な空気を感じ取った隼人は、すっと立ち上がって彼女の横顔を凝視した。
「支部長から連絡があったのだ。第五支部から救援の要請を受け、遠征部隊を編成すると」
「まさか……遠征部隊の隊員にお前が選ばれたのか?」
問いを投げられた浅江は、彼の顔を見ないまま、首肯した。
「うむ、特戦班からは私が選抜された。夜明け前に発つ」
「いくらなんでも急すぎる……」
「それほどまでに状況が悪化しているのだろう。第五支部が陥落すれば、彼らの守っていた無辜の人々が危機に晒される。それだけは避けなくてはならない」
困惑する隼人の声に対して、浅江の声は何事もないという響きだった。
「今日、街を歩いて出会った人々がいた。その誰もが、魔獣の脅威に怯えることなく穏やかに日常を満喫していた。それは我々にとっての誇りだ」
そうだろう、と浅江が尋ねると、隼人は地に目を伏すように頷いた。そしてそのまま地面を見つめる彼は、苦々しい表情を浮かべた。
「俺も一緒に行く……お前だけを行かせるなんて、俺にはできない」
「それは駄目だ。隼人」
「え……?」
「お主がここにいるから、私は心置きなく戦いに赴くことができるのだ。お主ならこの支部を、ここに暮らす人々を魔獣の脅威から守り抜くことができると信じているからな。お主がここにいてくれるなら、私は安心だ」
そう言って浅江は微笑んだ。
「御堂……」
揺れる瞳に震える声。情けないと分かっていても、隼人は動揺を隠せなかった。
「だから隼人、お主はここを守ってくれ。私が帰るこの場所を」
心を落ち着けるように目を瞑った隼人は、小さく頷いてその瞼を開く。
「ああ……分かった」
彼の答えを聞いて安堵したように深く息を吐き出した浅江は、桜の木を見上げた。
「さて……間もなく日付が変わる。名残惜しいが、魔法の解ける頃合いか」
「魔法……?」
「……ただの戯言だ。気にするな」
少し困ったように浅江が苦笑する。その表情は、言うべきではなかったという彼女の気持ちを代弁しているかのようだった。
「……」
そんな顔をして“気にするな”と言われてしまっては、それ以上追及するのは野暮というものだろう。隼人は喉元までせり上がった言葉を声にする前に飲み下した。
「御堂」
そうして吐き出そうとした言葉の代わりに彼女の名を呼ぶ。真剣な隼人の眼差しを琥珀色の瞳が捉えた。
「何だ……?」
「死ぬなよ。必ず帰ってこい」
そんな偽りのない願いを隼人は口に出した。
「ふっ、お主こそ。私の知らないところで死んだら許さないからな」
「ああ……」
黄金色の月が浮かぶ空の下、桜舞う春の夜。青年に見送られて少女は戦いに赴いた。必ず再会するという誓いを胸に抱いて。
* * *
がたん、と激しく車が揺れたせいで隼人は、頬杖から滑り落ちた。
「ん? ここはどこだ……?」
助手席の窓から外を見ると、辺りの景色は、新緑に包まれている。どうやら山の麓にいるらしい。
雨が降ったのか、窓一面に大粒の水滴が付着している。時折、タイヤが水たまりを跳ねた音を響かせた。
後方へ流れていく緑の景色をぼうっと見つめた隼人は、つい先ほどまで春だったはずだ、と訝しんだ。
「ははは……これはまた盛大に寝ぼけてるね」
運転席から聞こえた男の声は、隼人のよく知る声だった。
「秋山さん……?」
「おはよう隼人君。いい夢は見られたかい?」
「よく憶えてないが……多分、悪い夢じゃなかった気がする」
「それはよかった。僕も眠い目を擦りながら運転したかいがあるよ」
前を見つめてそう言った圭介は、その顔に微笑みを浮かべているものの、彼の口調にはどこか棘があった。
「……すいません」
「いいんだ。その分、頑張って働いてもらうからね」
「はぁ……勘弁してくれ」
再び頬杖をついて窓の外の景色を見つめた隼人は、任務の最中であることを思い出す。浅江が遠征に出発してから数日後、第三支部の管轄内に点在する瘴気の源泉が活発化し、支部長から命を受けた隼人と圭介は、魔獣討伐のため各地を駆け回っていたのだった。
「どうだい? そろそろ頭が冴えてきたかな」
「ああ……俺と秋山さんは任務中だったな。で、次はどこに行くんだ?」
「筑田山だよ」
「観光にでも行くのか?」
隼人が軽口を叩くと、圭介はふっと口元を綻ばせた。
「まさか……源泉の調査だよ」
「瘴気の源泉か……」
「大気中の瘴気濃度が異常な値を示している。魔獣の実体化も近いだろうね」
「これじゃ当分は支部に帰れないな」
溜め息交じりにそう言った隼人をちらりと見て、圭介は呆れた声を出す。
「なに気の抜けたことを言ってるのさ。浅江ちゃんだって遠くで頑張っているんだから……君も頑張らないと」
「……そうだな」
「さぁ、そろそろ着くよ」
圭介の声を合図に景色が変わる。狭い山道が徐々に広がり、前方に開けた広場が見えてきた。二人は何度かここを訪れている。雑草に覆われた広場の先には、侵入者防止のために設置された金網フェンスが立っているはずだった。
だが、彼の目に飛び込んできたのは、見慣れた景色ではなかった。遠目に見えるフェンスは、内側から無理矢理突破したように薙ぎ倒されていた。
「ああ、仕事の時間だ」
異変を察知した隼人の脳が臨戦態勢に切り替わる。山頂を覆うように低く垂れ込めた黒雲は、葬魔士たちに夕立が近いことを知らせた。
――そう、もうすぐ嵐がやってくる。
ご愛読ありがとうございます。斬魔の剣士第二.五章これにて完結です。
第一章の前日譚となる今章でしたが、いかがでしたでしょうか。
二章で登場した浅江と主人公である隼人の距離感が近すぎたこともあって、その関係を補足するエピソードになりました。
青臭くも甘酸っぱい……そんな二人の雰囲気を楽しんでもらえたら幸いです。
さて、続く第三章は、第二章の終了後、猛と隼人の戦いが終わって数日経過した時系列から話が再開します。
遅筆ではありますが、この作品が少しでも皆様に楽しんでいただけるよう、頑張ります!
それでは!