EP09 桜散る夕暮れに
駅前の公園は、土曜日の夕方ということも手伝ってか、大勢の花見客で賑わっていた。その顔触れは、学生や会社員、家族連れなど様々だ。
桜並木の道沿いには出店もあり、花見客が列を作って並んでいる。その集団の中にいた隼人と浅江の二人は人混みに紛れるように歩いていた。
「なんかゆっくりと見られないな」
「うむ……どこかで落ち着ければよいのだが……」
あちこちに設置されたベンチに目を向けると、出店で買ったかき氷を堪能している少女たちやたこ焼きを頬張る男子学生らが既に占拠しており、空いているものは見つからない。
芝生の上には熾烈な場所取りを制したと思われるグループが、まるで領土を主張するように堂々とシートを広げ、酒盛りに興じている。
「ほう、あれなら……」
浅江の声を聞いた隼人が彼女の見つめる先に目を向けると、ぽつんと一本だけ立っている桜の木が目に入った。
不思議なことに、その桜の木の周りには誰もいない。どうやら道から外れ、出店からも遠いことが花見客の不興を買う原因らしい。
「ああ。あそこならゆっくり花見ができそうだな」
芝生の上を歩いて桜の木の下まで近づくと、浅江は咲き誇る桃色の花々を見上げた。
「ふむ……これは見事な――?」
言葉の途中で背後から聞こえた物音に訝しんだ浅江が振り返ると、後ろを歩いていた隼人がうつ伏せに倒れていた。
「お、おい……どうした!」
「ああ……悪い。少しくらっとした」
地面に手をついた隼人は、空いた片手で揺れる頭を押さえ、不快感に顔を歪めている。
「少しだと? 馬鹿を言え。顔が真っ青だぞ」
「もしやその右腕のせいか……?」
浅江は隼人の肩に手を添えて支えると、脂汗の滲む彼の顔を覗き込んだ。
「……そうだ」
荒い呼吸混じりの隼人の声を聞いた浅江は、観念したように深く息を吐き出した。
「車を手配しよう。お主がその調子では、今日はもう帰った方がいいだろう」
「いや、大丈夫だ。少し横になっていれば治まる」
どうにか立ち上がった隼人は、ふらふらとした足取りで桜の木に近づいていく。
「しかしな……」
「もう少し見ていたいんだ」
何を馬鹿な、と言おうとした浅江は、振り返った隼人の顔を目にすると、その言葉を吞み込んだ。
「これが最後の桜になるかもしれないから……」
そう言った隼人の顔は、何かを悟ったように穏やかな表情だった。
「っ……!」
彼の言葉を聞いた浅江は、ぱっと顔を背けて立ち上がった。そうして隼人に背を向けたまま、口を開く。
「飲み物を買ってくる。お主は少し休んでいろ」
「……すまない」
人混みに消えていく浅江の後ろ姿を見送った隼人は、桜の根元に腰を下ろしてその背を木の幹に預ける。
「我ながら、今のは酷いな……」
隼人は右腕を持ち上げると、その手の平をじっと見つめた。魔獣の侵蝕によって黒く染まっているはずの右腕は、不思議なことに肌色だった。その肌に目を凝らすと、まるで肌色のゴム手袋を被せたようにどこか不自然さがある。
彼の右手は薄い手袋に覆われていた。それは生体義手と呼ばれる生きた義手を使う者のために開発された偽装用の手袋だった。
手袋の境目に指を入れ、強引に皮を剥ぐように手袋を引き抜くと、見慣れた黒い右腕が現れた。
「はぁ……」
魔獣を抑え込む封印が機能していることを確かめ、安堵の溜め息を吐き出した隼人は、右腕を地面の上に放り出す。
目を覚ましていても、決して逃れることのできない悪夢がそこにあった。鎮痛剤が切れたように忘れていた痛みが帰ってくる。その痛みは安らぎに逃避する隼人を現実へ引き戻すようだった。
「うっ……」
ずきりと疼く痛みに耐え切れず横になると、木の根を枕にして空を見上げた。茜色の空には、桃色の花びらがひらひらと舞っている。
自分の体のことだ。確証はないが、見当はつく。おそらく自分に残された時間は、そう長くない。
さらさらと音を立ててこぼれ落ちる砂時計の砂のように。あるいは頭上で舞い散る桜の花びらのように己の命もやがて失われていくのだろう。
散った花びらが枝に戻ることはない。命という名の砂時計は逆転しない――いや、それは違う。完全に侵蝕が進み、人としての終焉を迎えたとき、その砂時計は逆転する。そう、隼人は魔獣として新たな生を得るのだ。
「ぐっ……」
右腕を蝕む痛みは、まるで芋虫が木の葉を食むようだ。少しずつじわじわと腕から肩を目指して食い進んでいく。
隼人が葬魔士になる以前、彼はある魔獣に襲われた。生物に寄生し増殖する寄生種と呼ばれる魔獣である。
その場に居合わせた彼の養母だった女性は、咄嗟に彼を庇って寄生種に襲われ、たちまちその身を侵蝕されてしまった。
目の前で起こる悲惨な光景に動揺していた隼人は、抵抗する間もなく魔獣と化した彼女に噛まれ、その右腕を蝕まれたのだ。
その後、魔獣と化した彼女は機関の命により、隼人によって討伐されることとなる。こうして魔獣に侵蝕され、黒く染まった右腕は、彼にとって忌まわしき罪の象徴となった。
「お前は俺が憎いのか?」
無論、口を持たない右腕が隼人の問いに答えることはない。その代わり、一際強い痛みが彼の右腕を襲った。
「ああ……それでいい。許してくれなんて言わない。思う存分、俺を恨んでくれ」
右腕に巣食った魔獣は隼人の答えに満足したのか、それとも体が慣れたのか、痛みが引き波のように遠ざかっていく。そうして痛みと入れ替わりに押し寄せてきたのは、強烈な睡魔だった。
「……」
遠くから聞こえる喧騒は、まるで潮騒のようだ。幼子をあやすような優しさで頬を撫でるそよ風に誘われて、重さを増した瞼を閉じる。ゆっくりと呼吸を繰り返すうちに彼の意識は暗い水底に落ちていった。




