EP06 魔の呼び声Ⅳ
指で拭き取った雫が血であると理解した美鶴は、恐慌状態に陥った。
「ひっ……」
おぞましいものをその身から遠ざけるように、血の付いた指を必死に振り回す。
「いやぁぁぁぁ!」
美鶴は心の底から絞り出すような痛烈な悲鳴を上げる。人の形をした何者かが人を食べていたのだ。臓物を腹から抜き取り、食い千切ったのだ。
声の主は得体の知れない怪物であったと衝撃を受け、気が動転しつつも、転げるようにしてその場から逃げ出した。
人影から強い興味の視線を背中に感じながら、来た道を全力で走って戻る。背後から芝を踏む鈍い音がして、あの人影が追ってくるのだと直感的に理解する。
「はぁっ、はぁっ……」
雨上がりの芝生は泥濘があり、走りづらい。ましてや美鶴の格好は走ることに適した格好ではなかった。いくらもしないうちに足音が次第に近づき、あの人影が美鶴目がけて跳び掛かる。
「あぁっ……!」
人影の手が美鶴に届く直前で、柔らかな物質に包まれた棒を踏みつけて足を滑らせた彼女は、芝生に前のめりに倒れこむ。
その結果、美鶴に飛びかかろうとした人影は、その背を勢いよく飛び越し、正面に回り込む格好になった。
「痛っ……」
地面に手を突いて立ち上がろうとした美鶴は、上体を起こすと数メートル先にあの人影がいるのが分かった。夜の闇に溶け込むように未だその姿がはっきりと見えない人影はほくそ笑むように口元を歪めると、白い歯を露わにして暗い闇の中に浮かび上がらせる。それはヒトの歯とはかけ離れた鋭利な猛獣の牙だった。
「っ……!」
美鶴はばね仕掛けのように急いで立ち上がるも、逃げ場を塞がれて動けない。じりじりと迫ってくる人影は美鶴の肢体を舐めまわすように視線を注ぐ。蛞蝓に皮膚を這い回られているような悍ましさに全身の毛が逆立った。
「いや、来ないで……」
美鶴はほとんど音にならない震え声を上げて拒絶するが、人影はゆっくりと迫ってくる。一歩後退した美鶴のブーツが柔らかな棒状の物体を踏みつけた。記憶の中に覚えのある感触があった。おそらく先ほども踏みつけた物体だろう。恐る恐る視線を落とすと、暗闇に慣れてきた目が踏みつけた物体の正体を教えてくれた。
「なっ……」
くの字に折れ曲がったそれは、美鶴も見慣れた物体だった。先端が五つに分かれた木の枝のようにも見えるが、木の枝にしては短い。そもそも、木の枝はあんなに柔らかくない。木の幹から無造作にもぎ取られたように歪な断面を見せるその物体は、食べ終わった後のフライドチキンを思い出させる太い白い骨が露わになっていた。そう、あれは人の腕だ。
「うっぐ……」
踏みつけた物の正体を知った美鶴は、胃液が一気に逆流した。よろめくように後ずさり、逆流してきた喫茶店で飲んだコーヒーと胃液の混じった酸っぱい液体を口内で押し留める。
腕の先には、その持ち主が横たわっていた。おそらく体格や服装から女性だと思われるが、彼女には首が無かった。周囲を見渡すと倒れているのはその女性だけではなかった。彼女の近くには、男性のものと思われる太い足や子どもと思われる小さな手が散らばっていた。
ここはあの怪物の狩場だったのだろう。何も知らずに足を踏み入れた人々を怪物が襲っていたのだ。転んだ際、泥に塗れた手に力を入れると、その感触がただの泥でないと指が教えた。この泥濘は雨だけで生まれたものではない。複数の犠牲者によって生まれた血と肉の泥濘だった。
「あぁ……」
これを地獄と呼ばずになんと表現するのか。絶望に打ちひしがれた美鶴の足はもう踏み出すことも下がることもできなかった。そんな彼女の様子を見た人影は、じりじりと距離を縮める。
「こ……ぇ……」
来ないで、と美鶴は言おうとしたが、怯えた喉は音を生み出さない。闇の塊のような人影はなおも彼女に迫り続ける。あの怪物の手にかかれば、美鶴はすぐさま芝生に横たわる彼らの一員になるだろう。
「来ないで……来ないでぇぇぇぇっ!」
美鶴は怯えながらも声を張り上げて叫び、はっきりと強い拒絶の意思を示した。思いがけず喉から溢れた悲鳴じみたその叫びは吹き抜ける風のように空間を駆け抜け、大気を震わせた。自ら発した声に強い違和感を覚えた美鶴は、驚いて喉元に手を当てた。
「今の、何……?」
ふと新たな異変を感じて視線を送ると、影の中に潜むそれは、時が止まったかのように硬直していた。
「え……?」
突然、硬直した人影の様子に美鶴は困惑する。呻き声を上げて痙攣するそれは自分の意思とは裏腹に拘束されているような印象を受けた。動きを止めた人影をじっと見つめていると、美鶴の耳に遠くから響いてくる無数の足音が聞こえた。
逃げろ、と動物的な直感が脳の奥で再び警鐘を打ち鳴らす。その直感に従うように人影から踵を返して、美鶴は駆け出した。
芝生から広場に抜け出し、明かりに照らされた道を一直線に出口へと駆け抜ける。あと少しで公園の出口に差し掛かるという直前で、行く手を遮るように人影が生け垣から飛び出してきた。
突然現れた人影に驚いて立ちすくんだ美鶴は、その隙を狙われて体当たりを受け、街灯の基礎付近まで勢いよく転がった。
「いったぁ……」
激しく肩から路面に叩きつけられ、激痛が襲った。上体を起こした美鶴は打ちつけた肩を押さえると、肩にかけていた鞄が自分の手元から離れたことに気付く。数メートル先に落ちている鞄を見つけ、手を伸ばそうとすると、その先にいる人影の足が視界に入る。
芝生の上では街灯の明かりが届かず、その姿をはっきりと見ることはできなかったが、ここではその姿がありありと見えることだろう。
痛みと恐怖で美鶴が動けないことを見抜いたその人影は暗がりからゆっくりと歩み寄り、徐々にその実像を明らかにしていく。
「嘘……」
細い四肢に出張った腹、長い指には尖った爪。暗がりにいるため退化したのか、空ろに窪んだ眼窩には黒目がなく、真っ白な目が収まっていた。鼻孔は縦に割れ、大きく裂けた口からは鋭い牙が並んでいる。その全貌を見た美鶴は、まるで絵巻物に出てくる餓鬼のようだと思った。
餓鬼は一体だけではなかった。芝生を踏む音、路面を駆ける音、木々の枝を掻き分ける音がして、辺りから複数の餓鬼が美鶴を取り囲むように現れた。
餓鬼は暗がりからじりじりと包囲の輪を狭めるように迫って来る。口元を血で濡らした餓鬼の牙の隙間から涎が垂れ、粘着質な糸を引いて路面に落ちる。まるで獲物を狙う捕食者のようだ。獲物は言うまでもない。
生きたまま食われるとはどれほどの痛みだろうか。自分の最期を想像した美鶴は服の胸元をぎゅっと握りしめる。
眼前にいる餓鬼の牙を舐める舌が見え、彼女にその瞬間が迫っていることを感じさせた。美鶴の怯える様子を楽しむ餓鬼は、彼女が落とした鞄をわざとらしく踏み抜く。携帯電話の画面かあるいはコンパクトが割れたのだろうと思われるガラスの砕けた音が恐怖心をさらに煽った。
「ひぃっ……」
逃げようとしても腰が引けて動けない。立ち上がろうともがく足が路上を滑った。
「だ、誰か……助けて……」
助けを求めようとしたが、その喉からは言葉が出なかった。
餓鬼は互いに顔を見合わせ、歯を打ち鳴らす。細めた双眸と歪めた口元から、彼らが笑みを浮かべたのだと分かった。
不意に一匹の餓鬼と視線が合った。口を開け、吐息と共に低い唸り声を上げた。俺がお前を喰ってやる、と言った気がした。
その餓鬼が姿勢を低くして身構え、次の瞬間、美鶴に向かって駆け出した。その爪牙が届くまでたった数秒といったところだろう。迫って来る死を美鶴は直視できなかった。
頭を腕で抱えて身を縮め、目を瞑り、顔を伏せる。怯えた少女には最早、悲鳴を上げることしかできなかった。
「いやああああああああぁぁぁぁ!」
美鶴は死を拒絶するように魂の悲鳴を上げる。少女の絶叫が夜の闇に響き渡った。




