EP15 Thinking in the Rain
ざあざあと降り注ぐ雨――ではなく、熱い湯が隼人の体を洗い流す。彼は美鶴の家でシャワーを浴びていた。
「……どうしてこうなった」
牛頭山猛の念信によって遊水池に吹き飛ばされた隼人は、全身が濡れ、至る所を水底の泥に塗れていた。水底に堆積していた泥は、鼻をつく悪臭を放つ。それが全身に付着していれば、当然のことだが、酷く臭う。
結界が解除され、戦場となっていた公園に野次馬が近づいてきたため、三人は咄嗟に美鶴の家に退避した。
問題はその後だった。二人の後に続いて玄関に入った隼人は、女性陣から困惑の眼差しを向けられたのだ。
「……何だ?」
戦闘では泥に塗れることなど常であり、二人が困惑した理由は、当の隼人には思い当たらない。
「臭い」
と、顔をしかめて一言で切り捨てる浅江。
「えっと……沼みたいな臭いがします」
と、目を逸らして控えめに指摘する美鶴。
「うっ……」
女性二人にそう言われては、いくら鈍い隼人でも焦りに焦る。仕方なく家主である美鶴の勧めに従い、風呂に入ることになったのである。
彼としては家に上がるつもりはなかった。浅江はともかく、自身は外の騒ぎが静まるまで玄関にでも座っていれば、それでいいと思っていた。
「ふぅ……」
熱い湯に打たれながら、隼人は猛との戦闘を思い出していた。薪を割る鉈を巨大化させたような大剣を振るう葬魔士、牛頭山猛。あの男は美鶴と隼人が別れた直後を狙って、隼人を罠にはめた。
奇襲を受けた隼人は手傷を負いながらも、猛を戦闘不能に追い込んだ。しかし、予期せぬ反撃を受け、窮地に立たされてしまう。
そんな彼を救ったのが、同じ支部の御堂浅江だった。彼女が増援に来なければ、今頃、こうしてシャワーを浴びることなどできなかっただろう。
「……」
左肩を洗い流した隼人は、大剣を対魔刀で受け止めたときに負傷していたことを思い出した。戦闘の最中に出血は止まっていたが、相当な深手を負ったはずだ。
「傷はここだったか……? もう、分からないな……」
左肩に付いた水滴を払って凝視すると、傷は完全に塞がり、新たな皮膚に覆われていた。内部を見ることはできないが、おそらく皮膚の下の組織も修復が進んでいることだろう。痛みが無くなったことで、肩に傷を負ったことをすっかり忘れていた。
「……」
左肩から右腕に視線を移す。魔獣に侵蝕された漆黒の右腕は、大木ですら両断する男の一撃をしかと受け止めた。隼人の見立てでは、あの斬撃には結界をも、容易に破壊する威力があった。そんなもの普通の人間が受け止められるはずがない。いくら葬魔士が鍛錬を積んでいるといっても、生身で受け止めるのは、土台無理な話である。事実、浅江は大剣の横薙ぎを防御したが、まるで意味を為さずに易々と吹き飛ばされた。
つまり右腕だけではなく、それに付属する肉体も同様に変化が進んでいるのだ。肉体の変貌が予想以上に進んでいたことを、まざまざと知らされた隼人は、その顔を苦渋に歪ませる。
「やっぱり侵蝕が進んでいるな……」
侵蝕を示す右腕を覆う黒い痣は、肘の上から右肩に近い上腕部へとわずかにその範囲を広げていた。
美鶴を庇い、男の大剣を右腕で受け止めようとしたとき、彼女の絶叫を耳にした隼人は、その右腕が――漆黒の皮膚に埋もれた血管が、風の吹き込まれた炭火の如く赤く明滅したのを見た。
まるで微睡から目を覚まし、わずかに瞼を開いた獣のように――その一瞬だけ、右腕に宿る魔獣の因子が活性化したのだ。
「あいつの声に反応したのか……? いや、まさかな」
美鶴に念信を使った様子はなかった。念信を使えば、あの男も気付くはずだ。
「……」
意識を右腕に集中させると、美鶴が施した封印は万全に機能している感触があった。急激に侵蝕が進む際の疼くような痛みもない。どうやら、今はもう魔獣の因子は完全に沈黙しているようだ。
壁に両手をついた隼人は、濡れた床に視線を落とした。大剣を受け止めた隼人に囁いた猛の言葉が、頭の中で何度も反響していた。
「ここで殺してやった方が幸せ、だと……?」
その言葉を思い出すだけで、はらわたが煮えくり返る思いがした。あの男が何を知っているか分からないが、憐れむような口調から察するに、隼人のことだけでなく、美鶴のことも何か知っているきらいがあった。
「……そんなわけ、ないだろう」
だが、どんな理由があっても、隼人にはその言葉を受け入れられるはずがなかった。美鶴を守れ、と隼人は命じられたのだ。仮にその命令が無かったとしても、隼人個人として彼女を見捨てることなど容認できない。できるはずがない。それができないから、あの夜、彼女の悲鳴を無視しなかったのだから……。
「もう、目の前で死なれるのは……ごめんだ」
隼人は胸に渦巻く感情を深い息とともに吐き出した。体の傷は自然に消えても、心の傷は消えることがない。時が癒す傷もあれば、時すら癒せぬ傷がある。隼人にとって、あの男が放った言葉は、まさしく膿んだ傷口を抉る刃そのものだった。
「牛頭山猛……」
あの男について情報があまりに不足している。分かっているのは、猟魔部隊の追跡から逃れ続けていること。武器は鉈のような大剣であり、念信を攻撃にも使用すること。目立った身体的特徴としては、顎に傷跡があること。そして、最も懸念すべき事項は、美鶴の命を狙っているということである。
他の情報は、浅江か支部長に詳しく聞くしかないだろう。猛が美鶴を狙っているのなら、いずれ、また剣を交えることもあるはずだ。それまでに対抗手段を見つける必要がある。
「……次は、倒す」
シャワーを止めた隼人は、排水口へ湯の流れる床から顔を上げ、鏡を睨む。すると当然ではあるが、鏡に映った自分に睨み返された。
「……」
シャワーの音がなくなり、静まり返った浴室内に水滴の落ちる音だけが響く。鏡の中から睨む自分を責めるような視線に耐えられずに、鏡から目を逸らすと、その近くの棚に置かれたシャンプーやリンスの容器が目に入った。
浴室に入ったときは気にならなかったが、棚に並べられたシャンプーやリンスの入った容器は、いかにも女性用のデザインである。
「そうか、これは冬木の……」
そう呟く隼人の声が、室内に反響した。その声を聞いて、急にこの空間が艶めかしいものに変わったような気がした。思いがけず、見てはいけないものを見たように、慌てて隼人は顔を背ける。
すると不意に湯気の立ち昇る浴槽が目に留まった。浴槽にはたっぷりと湯が張られている。隼人が浴室に入ったときには、既に床が濡れていた。美鶴はもう入浴したのだろうか……と、考えた隼人は、信じられないものを見た。
濡れた長い黒髪の張り付いた白い肌。物憂げな横顔で、湯の中から右腕を持ち上げ、その腕に指を這わせるようになぞった少女――入浴している美鶴の姿である。
「な……っ!」
それはもちろん幻だった。瞬きを繰り返すと、彼女の幻影は消えていた。
「何を考えているんだ、俺は……!」
脳裏に浮かんだ幻影を押し流すように、シャワーを温水から冷水に切り替えて頭を突っ込む。数秒と待たずに冷たい水が降り注いだ。
「つ、冷てぇ……これで頭は冷えたな……」
冷水で頭を冷やした隼人は、習慣に基づいて軽く床を洗い流してからシャワーを止め、そそくさと浴室から脱衣所に出る。そこでふと、切実な問題に直面した。
「しまった。着替えがない」
隼人は自身の着替えがないことに思い至った。さすがに素っ裸で合流するわけにはいかない。それこそ悪臭の騒ぎどころではなくなる。
「全裸で歩き回るのは、さすがにまずいよな」
困り顔で辺りを見回すと、着替えの入った洗濯籠を見つけた。男物の服の上にはタオルと走り書きの書かれたメモ用紙があった。この字は浅江のものではない。おそらく美鶴が用意したのだろう。
「これをお使いください、か……」
メモ用紙に書かれた文字を読み上げた隼人は心の中で礼を言い、用意された服に着替えた。そうして脱衣所から出て廊下を見回すと、何やら近くの部屋で物音がする。間取りから考えると、どうやら居間のようだ。二人に合流するため、隼人は居間へと向かった。




