EP03 災禍の足音
支部長室の前に立ち止まった隼人は、支部長――東雲陽子から指示されたリズムでドアをノックした。
「入れ」
隼人が名乗る前に、いかにも不機嫌そうな声が部屋の中から聞こえてきた。
「……失礼します」
躊躇いながらドアを開けた隼人は、おずおずと部屋に入った。眠そうな目で書類を読んでいた陽子は、次のページを捲る指を止めると、ちらりと隼人に視線を向けた。
「遅かったじゃないか」
「すいません」
小さく頭を下げて隼人が謝ると、陽子は書類を机の上に投げ出し、コーヒーカップに手を伸ばす。
「もう用は済んだ。下がれ」
コーヒーを啜りながらそう言った陽子に、隼人は困惑した。
「え……」
「お前が来る前に事件は解決した。戻っていいぞ」
「そんな……それじゃ何のために俺を呼んだんですか」
気の抜けた隼人の声を聞いた陽子は、手に持ったコーヒーカップを置いて椅子にもたれかかると、その顎に指を這わせた。
「む。確かに……これでは秋山が浮かばれんな……」
「あの、俺は……?」
虚空を見上げ、とぼけた声を出した陽子に、隼人は問いを投げた。
「各地にある瘴気の源泉……その活動が最近、活発になっていることは、お前も知っているな?」
「……はい」
自身の問いを流された隼人は釈然としない様子で返事をした。
「まだうちの管轄では、さほど活発化していないが……近隣の支部では、ここ一月も戦闘状態が続いている。瘴気の漏出量も近年では類を見ない規模だ」
いつしか陽子の声が真剣な声色に変わったことに気付いた隼人は、慌てて気を引き締める。
「確か……第五支部の管轄では、市民の犠牲者も出たとか」
ああ、と頷いた陽子は、椅子から体を起こし、机の上に肘を置いて指を組んだ。
「今から二時間ほど前、その第五支部から救援の要請があった。瘴気漏出増加に伴い大量発生した魔獣の討伐に力を借りたい、とな」
「――!」
首筋に矢が掠めたような緊張が走り、隼人の表情が一気に強張った。
第五支部は、隣県に置かれた第三支部と協力関係にある支部だった。有事には協力を求める協定が取り交わされており、要請があれば、部隊を派遣することになっている。
「だがそれは、支部長名義ではなく非公式な要請だった。その後、要請は誤りだったとして、五分もしないうちに撤回された」
陽子の言葉を耳にした隼人は、首を捻った。
「変ですね……」
「ああ、そうだろう?」
隼人の反応が期待したものだったのか、陽子は口元を歪ませた。
「私も不審に思ってな……諜報部に探らせた。すると先方は、相当苦戦していることが分かった。この二日間で最低でも二小隊が全滅したことを確認している」
魔獣の討伐は、死と隣り合わせであり、犠牲者が出ることは珍しくない。だが、二桁に及ぶ死者ともなれば、話は別だ。ただでさえ葬魔士の人員は、常に不足しており、少ない人員で戦線を維持している状況である。だというのに、二小隊もの人命が失われたともなれば、状況が悪化することは避けられない。
「これだけ状況が切迫しているのに、救援を撤回するなんて……何を考えているんだ?」
「おそらく体裁を気にしたのだろう。先日もこちらから救援を送ったばかりだったからな。まぁ、どうせすぐに泣きついてくるだろうが……」
「もしかして……俺を呼んだのは、第五支部に派遣するためですか」
「ああ、そのつもりだった」
意味深な陽子の口調に隼人は眉根を寄せた。
「だった……?」
「第三小隊と第四小隊はここのところ出ずっぱりだ。第二小隊は先日の戦闘で欠員が出たばかりだ。第一小隊は有事に備えて温存しておきたい……そうなると特戦班を派遣することも、考えなくてはならない」
「なら、俺が行きます」
陽子が話し終えるやいなや隼人は、割り込むような勢いで口を挟んだ。そんな彼の逸る様子を目にして、陽子は苦笑する。
「そう急くな。私もお前を派遣することも考えた……しかし、ここの守りが手薄になるのは困る。向こうの源泉の活動は、収束の見通しすら立っていない状況だ。瘴気が止まらなければ、魔獣は出現し続ける。長期の遠征になることは避けられないだろう」
「お前の場合、右腕のこともある。戦闘が続けば、封印が劣化することも考えられる。そうなると支部から離れるのはよろしくない。やはり他の者を選抜する」
「……」
陽子に宥められた隼人は、自身の右腕に視線を落とした。
「うちの管轄は瘴気の源泉が活発化する兆候は、まだ見られない。過去の記録から次回の活発化まで数週間の猶予があると考えている。山に棲む魔獣どもは、先日の山狩りに怯えて鳴りを潜めているようだ」
「……と、いうわけで長峰。お前は何か動きがあるまで、体を休めて英気を養え。戦士には休息も重要だ」
「了解しました」
「ああ、そうだ。慰霊室で騒ぎがあったらしいが……どうかしたのか?」
わざとらしく思い出したような陽子の声に、隼人は表情を曇らせた。きっと慰霊室での様子を心配した圭介が、陽子に連絡を入れたのだろう。
「いえ、別に……」
かさぶたを無理矢理剥がされたような鋭い痛みを胸に感じながら、隼人は答えた。
「私に話せないことか?」
正直に言えば、あの老人は職を失うだろう。犠牲者の人数で賭け事をしていたなど、顰蹙を買う行いである。
賭けに関わった葬魔士らも支部から追われるかもしれない。無論、彼らの行為は唾棄すべきものであるが、人員が減るということは、部隊の戦力も損なわれる可能性があるのだ。
さらに言えば、支部長への密告とも受け取れるこの行為は、葬魔士同士に不和を生む恐れがある。そうなれば、この危機的状況が迫っている最中に、さらなる危機を招くことになりかねない。
これは自分一人が泥を被れば、済む話なのだ。自分だけが、不快な思いをすればいい。そう、こんなことはとっくに慣れている。何度も経験したことだ。隼人は、そう自分に言い聞かせた。
「はい」
「ほう、ずいぶんきっぱりと言ってくれるじゃないか……」
面白いものを見るように微笑みを浮かべた陽子が隼人を覗き込む。だが、隼人は目を逸らすことなく、陽子の目をじっと見返した。
「……分かった。なら、追及はしない」
根負けした陽子は、がっかりした様子で息を吐き出した。
「だがな……お前が黙っていることで救われる者がいれば、逆に他の者にも被害が及ぶかもしれない。そのことだけは、覚えておけ」
「……はい」
「はぁ、朝から説教とは、私も歳を取ったものだ……」
「……」
どう返答したらいいか分からない隼人は、陽子から目を逸らして黙り込んだ。
「長峰」
「はい……?」
不意に名を呼ばれた隼人は、重い顔をゆっくりと起こした。
「たまには支部の外に出てみるか? ずっと支部の中にいるのは、息が詰まるだろう。同伴者がいれば、外出許可を出してもいいぞ」
「え……」
予想していなかった陽子の提案に、隼人は目を丸くする。
「いい気晴らしになるんじゃないか……そうだ。誰もいないなら、いっそ私が一緒に行ってやってもいいぞ」
「それじゃ気晴らしになりませんよ……」
露骨にげんなりとした顔を作った隼人は、溜め息混じりにそう言った。
「なにっ……?」
隼人の態度に眉を跳ね上げた陽子は、じろりと彼を睨む。しかし隼人は、そんな陽子に気圧されることなく、机の上で書類の山に埋もれ、わずかに顔を覗かせている情報誌に視線を向けていた。
「……だって、支部長が気晴らしをしたいだけですよね?」
隼人の視線の先に情報誌があることに気付いた陽子は、舌をちろりと出した。
「ちっ、バレたか」
「やっぱり……」
「私だって外で遊びたいんだぞ! エステ行きたいし、スイーツバイキング行きたいし、カラオケ行きたいし、新しい靴だって買いたいし……」
駄々っ子のように喚き散らす陽子を見て、隼人は嘆息した。
「それもこれも桑野の奴が悪いんだ! 食堂で会う度に自慢話ばっかり聞かせて……何かある度に呼び出されて迂闊に休みの日も休めない私の身にもなってみろ。支部から離れたくても離れられないんだぞ!」
「はぁ……」
隼人の困惑した様子に気付いた陽子は、我に返って小さく咳払いをした。
「まぁ、ともかく……気分転換は大切だ。お前が望むなら、外出許可を出そう」
「俺は別に……鍛錬をしないと体が鈍るので……」
「そうか。なら、気が変わったら、いつでも言え」
「やけに優しいですね」
「ふん、“やけに”は余計だ」
鼻を鳴らした陽子は、指を組んだ拳の上に顎を乗せた。
「提案をした手前、というやつだ。お前はよく知っていると思うが……しなかった後悔は、できなかった後悔よりも大きい。任務の前に憂いを取り除いておくこともまた、戦の備えだ」
「……お心遣い感謝します」
「話は終わりだ。下がっていいぞ」
「失礼します」
陽子に一礼した隼人は、そのまま支部長室を後にした。
部屋に残された陽子は、椅子の背もたれに寄り掛かると、壁に飾られている騎士姿の葬魔士と巨大な魔獣の戦いを描いた絵画に視線を移す。
「やけに優しい、か……見透かされているな私は……」
無論、絵画の騎士はその呟きに答えることはなく、彼女の声は静寂に消えていった。




