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斬魔の剣士  作者: 織部改
第一章 邂逅の夜
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EP05 魔の呼び声Ⅲ

 来い、と呼びかけたあの声は喫茶店で聞いた声に間違いない。今度は店で聞いた時より明確に聞こえた。美鶴はその声に導かれるように暗い路地裏を駆け抜ける。


 声の主は分からないが、あの声を聞かなければ、コートの男から逃れることはできなかっただろう。


 路地裏を抜けて、コートの男がいた市街地の中心部から離れるように無我夢中で走っていた美鶴は、背後が気になってちらりと後方を盗み見る。どうやら、あの男はいないようだ。


 いきなり駆け出したせいか、ずきずきと痛みを訴える脇腹を押さえた美鶴は、案内標識の柱に手を突き、寄りかかるようにして立ち止まる。


「はぁっ……はぁ……」


 乱れた呼吸を整えるように胸に手を当てると、早鐘を打つような脈を感じた。恐る恐る今来た道を振り返るが、やはり自分を追ってくる気配はない。


 安堵した美鶴は深く息を吐き出して辺りを見回すと、工業団地に続く広い市道の歩道に立っていることに気付く。


 どうやら恐怖に駆られるあまり、路地裏を走り抜けた勢いのまま、工業団地に続く市街地の外れまで来てしまったらしい。工業団地に縁のない美鶴にとっては、全く土地勘のない場所であった。逃げることに必死で迷子になっていたのだ。


「どうしよう。あっ……」


 きょろきょろと辺りを見回すと、工業団地の入口に見覚えのある公園が見えた。以前、散歩で立ち寄ったことがある公園だ。


 来た道を戻るのは危険すぎると判断した美鶴は、公園の中を横切って駅前の通りを大きく迂回することを思いつく。


 とぼとぼと歩いていくと五分もしないうちに、目的の公園に辿り着いた。駐車場や公衆トイレ等も備えたこの広い公園は、緑の少ない工業団地の緑化も兼ねた木々が公園の外部を囲むように植えられており、鬱蒼とした生垣は外からの目を遮るようなかたちとなっていた。


 ここであの男に襲われたら、外から見えないのではないか、という不安が胸を渦巻く。


「……仕方ない、よね」


 夜の暗さも手伝って奥を見通すことのできないことに躊躇しながらも、Uの字をひっくり返したような車両侵入防止柵の間を通り抜け、足早に公園の中へと進んでいく。


 外部からは鬱蒼として見えるが、公園の遊歩道には街灯が点在しており、内部を歩いてみると市道よりも公園内の方が街灯の数が多く、眩しいLEDの街灯の下では夜でも本が読めそうなほど明るかった。暗い不安を払拭するようなその明るさが、美鶴に徐々に落ち着きを取り戻させる。


 落ち着いてきた脳裏に浮かぶのは、再び聞こえたあの声のことだった。もう声が聞こえた方角は朧気になってしまったが、あの男が幻でなかったように、あの声も幻聴ではないのだろうか……。


 そう物思いに耽って歩く美鶴の耳に、それほど遠くない場所から囁く声が聞こえた。


「えっ……」


 立ち止まって声のした方角に顔を巡らすと、公園の中心にある芝生から聞こえてきたのだと分かった。かすかに聞こえるその小さな声は、どことなく喫茶店の外で聞いた声を連想させたが、耳を澄ませてよく聞くと、以前の声とはどうにも雰囲気が違う。


 声の主を確かめようとした美鶴は、芝生の中央部を凝視するが、遊歩道や駐車場に設置された街灯から離れているため、その明かりは部分的にしか届いておらず、その姿を見ることは叶わなかった。


 軽く握った拳を口元に当てた美鶴は、声の主の正体を確かめるべきか否か逡巡する。芝生に足を踏み入れてはいけない、と脳の奥で難度も警鐘が打ち鳴らされている。このまま何も聞かなかったことにして帰れば、きっと家に帰れるだろう。それにもたもたしているとあの男が追ってくるかもしれない。しかし、声の主の正体を確かめたいという欲求が、次第に美鶴の中で膨れ上がっていく。


 三秒ほど思案し、恐怖より興味が勝った美鶴は意を決して芝生に足を踏み入れた。あの声が幻聴なら、それでいい。だが、窮地から救ってくれたあの声の主がいるのなら、礼の一言も言っておいた方がいいだろう――そんなことを思いながら、公園の中心部に向かって歩き出す。


 芝生の上には歩道付近にベンチが置かれているが、その中央には何も置かれていない。しかし、平らなはずの芝生の上に盛り上がっているものが見えた。


 それは人影だった。どうやら蹲るように座り込んでいるようだ。その人影の足元には横たわるもう一つの人影が見える。


 怪我人の介抱でもしているのだろうか、と美鶴は遠巻きに様子を見るが、その人影の周りはまるで闇色の霧がかかったようにぼんやりとしていて見通すことができなかった。


 いくら街灯から離れているとしても、その周辺だけ黒いペンキで塗り潰したような不自然な暗さに美鶴は首を傾げる。


 公園の中央に近づくにつれて、段々と囁くような声が大きくなる。人影の口調は誰かに話しかけるものではなく、心の内を呟いた独り言のようだった。


 聞こえる音量が大きくなっても遠い異国の言語のようでその内容は分からない。ただ、言葉は通じなくても声の雰囲気で察することができるように、人影から発せられる声は感情の高ぶりを感じさせるものだと理解できた。


 美鶴は疑念を強めながらも、その歩みを止めることなく芝生の中央へと進んでいくと、喉を圧迫するような濃い臭気が漂ってくるのを感じた。むせ返りそうになるような生理的に嫌悪感を催す類のものだ。


 脳の奥の警鐘が引き返せ、と一際激しく警告を鳴らした気がしたが、せめてその姿だけでも確認するだけなら問題ないだろう、と自分自身に言い聞かせる。


 人影に近づくと全貌が徐々に見えてきた。先に見えたのは横たわるスーツ姿の男性の下半身だった。革靴にビジネススーツのスタイルは、いかにもサラリーマンといった風貌だ。

 

 その男性の上半身に覆いかぶさるように座り込む人影が見えた。美鶴からはちょうど背を向けて座り込む格好である。せわしなく肩を上下させ、顔を腹部に近づけては遠ざけてを繰り返すその動作は、まるで心臓マッサージをしているようにも見える。


「あの、大丈夫ですか……?」


 手当の邪魔にならないように躊躇いながら声をかけたが、声が小さかったこともあってどうやら聞こえていないようだ。声が聞こえるように数歩近づくと、座り込んでいる人影の異変に気付いた。


 暗がりではっきりと見えないが、その人影はスーツの男性の腹部に深く顔を埋めている。その様子は、怪我人の介抱とは異なる異様な雰囲気があった。何をしているのか気になった美鶴は、じっと目を凝らすと、座り込む人影が衣服を身に着けていないことに気付く。


「なっ……!」


 人影が裸であることに驚いた美鶴は、思わず一歩後ずさる。すると途端に、がさりという耳障りな音が足元で響く。慌てて片足に目をやると、芝生に隠れていたビニール袋を踏んでしまったのが分かった。


 探るような視線を感じた美鶴は、恐る恐る顔を上げる。人影がゆっくりと振り向くと、細い四肢に出っ張った腹が見えた。


 こちらを向いた顔はまだよく見えないが、口からはだらりと太いロープのようなものがぶら下がっており、それはスーツの男性の腹から伸びていた。


 右手で口からぶら下がったそれを引っ張ると勢い任せに引き千切る。千切れた勢いで雫が飛び散り、美鶴の頬にぴとりと付着した。


 そっと人差し指で拭うと生暖かなぬめり気がある。ああ、これは血だ。


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