EP20 折り鶴と線香
通信を終えた浅江は端末を片付けると、隼人に背を向け、そのまま居間から出ようと歩を進める。
「任務開始だな」
「……どこに行く?」
背後から隼人に尋ねられた浅江は、壁に片手を置いて、廊下の前で立ち止まった。
「私は外の様子を探ってくる。可能なら車を持ってこよう」
彼女は振り返らずに隼人の問いに答えた。
「なっ……! 奴と出くわしたらどうする。俺が行く」
「案ずるな。私にも隠密の心得がある。それにお主は、冬木を守れと言われただろう? ここで彼女を守れ」
そこで浅江は言葉を切った。言おうか言うまいか、彼女の背中はそんな葛藤を漂わせていた。
「……あの夜、私がお前と組めばよかった。そうすれば、お前がその右腕を使うことはなかったのだ」
「あのときはああするしかなかった。それはきっと誰と組んでも、変わらなかった。間違いなく俺は……この力を使う決断をした」
「そうかもしれん。だが、これからのことは変えられる。その右腕、絶対に使わせないからな」
壁に置かれた浅江の指にぐっと力が入るのが見えた。
「御堂……」
その様子に戸惑った隼人は、彼女を制止しようとしたが、言葉が続かなかった。
「では、行ってくる。お主は、冬木とここで待っていてくれ。すぐに戻る」
言うが早いか浅江は廊下に出た。程なくして玄関の方からドアの開閉音が聞こえた。
「……」
浅江は増援として別の支部の魔獣討伐に駆り出されていた。そのため、特戦班としての任務に参加できなかったのだ。どうやらそれが彼女の負い目になっているようだ、と隼人は推察した。
彼女の去った廊下から目を離し、右腕に視線を向けた隼人は、ふと右腕の向こう――テーブルに立てかけられた刀があることに気付いた。
「刀、忘れていったのか……? いや、持ってくと目立つから、か……」
引き寄せられるように浅江の刀を手に取った隼人は、鞘からわずかに刀身を露出させた。この刀は葬魔機関で量産された制式の対魔刀ではなく、浅江の父が彼女に与えた私物である。
何処の刀匠が鍛えたかは不明であるが、刃に一片の曇りもない刀身は、間違いなく名刀の証だ。先の襲撃の際、猛の斬撃を受け止めていたが、驚くべきことにその痕跡は一切見当たらない。鞘も刀も疑う余地のない一級品だった。
「……って、勝手に触ったらまずいな」
武器を持っていない隼人は若干の心細さを感じたものの、慌てて元の位置に刀を戻した。
壁掛け時計の秒針を刻む音が静寂に響く。音に釣られて時計を見上げると、既に日付が変わっていた。
「冬木はどこに行ったんだ……?」
居間から廊下に出た隼人は美鶴を探そうと、辺りを見回す。すると、彼の鼻腔に嗅ぎ覚えのある匂いが飛び込んできた。
「線香の匂い……?」
線香の煙は廊下の奥から漂ってきているようだ。匂いの強い方向へ歩いていくと、和室があった。仏間と思われるその和室には立派な仏壇が置かれており、美鶴はその前に正座していた。
「ここにいたのか……」
隼人の呟き声を聞いて、美鶴の肩がぴくりと跳ねた。仏壇を見つめていた彼女は、放心したような曖昧な表情で首を巡らす。そうして隼人を見つめたその目がぱっと見開かれた。
「お父さん……?」
「……俺だ、長峰だ」
彼女の思いを裏切る気がした隼人は、躊躇いながら訂正した。
「え……あっ、そうですよね。そんなはずないのに……ごめんなさい。私……」
隼人の視線から顔を隠すように美鶴は顔を背けて、目尻を指で拭った。おそらく隼人が彼女の父の服を着ていたため、見間違えたのだろう。
「父と見間違うなんておかしいですよね。顔も声も全然似てないのに……」
「……」
返答に困った隼人は、仏壇に目を向けた。仏壇には花が飾られ、遺影と香炉、そして供え物が置かれている。香炉の線香は、ほぼ燃え尽きており、白い煙が名残となって漂っていた。
遺影には老婦人が写っていた。艶のある白髪にパーマをかけたこの女性が、美鶴の祖母だろう。彼女は優しい印象を受ける笑みを湛えていた。その遺影の傍には、寄り添うように折り鶴が供えられていた。
「この人が、冬木のおばあちゃんなのか?」
美鶴の隣に近づいた隼人は、彼女を労わる声でそう尋ねた。
「はい」
「優しそうな人だな……」
「ふふっ……そうですね。とても優しい人でした。たまに厳しく叱られましたけど……」
「そうなのか?」
美鶴の隣に腰を下ろした隼人は、目を丸くして彼女の横顔を見た。
「門限が厳しくて……友達と遊んだりして遅くなると、ここで正座して叱られました」
「お前を心配したんだろう」
「……そうでしょうか」
「きっとそうだ」
「……」
「この折り鶴は、冬木が折ったのか?」
仏壇に目を向けた隼人は、美鶴に問いを投げた。よく見ると、この折り鶴は少しくたびれていた。おそらく最近折ったものではないのだろう。
「はい。ずっと一緒にはいられないので、私の代わりに傍にいてもらおうかと思って……」
「そうか……」
ふと隼人の声が沈んでいることに気付いた美鶴は、心の内を覗くように隣に座った彼の横顔を覗き込む。すると仏壇を見つめる隼人は、深刻な顔をしていた。
「何か、あったんですか……?」
「……お前を襲った男――牛頭山猛が、猟魔部隊の包囲網から逃走した」
どう答えるか逡巡した隼人は、しばし沈黙した後、彼女の顔を見ずにそう返答した。
「……!」
猛が逃走したことを告げられた美鶴は、驚きに息を呑んだものの、さほど動揺はしていなかった。隼人がちらりと視線を投げると、彼女は俯いて、物憂げな表情を浮かべていた。
「調査部隊の報告では、こちらに向かっているらしい。お前には悪いが、支部に戻ってもらうことになる」
「……長峰さんは、こうなると予想していたんですか?」
美鶴は静かな声で隼人に問いかけた。
「確証はなかった。ただ、猟魔部隊があの男を捕まえようとしている、と御堂に聞いたとき……もしかしたら、とは思った」
本心を隠すつもりではなかったが、美鶴を気遣った隼人は言葉を選んだ。
「……」
「そう、ならなければいいと願っていたが……結果として最悪の事態になった」
「そうですか……」
「すまない」
「……さっきの話を聞いていて、なんとなくそうなるのかなって、思っていました」
「ある意味、長峰さんのおかげで心の準備をすることができたと思います。こうして家族と話をすることもできましたし……」
祖母の遺影に目を向けた美鶴は、穏やかな声でそう言った。
「――っ」
無力感に苛まれた隼人は、無意識のうちに爪が手の平に食い込むほど、強く拳を握った。
「すまない。せっかく帰ってきたばかりだったのに……」
「そんなに謝らないでください。長峰さんが悪いわけじゃないでしょう……?」
困ったように美鶴は苦笑したが、その笑顔はどこかぎこちなかった。彼女の顔には誤魔化すことのできない不安の色が浮かんでいた。
「あいつを倒せなかった俺にも責任はある」
隼人の言葉を聞いた美鶴の顔から、すっと笑みが消え、見る間に表情が曇った。
「それって……あの人の命を奪うってことですか?」
「……そうだ」
感情を押し殺して、無機質に乾いた声で隼人は返答した。
「あの人には家族はいないのでしょうか。友人や、恋人はいないのでしょうか……?」
美鶴の問いかけに隼人は眉根を寄せた。
「奪う側の者は、奪われる側の者のことを考えない。奴がお前の事情なんて考えないで狙うように……俺も、奴のことは考えない」
それは嘘だ。さっき刃を鈍らせたのは、猛も指摘したその甘さだ。
「命を奪うのも、奪われるのも、悲しいことです。いなくなった人は決して帰ってこない。会いたくても……もう二度と会えない」
「……」
その悲しみは隼人も十分に知っていた。それは今も絶えず血を流し続ける決して癒えぬ傷となって、彼を苦しめ続けていた。
「だとしても、奴が襲ってくるなら……俺は戦う。これ以上、奪われないように」
自分に言い聞かせるように隼人はそう言った。
「……戦う以外の選択肢は、ないのでしょうか」
「えっ……?」
「どうしてあの人が私を襲ってきたんだろうって考えていました。あの人、言ってましたよね? 私はここで死んだ方が幸せ、だって……」
「なっ、聞こえていたのか……!」
まさか美鶴本人に聞こえていたとは、露ほども思っていなかった隼人は、激しく狼狽した。
「はい。その言葉の意味をずっと考えていました。どんな理由なんだろうって……」
美鶴の言葉を隼人は首を横に振って否定した。
「どんな理由でも、お前の命を奪っていい理由にはならない。そんなことお前が気にする必要はないんだ」
「……そうかもしれません」
「ああ、そうだ」
「それでも……もし、支部に向かう途中であの人と会ったら、あの人と話をしてもいいですか?」
美鶴の口調は穏やかでありながら、強い意思を感じさせた。
「何だって……!?」
驚愕のあまり、隼人は叫ぶような声を上げた。
「聞きたいんです。あの人に……どうして私を襲ったのか」
「それは、無理だ」
隼人とてあの男が美鶴のような念信能力者を襲う理由を知りたくないわけではない。しかし、先の戦闘では、隼人の話にまともに応じなかった。
「無理なお願いだってことは、分かってます。でも、私の言葉なら……聞いてくれるかもしれません」
美鶴は首のチョーカーに指を当て、視線を落とした。その表情は、あの男に対する一種の憐憫を感じるものであった。そんな彼女の様子に隼人は眉をひそめた。
「どうして、そこまで……」
「……私には、あの人が涙を流しているように見えたんです」
「あいつが泣いてたって? 目の端を切ったから、じゃないのか……?」
猛が右目の端を切って、血の涙を流していたことを思い出した隼人は、人差し指で同じ位置をなぞってみせると、美鶴はかぶりを振った。
「あの人は苦しんでいるように見えました。そうするのが自分の使命だと言い聞かせて、自分で自分を追い詰めているような……」
顔を上げた美鶴は、自身に向けられていた隼人の目をじっと見つめた。
「……そう、長峰さんみたいに」
「えっ……」
美鶴の言葉に隼人はたじろいだ。
「だから、話してみたいんです。何がそこまで彼を苦しめているのか……知りたいんです」
身を乗り出して隼人に懇願する美鶴は、先の浅江を連想させた。彼女の必死な思いに隼人の心は揺らいでいた。
「っ――!」
「お願いします……!」
「……」
静かに目を閉じた隼人は、深く息を吐き出して、ゆっくりとその瞼を開いた。
「……あいつには、俺の言葉は届かなかった」
まるで罪を告白するような躊躇いの口調で隼人はそう言った。
「え……?」
「実は……俺もあの男と対話を試みた。だが、あいつは聞く耳を持っていなかった。でも、お前なら、もしかしたら……」
隼人は伏せていた目を美鶴に向けた。こうして自分にも真摯に向き合うことができる彼女なら、あるいはあの男でも話を聞くのではないか、という期待が彼の胸に生まれていた。
「長峰さん……!」
隼人の言葉を聞いた美鶴は、期待に満ちた声を出した。
「ああ。答えるかどうかは分からないが、試してみよう」
「ありがとうございます……!」
「だが、俺は対話よりもお前の生存を優先する。あいつが襲ってくるなら、そのときは……戦う」
ゆっくりと立ち上がった隼人は、一度迷う素振りを見せながら、そう言った。
「御堂が戻ってきたら、すぐに発つ。今のうちに支度をしてくれ」
隼人に促されるようにして、美鶴も立ち上がった。彼女の目は祖母の遺影に向けられていた。
「ここには……もう、帰ってくることはできないのでしょうか……」
「きっとここに戻れるようにする。俺が……」
「……はい、信じてます」
先に仏間を出ようと歩き出した美鶴は、部屋の入り口で立ち止まると、仏壇の前にいる隼人の方を振り返った。
「長峰さん」
「……何だ?」
「あの夜、私を助けてくれた人があなたでよかった」
そう言った美鶴は、優しげな微笑みを浮かべていた。先とは違い、彼女の自然なその笑みには、隼人の不安を拭い去る温かさがあった。
「……!」
美鶴が廊下の奥へと去っていくと、隼人は仏壇に目を向けた。
「……俺が必ず守ります」
誓いを言葉にした隼人は仏壇に一礼をし、部屋を後にした。彼の目には強い決意の色が浮かんでいた。
斬魔の剣士をご愛読いただきありがとうございます。
あまり動きのない回ですが、二章終盤に向けての助走と思っていただければと……。