EP12 月下の死闘Ⅲ
公園の外周に目を向けると、うっすらとした半透明の壁が見えた。この公園を覆う結界はまだ持続していた。
結界のことは支部に報告していない。調査部隊が到着すれば、異常に気付いて隼人の端末に連絡を入れるだろう。
だが、連絡はまだない。結界の強度によっては電波が遮断され、通信機器が使えないこともあるが、簡易結界であれば、通信は十分に可能である。おそらく調査部隊は到着していないのだ。
呼吸の落ち着いた隼人は、男の骸に視線を戻した。結局、この男の襲撃の動機は分からずじまいだった。それでも葬魔士である以上、支部で遺体を調べれば、男の身元は判明する。彼の独断で行った犯行か、あるいは何者かが裏で手を引いているのか。それは自ずと明らかになることだろう。
「……」
組織に所属している以上、葬魔士にも規範というものがある。明文化こそされていないが、暗黙の了解として古くから存在する一種の掟――葬魔の掟、と呼ばれているものだ。
この掟では、葬魔士同士の決闘を禁止していた。かつて有力な葬魔士が権力争いや賭博の対象に利用され、葬魔機関の治安が乱れたためだ。
魔獣に肉体を侵蝕された者は例外であるが、同族殺しも禁止されている。今回の場合、隼人は一方的に襲撃されたため、正当防衛に該当するだろう。襲撃を裏付ける物証もある。おそらく掟破りにはならないはずだ。
この男が何処の支部に所属しているかは不明だが、隼人や第三支部にその非を追及されることはないだろう。
とはいえ、命を奪わずに済む道もあったのではないか。そう思うと、胸の内で深い後悔が渦を巻く。
どれだけ願っても、どれだけ祈っても、死んだ人間は蘇らない。それは多くの死を見てきた隼人にとって、心の底から分かっていることだった。
「……」
脳裏によぎる親愛な人の死の記憶を振り払った隼人は、支部に報告をしようと思い立ち、諸手の穿刃剣を腰の鞘に納める。
「……ぅ」
端末を取り出そうとした隼人は、小さな呻き声に気付いた。死んだと思った男が起き上がっていた。驚いたことに男にはまだ息があったのだ。
「お前、生きてたのか……!」
隼人の手には確かに胸骨を砕いた感触があった。それだけではない。直撃した左胸から聞こえた、あのくぐもった破裂音――左の肺は間違いなく潰した。常人では、到底起き上がれる状態ではない。
「ごふっ……」
よろめきながら立ち上がった男が真っ赤な血を吐き出した。やはり左の肺が損傷しているのだ。男は咳き込みながら、血の滴る口元を左手で押さえるも、見る間に足元に血だまりが広がっていく。
「……もう勝負はついた。無理に動くな」
助けを求めるように、男が体を震わせながら、血に濡れた左手を宙に伸ばす。大剣を担いでいた男と同一人物とは思えないほどのあまりに弱々しいその姿に、隼人は幾許かの同情の念を抱く。
今の今まで剣を交えていた相手であるだけに躊躇していたが、迷いを振り払い、隼人はゆっくりと男に近づいた。
「もうすぐ俺の支部から調査部隊が来る。そしたら応急処置も――」
男の震えがぴたりと止まった。罠だ、と察した隼人は剣を構えようとするが、遅かった。
『飛べ』
抜刀する間もなく隼人の全身を強い衝撃が襲った。地面から足が離れ、体が宙に浮く。まるでバットで打たれたボールよろしく空を飛ぶ。
「がっ……!」
隼人の背後は階段だった。そこには彼の飛翔を妨げる障害物は何もない。隼人は階段を軽々と飛び越え、撃ち出された砲弾のように吹っ飛んだ。
まるで放り投げられたカメラのように、隼人の目に映る景色が出鱈目に流れた。背を打つ強い衝撃と激しい水音、そして体を包む冷たい感触。気が付くと隼人の体は水中に沈んでいた。どうやら公園西側の遊水池まで飛ばされたらしい。
「げほっ……げふぉ……」
咳き込みながら水面から顔を出した隼人は、体中に走る痛みに顔をしかめながら、ふらふらと立ち上がる。
かつん、と遠くから響く靴音が隼人の耳に届いた。戦闘中であったことを思い出した彼は、音のした方向に目をやると、遠くに大剣を手にした男の姿を見つけた。まるで絶対の優位を示すかのように、悠々とした足取りで遊水池へと続く階段を下りてくる。
「……!」
男が平然としていることに、隼人は驚愕した。彼自身、常人よりも早く傷を再生することができるが、それは魔獣をその身に宿しているからだ。どのような事情で復活したのかは不明だが、まるで深手を負ったのが嘘であるかのように、男は依然健在だった。
「……くっ」
水場から離れようと足を動かそうとした隼人は、眉をひそめた。遊水池の水位は膝上の高さであり、思ったほど深くなかった。しかし、水底に堆積した泥は、隼人の踝をすっかり包み込むほどの深さであり、抜け出すことは容易ではない。いかに彼の敏捷性が高くても、この泥濘では機動力などあったものではない。隼人は頼みの綱であった足を封じられていた。
更なる追撃を恐れた隼人は、なんとか泥濘を抜け出そうと男の隙を窺う。彼の目の前には、飛び石のように水面から突き出た岩が置かれている。この岩を踏み台にすれば、遊水池に面した草地に飛び出すことはそう難しいことではない。だが、男もそれは百も承知だろう。隼人が岩に足を乗せようと動けば、たちまち大剣を振るおうとして、飛んでくることが目に見えている。
一歩ずつ確実に迫ってくる男を、見上げるようにして隼人は睨んだ。すると突然、男が階段の踊り場で足を止めた。
「……敵に情けをかけるとは、とんだ甘ちゃんだ」
「なっ……!?」
今まで会話らしい会話をしなかった男の言葉に、隼人は驚きの声を漏らす。
男は隼人の様子を気にも留めずに、大剣を持っていない左手をフードの端にかけると、勢いよく剥ぎ取った。
「……!」
隠されていた男の素顔が露わになった。曇天のような鈍色の短髪に彫りの深い顔。険しく刻まれた眉間のしわのせいか、実年齢より高く見えるが、おそらく歳は三〇代前半といったところだろう。
顎の傷痕をなぞるように垂れた鮮血を左手で乱暴に拭うと、その血を整髪料の代わりにして、男は乱れた前髪を無造作に撫でつけた。
「殺すならさっさと止めを刺せ。肺の一つを潰した程度で気を緩めるな」
まるで教え子に諭すように、男は淡々と言った。
「ちっ……」
隼人自身、己の甘さに悔やんでいたところだった。そこにこの説教である。彼の苛立ちは強い舌打ちに表れていた。
「……ここまで無様だと呆れるな。なぜお前は力を使わない?」
「力、だと……?」
「とぼけるな。お前たちが絶対禁忌と呼ぶ力のことだ」
「なっ……!」
何を言ってるんだ、と隼人は困惑する。自身を蝕むことはもちろんだが、猛毒の瘴気を周囲に撒き散らす右腕をおいそれとこんな市街地で使えば、どんな被害が出るか想像もつかない。
「まさか、一太刀浴びせた程度で満足しているのか?」
「そんなものではないだろう、葬魔士。右腕の封印を解け。獣鬼を消し飛ばしたあの力……もう一度見せてみろ」
隼人の困惑がさらに深まり、動揺に変わる。
「もう一度、だと……? まさか、あれは!」
『そうだ、俺があの獣鬼を呼んだ』
男が念信の声で答えた。
「念信か……!」
『お前たちのことはすべて見ていた』
「見ていた、だと……なんであんなことをした!」
『答える義務はない』
「俺が狙いか……」
『お前が? ふっ……お前は余興だ。俺の狙いは別にある』
「!」
男の視線がちらりと美鶴の家の方角を向いた。それで隼人は、ついさっき男に目的を問い詰めた際、剣で隼人の右腕を指し示したのではなく、彼女のことを指し示していたのだと理解した。
この男は隼人との戦いを余興だと言った。隼人を仕留めた後で、美鶴を襲うつもりなのだ。
「そうか、あいつか……!」
隼人はあえて美鶴の名前を伏せた。それでも、この男には伝わったようだ。しまった、と言わんばかりに舌打ちをした男には、今までの余裕は完全に失われていた。
「そういうことか。獣鬼と群れを呼んだのも、混乱に乗じてあいつを……」
「ちっ、しゃべりすぎた。もういい、お前はここで死ね」
「――!」
強い殺気を感じた隼人はせめてもの抵抗を試みようと、双剣を構えた。だが、男は足を止めたまま、動かない。そうして空いた片手を持ち上げた男は、その手の平を隼人に向け、何かを掴むように宙を握った。
「……?」
隼人が男の行動に首を傾げた直後、全身を強い重圧に襲われた。それはまるで巨人の手で握り潰されるようだった。念信だ、と男の攻撃手段を見抜いたものの、身動きが取れない。
「――が、ぁ……っ!」
全身を押し潰すような重圧で隼人は呼吸ができない。男の攻撃を中断させるため、武器を投擲しようと右腕を動かそうとしたが、体の自由が利かず、するりと手から剣が抜け落ちた。
念信に抵抗する策を見出そうと、隼人は思考を巡らせるが、酸素の足りない脳は徐々に活動を鈍らせていく。もはや隼人は自身の足で立っていることすらままならず、男の念信で姿勢を固定されて倒れずにいる有様だった。
「……興醒めだな」
「う……っ……」
徐々に意識が遠のく隼人は、抵抗する力も弱まっていった。力の抜けた左手から穿刃剣が離れ落ち、水面を叩いて、激しい飛沫と水音を立てた。
無防備になった隼人を見て、勝利を確信した男は階段を下り、遊水池に面した草地の広場に歩を進めた。
「ふっ、念信防御もできないのか。ここまで無抵抗とは呆れ――」
鼻を鳴らして嘲り口調で話していた男は、そこで言葉を切ると、探るような視線で隼人を見た。
「……力が弱められているな。そうか、飼い慣らすために抵抗力を下げたのか」
その呟きは窒息寸前の隼人には届かない。自身を挑発する言葉を男が言ったと勘違いした隼人は、念信に必死に抗おうと奮起する。
「まだ……だ。まだ、死ね……な、い……!」
「いいや、もう終わりだ」
勝利を確信してもなお、隼人の反撃を恐れているのか、男は不用意に間合いを詰めずに念信の力で圧殺しようと力を強める。
「ぁ……」
それはもはや声ではない。体内から締め出された空気の鳴らす音が喉から漏れた。強い力で首を押され、顔が跳ねるように上を向いた。焦点の合わない隼人の虚ろな目は、月の浮かぶ空を映していた。
それでもなお、隼人はどうにか途絶えかけた意識を保ち続けていた。ぼやけた視界の中で真円から欠けた月が明るく輝く――と、その月に異変が起きた。
「……?」
天上の月に亀裂が走った。月だけではない。間を置かずに空全体に亀裂が走り、ガラスの割れるような音とともに砕け散った。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。




