EP07 二人の休日Ⅲ
それから三〇分後、二人は相も変わらずウインドウショッピングを続けていた。正午が近づくにつれ、隼人は次第に空腹を感じてきた。それも当然のことだろう。今朝は、ほとんど何も口にしていないに等しい。ただでさえ、鍛錬の後は腹が空く。今朝の状態で日課の鍛錬をこなせば、その空腹感は通常の比ではない。
浅江も朝が早い。早めの昼食を誘っても断られることはないだろう、と思った隼人は、昼食の店を探す提案しようとした――そのときだった。
「あっ……」
何かに気付いたように声を上げた浅江は、足を止めてショーウインドウをじっと見つめた。浅江の視線の先には、一足のパンプスがあった。側面に桜の花をあしらった模様が薄く彫られ、春にぴったりな一足である。
「……」
靴をじっと見つめる彼女の視線には、これまで商品を見てきた視線とは明らかに違う熱があった。
「この靴、買いたいのか?」
隣に並んで立った隼人が尋ねると、浅江は慌ててかぶりを振った。
「いや、その……かわいいな、と思っただけだ。私には、きっと似合わない」
そう言って苦笑した浅江は、再び靴に視線を戻す。その横顔は、どこか寂しげだった。
「そんなの分かんないだろ。試しに履いてみたらどうだ?」
「この靴は、私よりも似合う者がいる。私が履くべきじゃない……」
それは隼人への返答というよりは、まるで自分に言い聞かせる口調だった。彼女が手を置いたショーウインドウのガラスは、世界を分かつ壁のようでもあり、その向こうにある靴には手が届かない、と言うようである。
口では否定しても、浅江の視線は靴に向けられたままだった。何とか諦めようとしても、諦めきれないもどかしい雰囲気が彼女にはあった。
おそらく隼人が同意すれば、浅江はすぐにこの店を離れるだろう。しかし、それでは彼女の心残りになるのではないだろうか。
浅江の横顔を見つめながら思案をしていた隼人は、深く息を吐き出すと、店の入り口を見据えた。
「……よし」
浅江は急に意気込んだ様子の隼人に訝しんだ。
「隼人……?」
「男の甲斐性を見せてやる」
「え……?」
驚いている浅江を尻目に、隼人は店の中に入ろうと歩き出した。彼の意図に気付いた浅江は、慌てて隼人の後を追う。
「なっ、待て……! さっき私が言ったことは、冗談だ!」
「好き勝手散々言って、その気にさせたのは、お前だろ」
「お主な……!」
「少し見るだけだ。嫌ならすぐに出ればいい」
と、言うが早いか隼人は、浅江の制止を聞かずに店の中に入っていく。
「ああもう、強引な……」
少し躊躇った浅江だったが、慌てて隼人の背中を追った。
「いらっしゃいませ――」
自動ドアが開き、反射的に歓迎の言葉を口にした女性店員の笑顔が凍りついた。彼女が絶句する理由は、隼人にも十分に理解できた。
店内にいたのは、制服姿の少女たちや二〇代前半と思われるスーツ姿の女性、上品な中年女性といった店の雰囲気に合った客である。
棚に置いてある商品――パンプスやブーツ、サンダルは、およそ青年向けではない。そう、ここはレディースシューズセレクトショップ。
この空間において、彼は好ましからざる人物であり、彼女たちにとって秘密の花園を踏み荒らす害獣に等しかった。
「ど、どのようなご用でしょうか……?」
商品を陳列していた若い女性店員が、急いで隼人の行く手を遮った。笑顔ではあるが、どことなく顔が引きつっている。彼自身、場違いであることは重々承知していた。だが、ここで引き下がっては意味がない。隼人は物怖じせずに店員に口を開いた。
「すいません。連れがあそこに飾られてる靴を試し履きしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「あの……お連れ様は、どちらに?」
「え? 俺の後ろに……って、なんでそんなところに隠れてるんだ?」
「う、うむ。その……私一人ならともかく二人で、となると……恥ずかしい」
店の入り口で柱の陰に隠れていた浅江は、もじもじしながら答えた。
「……!」
そんな二人のやり取りを見た店員は、はっとして浅江に小走りで駆け寄る。そうして浅江に近づいた店員がこそっと耳打ちすると、彼女は頬を赤らめてかぶりを振った。
「ち、違います……その、ただの同期です」
「ふふ、そうですか」
にこやかな表情に変わった店員が浅江と隼人を見比べた。
「さぁ、こちらにどうぞ。さぁ!」
先とは違い、お手本のような営業スマイルを作った店員が、やや強引に浅江の腕を引いて店の中に連れ込む。
「あっ、そんな。待って欲しい……心の準備が!」
浅江の制止もなんのその、ぐいぐいと店員は隼人の前に彼女を引っ張ってきた。
「さぁ、どうぞ。こちらの椅子にお掛けになってください」
「はい……」
店員に言われるがまま、浅江はしおらしい様子で椅子に腰を下ろした。
「まったく……こんなことになったのは、お主のせいだからな!」
上目遣いで隼人を睨んだ浅江は、小声で彼に怒りをぶつけた。
「お前だって、したかったんだろう?」
「私は別に……お主が見たかったんだろう?」
「まぁ、そうかもな……」
「かも? 見たいと言え、見たいと!」
「お待たせしました。こちらの靴ですね」
はっきりとしない隼人の態度に我慢できず、つい大声を上げた浅江は、靴を運んできた店員の声を聞いて我に返った。
「は、はい……」
「ああ、お掛けになったままで大丈夫ですよ。私がお手伝いを……」
立ち上がろうとした浅江を見た店員は、彼女に座るように促すと、何かを思いついたように目を輝かせた。
「あっ、そうだ! お連れの方にお手伝いしていただいてはいかがですか?」
「えっ……!」
「はぁ、構いませんけど……」
「なっ――!」
きょとんとした顔で隼人が返すと、浅江は身を強張らせた。
「では、ごゆっくりどうぞー」
「あぁ、そんな……」
追いすがるような目で女性店員を見つめる浅江だったが、にこやかな笑顔を残して彼女は遠ざかっていく。
「じゃあ、脱がせるぞ」
「はぁ!?」
隼人が浅江の足元に跪くと、素っ頓狂な声を上げた。
「いや、今履いてる靴を脱がないと試し履きできないだろう?」
「あ、ああ。そういうことか……」
「いいよな?」
「う、うむ……」
浅江の承諾を得た隼人は、彼女の脚に触れ、靴を脱がそうとする。
「おぉ……」
「何だ? 私の脚に何か文句があるのか……?」
自身の脚に触れ、突如感嘆の声を上げた隼人を、浅江は軽く睨みつける。
「文句はない」
「じゃあ、今の“おぉ……”は、なんだ?」
「いや、別に……」
「本当のことを言え」
「む、言っていいのか?」
「ああ、言え。言ってみろ」
厳しく追及された隼人は困り顔で頬を掻きながら、レース越しに透けて見える浅江の脚にちらりと目をやった。
「……お前の脚って意外と細かったんだな」
「え……」
「あと、ハリがあるって言うのか? 弾力があってすべすべして……触り心地がいいっていうか」
「なっ……!」
「やっぱ男とは違うんだな」
隼人の答えを聞いて顔を真っ赤にした浅江は、スカートの裾を掴んで引っ張ると、爪先まで覆い隠した。
「あ、当たり前だろう! 私だって肌の手入れくらいしている! 男のお前と一緒にするな!」
二人のやり取りを遠巻きに見ていた周囲の客がくすくすと笑う。
「ああ、もう。いいから早く済ませてくれ!」
「言い方……」
小さく溜め息をついた隼人は、浅江の靴を脱がし、商品の靴を手に取った。
「じゃあ……入れるぞ?」
「う、うむ……」
緊張したせいか、息を殺して靴を爪先に近づけていくと、遠くで見ている制服姿の少女たちの会話が聞こえた。
「ねぇ、あれってまるでシンデレラみたいじゃない? ほら見てよ、王子様にガラスの靴を履かせてもらってるみたい……」
「いいなぁ……憧れるなぁ……」
少女たちの会話を耳にして、隼人の手がぴたりと止まってしまった。彼とてシンデレラくらいは知っている。物語を思い出して、心臓が早鐘を打つのを感じた。俯いているから浅江には見られないだろうが、自身がどんな表情をしているか、隼人は分からなかった。多分、他人には見せられた顔をしていない、ということだけは想像が付いたが。
「どうした……?」
「ああ、いや……続けるぞ」
動揺した隼人は手元を狂わせ、彼女の足の指を靴にぶつけてしまった。
「あっ……」
「す、すまん。痛かったか?」
「大丈夫だ。そのまま……入れてくれ」
「ああ……」
気を取り直した隼人は、浅江の脚を掴んでその爪先を靴にあてがうと、ゆっくりと靴の中に滑り込ませていく。
「んっ……」
口元を押さえた手から、浅江の恥じらう声が漏れた。そのどこか艶めかしい吐息に隼人の顔が熱くなる。
「……!」
隼人はなるべく心を無にして、なんとか彼女の足を靴の中に収めた。
「……これで、全部入ったな。どうだ、苦しくないか?」
「う、うむ……問題ない。ぴったりだ」
「それで、どうだろうか……?」
恐る恐るといった様子で浅江が隼人に尋ねた。
「ああ、似合ってると思う」
緊張で喉が渇いていた隼人は、どうにか声を絞り出して答えた。
「そうか……それなら、よかった」
嬉しさと羞恥とが混ざったようなはにかんだ微笑みを浅江は見せた。それがあまりにも眩しく感じられた隼人は、つい視線を逸らしてしまう。
「ええ、すごくお似合いですよ。はぁ……お二人を見てたら、もうドキドキしちゃいました」
奇遇なことに隼人の顔が向いた方向には、さっきの女性店員が立っていた。彼女は小さく拍手を送っている。
店内のあちこちからも、同調するように控え目な拍手が聞こえた。隼人と浅江を話題にして何やら盛り上がっている声も聞こえる。
だが、それも気にする必要はないだろう。これで試着は終わったのだ。後は会計を済ませて店をさっさと出ればいい。
「ふぅ……終わった」
疲労感に満ちた息を深く吐き出した隼人は、安堵の表情を浮かべた。浅江のためとはいえ、慣れないことをした。魔獣との戦闘の方が、まだ精神的な疲労は少ないのではないだろうか。
「隼人……」
「なんだ?」
珍しく遠慮がちな浅江の声を聞いて、隼人は彼女の顔を見上げた。
「まだ、もう片方が残ってるのだが……」
「あ――」
浅江の視線を辿って、残っていた片方の靴に気付いた隼人は、口をぽかんと開けて硬直した。
23/06/12、14 表現を一部修正しました。




